星を眺めし宙の匣
森の中は、まるで別世界だ。一歩目を踏み出した時から妙な気配……いや、視覚的な異変を感じている。碧花さんの影響とも言い切れなくはないが、森に広がる糸が消えていく。奥へ延びる糸は段々と薄くなって、視界の限界点ではもう視えなくなっている。
怖くなって後ろを振り返ると、マキナの眠る車の頭部がそれとなく見えた。それだけが俺を現実に戻してくれる。
「……行きますよ」
「は、はい」
碧花さんを見失ったら、この山から出られなくなるような漠然とした不安を心に残しながら、せめてそれが実現しない様に付いていく。足場は非常に悪い。登山靴が必要とまでは言わないが、元より人通りのない山は整備などされていないから、歩くだけでも非常にゴツゴツしている。今はまだ日が差し込んでいるものの、先を歩く碧花さんの身体には光が当たらなくなりつつある。不必要に、或いは無駄に暗い。天を仰ぐにも茂る木の葉が空を隠してそれもままならない。
―――嫌だな、何か。
暗い所は無条件に怖がる程臆病になったつもりはない。そんな奴はまず夜に出歩かないし、廃病院にも忍び込んだりしない。大勢が見ている中でアイドルの告白を断る勇気もなければ、そもそもマキナと関わろうなんて思わない。
ただココが暗いのだけは、嫌だ。
「あ、碧花さんちょっと待ってください。て、手を繋ぎたいんですけど!」
「お断りします。私、これでも人妻ですよ? 浮気に興味はありませんし、夫以外の男性とも出来れば関わり合いになりたくないのです。ご理解ください」
「でも……怖いんですけど!」
背中を奔る悪寒。早く上れと追い立てるかの様な、或いは命の危険を知らせる本能の様な。こんな悍ましさは久しぶりだ。それは……そう。こゆるさんを守って俺が死にかけたあの時、マキナが感情を荒らぶらせていた時に味わった感覚。
風が止んで、草木が沈黙する。
刻を忘れて日は過ぎ去り、糸は完璧に消え去った。
「…………では、目でも瞑ってみては如何でしょうか。怖い物は見ない。そういう選択もありだと思いますよ」
「転ぶじゃないですか」
「―――いいから、目を瞑ってください。私がいいと言うまで目は開けないように」
言われた通りに目を瞑ると、身体の芯から熱を奪うような絶対零度の感触が俺の手を握った。しかしそれは氷ではない。握り方も変だ。手を手が握っているというより、全体を覆っている。皮膚の表面がぞわぞわして、ぞくぞくして、今にも手を引っ込めたくなる。
碧花さん、ではないだろう。では一体何が俺の手に触れているのか気になるが、従うべきだ。この感触は別に俺をどうにかするつもりはない。ただゆっくりと手を引いて、俺を導くように流れていく。
荒れ果てた山道に刻まれるのは、二人分の足音。足元はあんなに凹凸だらけで歩きにくかった筈なのに、別に足を大きく上げているとかではなくて、単純に転ばない。
世界から、音が消えた。
足音が聞こえない。いよいよ地面を歩いているのかも怪しくなってきた。
「碧花さん、居ますか?」
返事はない。無の環境で俺の声だけが響く。目を開ければハッキリするかもしれない。けれどまだ碧花さんから何も言われていない。俺の想像以上に俺は何も知らないし、世界はまだまだ秘密を抱えている。彼女は自分を世界に大勢いる特殊な人間の一人だと言ったが、俺は自分の事で精一杯で、他の何にも目を向けられない。
だからせめて、慎重に行動したい。衝動に突き動かされる事なく、あくまで理性を念頭に。何処を歩いていても関係ない。マキナが待っているのだ。なんにせよ戻る。非現実におびえる必要はない筈だ。だって俺が好きになったのは―――そういう女の子だから。
「…………もう、目を開けて大丈夫ですよ」
奪われた体温を戻して、冷たい何かはありもしない風に流されて消えていった。ゆっくり目を開くと、そこは山の頂上で。空を覆い隠していた木々は切り開かれたように無くなり。それはもう綺麗に、これ以上なく美しく。あれ程求めていた月が視えていた。
―――何で、夜になってるんだ?
「安心してください。『ココ』が夜になっているだけです。さあ、月をご覧ください。今なら視えますよ」
言われなくても眺めている。一切の糸が絡まない月を、一足先に見てしまった。俺にとってはあんなに追い求めた月。感動する事も叶わなかった視界で、初めてとらえたまともな景色なのに……おかしい。感動しない。視る時間が足りないのかと思い引き続き眺めていると。
月の裏側から腕が生えてきた。
遠近の概念を取り入れても不自然さを拭えない巨大な両腕が出現。二十本の指と十七本の指が月全体を掴み、引っ張るように力が込められる。
「なん………………だ」
例えるなら登攀に近い。両腕は自分の体を持ち上げる為に、月を取っ手代わりにしているのだ。宙全体が震え、空間に罅が入っていく。俺達が視ている宙はまるで偽物。剥落した空間の欠片が俺達の所に落ちてくる。
巨大な両腕が引っ張り上げたのは、巨大な一つ目の怪物。闇の様に黒く星のように輝いた単眼の生物は周囲の光を吸収して、その瞳を七色に輝かせる。その怪物の正体を視覚で理解してはいけないと生物の本能が悟った。
腰から下の感覚が消失し、その場に崩れ落ちる。
「あれが機怪の正体です」
碧花さんの言葉に微かな現実を覚える。一目見るだけでも身体がすくんで歪められてしまいそうな圧力を前に、彼女は平然と佇んで上を見上げていた。
「大丈夫。彼方からこちらは見えていませんから。むしろ気付かれていないからこそこうして観測出来ていると言ってもいい」
「……………………あ、あれ、は」
糸など視えない。だが俺には分かる。あれはこの世の摂理の裏側の存在。光の裏には影があり、影がなければ光がまた存在できない様に、あれは現実を構成する物理法則に潜むもう一つの理。現象でありながら生きている、さりとて生命体ではないそういう存在。人間が、いや生物が一度として出会ってはいけないモノ。あれを知ったが最後、現実は空想にすり替わる。
「あれはですね、ずっと現実世界を監視しているんです。貴方の知る女の子やクデキさんが何故人間に酷似した姿をしているか、ご存じですか?」
「…………いや。で、でもキカイは…………世界のバランスを保つ為に存在してるから……変な混乱を…………起こさない為、とか」
「世界のバランスなど保ちませんよ。あれはこの星の支配種―――人類を観測する為に己の分身を産み落とすんです。彼らが人間に酷似しているのは人類のデータが溜まっているからですね。何故そんな事をする必要があるのかは謎ですが―――秩序を保っている様に見えるのも、その一環。人類は今後もあれに観測され続けるでしょう。大人しく、箱の中の動物の様に。そうでなければ困る。動機は不明でも、あれは断じて世界の治安維持システムではありません」
「いや…………いやいや、いや。だって先輩は……キカイ全体はそういう秩序で、こっちで活動するのは実行部隊みたいなものだって……」
「その事なら、既に答えました。人類の観測とは目視に留まらない。生活圏の中で過ごし、獲得した知恵や感情等も含みます。心当たりはありませんか? 出会ったばかりのキカイは何故感情が希薄なのか」
それはないが、未紗那先輩と当初会話がかみ合わなかった部分の答えだ。ただ、思い返してみれば出会った当初のマキナはもっとトゲがあって、微妙に他人行儀だった気もしている。あそこまで露骨に好意を示してくる事はなかった。
「キカイは秩序でも何でもありません。あれは記録。人類の歴史を直に感じる為の神経です。彼らが秩序を保っている様に見えるのは、人の中で過ごす内に感情を獲得するから。そして無意識に働く観測の障害排除の結果です」
「……………………」
俺達を認識していないとは言っているが、七色の瞳がじっとこちらを見つめている。瞬き一つせず、ただ俺と碧花さんを見下ろして、沈黙を守っている。
「…………じゃ、じゃあ。ぶ、部品は? 部品を回収したらマキナは何処かに帰るつもりで……」
「………………帰る? 帰宅ですか? 還元の間違いだと思いますよ。神経が自らの意思で戻ればそれまでに得た経験や感情、記憶などを引き渡してそれでお終いです。次に出会う事があったとしても、その時はもう―――」
ギギギ。
心臓が久しぶりに、軋んだ。
「…………どうすれば。帰らない様に出来ますか?」
「あれは別に命令を出したりはしません。あくまでありのまま、自然体を記録します。だから本人がその気にならなければ……と言いたい所ですが、今はそうではありませんね。幻影事件が起きてしまったので」
「ど、どういう事ですか?」
「幻影事件が起きる前と後で世界は決定的に変わってしまいました。あれは月からそれを観測していますが、内部事情等については把握しきれておりません。もしもクデキさんがフィードバックされるようなら……」
碧花さんが口を噤む。何かを躊躇し、言い淀んでいるのだ。
「―――どうなるかは想像もつきませんが、何も起きないはあり得ませんね。幻影事件はそれ程重大な事件ですから」
クデキは幻影事件の犯人だ。それは間違いない。では何故そのような事をしたのだろう。聞いている限りアイツには何のメリットもない。まるで観測の邪魔をしようとしているみたいで、それもメリットというよりは嫌がらせに近い。
「碧花さんは幻影事件を知ってるんですか?」
「興味はそれほど。自衛のみで済ませておりました。それもクデキさんに直接確かめればよろしいかと。機怪の正体を知った上でなら教えてくれると思いますよ。こう一言、伝えればよろしいのです。『俺は月の獣を視た』と」
『俺達の事を何も知らないようだ。知らない癖に、そうあるべきなどと役割を与えるのは愚かだな。やはりお前は駄目だな。全然駄目だ話にならない。あれに崇高な大義などないさ。身勝手な理由だよ。それ以上でもそれ以下でもない』
クデキは俺を馬鹿にした。キカイについて何も知らないと。そして幻影事件に崇高な大義などなく、身勝手な理由だと言った。
その一方でマキナは何かを知っている素振りがない。自分がどう生まれたかも分からないとさえ言っていた。漠然と感じる使命とやらも、恐らくあまり重要視はしていない。恐らく混同していると考えていい。元から心臓に当たる部品が無くてキカイとしては不完全だったのだ。部品が自分の身体なら、取り戻そうとするのが当然だ……恐らく『人類』として。
―――知識差があるのは、間違いないな。
「では、そろそろ帰りましょうか。ここはあまり心地よい場所ではないでしょう? 私もそう思っていますよ」
「…………どうして碧花さんはそんなに詳しいんですか? っていうかそもそもここは……何処なんですか?」
「質問には一つ一つお答えいたしましょう。一つ目、生業だから。二つ目。ここは『裏』の世界です。あれにも観測出来ない未知の領域……などという言い方をしてもカッコ悪いですね。お化けの世界と言えば分かりやすいでしょうか」
「お化けなんて、居ませんよ」
「はい、そうですね。お化けは居ません。それが機怪の観測している現実です。幻影事件が何故ここまで重要になっているかという理由はそこに集約されています。あれは無理やり『裏』を『表』にひっくり返そうとしました。完璧な観測を望む存在が己の錯誤に気づいたらどう動くでしょうか―――これ以上話す事はありません。山を下りましょう」
碧花さんに促されて、俺は踵を返すように歩き出した。去り際、気づかれたくて手を振ってみたが、機怪に気づいた様子はない。どうやら本当に見えている訳ではないようだ。ただ偶然、たまたま視線がそこにあっただけ。
月の獣は、いつまでも地上を見下ろしていた。




