キカイな異ノ知を愛するならば
「………………え。えっと」
緊張している。殺意も敵意もないが、どす黒く染まった糸に気圧されて口が動かない。こんなに張りつめているのはいつ以来だ。お互いにそうであればまだ良かったが、碧花さんの方は非常にリラックスしているように見える。時々髪を掻き上げては困った様に俺を見つめている。
「用件もないのに私を呼び出した……なんて仰いませんよね?」
「いやいや、それはその……用件はあります。ただその……緊張しちゃって」
「緊張?」
「あ、碧花さんがあんまりにも綺麗なので!」
実際の事情は違うが、一割くらいは本当だ。綺麗は綺麗でもマキナとあまりに方向性が違い過ぎてどういう接し方をすればいいかが分からない。辛うじてタイプが近いのは牧寧だが、それもそう感じるのは髪型が似ているからだ。他の誰とも似通わない女性を前に、いつになくドギマギしている。深窓の麗人というか深淵の麗人というか。何から何まで正反対なので、今までの経験が役に立たない。俺にはこの人の存在の方がよっぽど非現実的である。
碧花さんは指輪をもう片方の手で愛おしそうに撫でながら、見かねたように言った。
「……そういう御方とは限りなく縁がございますが、その反応をされたのは初めてですね。では少し他愛もない話を致しましょうか。何でも構いませんよ、気になる事があれば、何なりとお尋ねください」
「…………な、何でここに来てくれたんですか?」
「何故と言われましても。仕方なく、です。私は現在全ての仕事にお休みを頂いておりますので、通常であれば事情に拘らずお断りさせていただくのですが、夫に『お前を頼りに来たならよっぽどの事だから行ってやれよ』と説得されました」
「け、結婚してるん……ですよね。指輪……」
「五年程前に結婚しました、厳密には五年と百七……いえ、これはやめておきましょう。休んでいたのも、子供のお世話をしないとと判断したからです。既に三人……体型を回復させるのも一苦労ですが、やはり結婚は良いものですね。子供は一人でも二人でも苦労しますが、私にとっては些細な事です。それよりもずっと、痛い思いをしてきましたから」
「…………少し気になったんですけど。子供が増えるとやっぱり二人きりの時間が無くなったりするんですか?」
「一般的には、その通りでしょうね。しかし私達は共にそれを望みませんでした。幸い、環境には恵まれていましたから、今も二人きりの時間を減らす事なく、日々を平穏に過ごしていました」
「……いました?」
「ここに呼び出されて平穏に過ごしている、は無理があるでしょう?」
何処まで喋っても碧花さんは淡泊で感情の起伏が平坦だが、機嫌を悪くしているのは何となく分かった。怒らせると物理的に災害が起きるマキナの方が怖いのかもしれないが、何をするか得たいが知れないという意味ではこの人に軍配が上がっている。自分でも驚く程滑らかに、次の質問が頭に浮かんできた。
「こーどもって! やっぱりたくさん居たら大変ですよね。 もしかして子供を留守番させてるのが気になって、早く帰りたいとかって感じ……ですか?」
「―――夫はかなり大雑把な所がありますが、一人で全部抱え込む性根でもありませんからそのような配慮は不要です。しかし早く帰りたいというのは当たっています」
「……」
気難しいというのはこういう事か。
俺の分析した限りだと、旦那の事を喋らせると多少機嫌は良くなるがそれも誤差だ。帰りたいオーラを出す奴は何処にでもいるが、率直に帰りたいと言い出す奴は稀だ。もう少し打ち解けないと、俺もまともに話せる自信がない。
「じ、実は俺の近くにも……恋人っていうか…………凄く仲の良い奴がいるんですけど。なんかそいつ、結構価値観が偏ってて。実際の所の夫婦っていうのは、二人きりの時間に何をするんですか?」
「……式宮さん。結婚というのは互いに渇望してやまない男女が限りなく愛を深め合う為に取り交わす契りですよ。何でもするに決まっているではありませんか。恋人の頃の様に、或いはそれ以前―――トモダチだった頃の様に。これからも末永く死では到底分かてないくらいに深く深く愛を通じ合わせ、身も心も全て知り尽くした上で尚も互いを求めあう。そういう時間ですよ。私は片時も彼を忘れた事はありません。日が昇って沈むまで、彼と繋がって過ごす時間はかけがえのない大切な瞬間です」
愛が重い。
もし俺が同じ気持ちをぶつけられたら胃もたれになって嘔吐するのではというくらいの熱量を浴びた。人となりはそれとなく分かってきたが相変わらず怖い。これは別の意味で恐ろしい。
「―――凄く、旦那さんの事が好きなんですね。えっと、じゃあ一つ聞きたいんですけど、浮気とかされたら………………やっぱり、許しませんか?」
「浮気? ふふ、私より彼を虜に出来る女性が居るとは思いませんね、身体は正直ですから。これでも出産の度にスタイルを完璧に回復させてるんですよ」
女性としての圧倒的な自信を感じる一言に、何も言い返せない。彼女の旦那を話の軸に結構打ち解けてきた筈なのに、まだ圧倒されている。どうしよう。俺も早く帰りたくなってきた。怖い筈なのに。恐ろしい筈なのに。手を口元に当てて雅に微笑む碧花さんに視線が吸い寄せられてしまう。
「…………さて。雑談はこれくらいで終わりにいたしましょう。本題を」
「え……ああ。はい。実は未紗那―――未礼紗那さんから貴方の事を聞いて、頼りに来ました。事情は詳しく話せないんですけど、メサイア・システムのトップであるクデキの所に行きたいんです。何とか、助けてくれませんか?」
「理由を」
「へ?」
「理由ですよ。事情を離せないと式宮さんは仰いましたが、彼の所に用事があるならば大方の事情は『機怪』絡みでしょう。彼には事情があって個人的に僅かな肩入れをしています。相応の理由がなければその仕事は引き受けられません」
「相応の理由って………………言っても分からないですよ。人を殺したから、じゃ駄目ですか?」
「正当性を問うている訳ではございませんよ。私が質したいのは譲れない理由です。それとも……『機怪』について教えるべきでしょうか」
「は。…………えッ」
「『機怪』について何も知らないのでしょう。未礼さんが私を頼らせたなら、それくらいは教えますよ。少し遠出をする事になりますが……どうなさいますか?」
「―――お願いします」
即答だった。
碧花さんが立ち上がって、車のキーを見せつけてきた。
「ではこの建物の裏でお待ちください。貴方の知り合いが置いてきた車を取りに―――それと少々、着替えさせてもらいます」
マキナはどうしても碧花さんと面と向かって会いたくないようで、車で遠出する旨を伝えても『後ろから付いていく』の一点張りだった。こういう所は変わらず頑固である。言われた通りに廃墟で待っていると、黒塗りの高級車がやってきた。
運転席には碧花さんが乗っていて、その服装はVネックの黒いブラウスにジーパンと先程とは打って変わって大分カジュアルな恰好になっていたが、それ以上に変化したのはスタイルだ。人間で未紗那先輩よりスタイルが良い人を初めて見たし、多分今後も見る事はない。比較対象がマキナになってどっちが良いかどうかという次元になってしまうから、これはもう争うだけ不毛だ。着物でスタイルがボケていただけで、マキナを知る俺から見ても碧花さんはグラマラスだった。
ブラウスの生地が大きく張って、その大きさを物語っている。その癖ウエストには余裕があって、文句のつけようがない湾曲が服越しにも何となく分かる。
――――――印象が変わり過ぎなんだけど。
「さっき着物を着てたのは何だったんですか?」
「一応、私にも立場がありますから。それ以外の理由としましては……着物姿での運転に慣れておりません。痴情のもつれみたいな状況には大袈裟でもありました。後部座席にご乗車下さい。安全運転を心がけます」
「何処に向かうんですか?」
「言っても理解出来ないと思いますが」
同じ様な言葉で返されて、複雑な気持ちになった。碧花さんはルームミラー越しに俺を見つめて、また直ぐに視線を外す。
「黄泉平山。月巳市にある山で、自殺スポットとしても有名ですね。だからと言って心中をするつもりはございません。それでは、出発しましょう」




