心地よい夢には現実がつきもの
「「ご馳走様でした」」
レシピを逐一確認しながら作る夜食は本当に酷い物だった。味の保障は出来てもテンポがとにかく遅い。それでも牧寧は文句一つ言わずにすべて平らげてくれた。とても美味しかったとは言ってくれたがそれはお世辞ではないだろう。この世で最も人を満足させられる調味料はずばり空腹だ。ほぼ丸一日眠っていた妹にとって俺の料理は食べられる範囲内であれば三ツ星レストランも斯くやという状況だ。まずいというのは要するに人体が口にしてはいけないライン。
「これからも時々兄さんに作ってもらおうかな」
「……やめてくれって言いたいけど、頼まれたら頑張るよ」
「ふふっ。冗談ですよ冗談。兄さんのお世話は私の役目ですから。その役目はたとえ兄さんが相手でも渡しませんよ」
「―――頼りにしてるよ。まあでも今日くらいは代わるさ。食器洗うのに時間かかりそうだから先に風呂入れよ」
「兄さんは一緒に入ってくれないんですか?」
「食器洗いを手抜きで終わらせていいなら入ってもいいぞ」
「……意地悪な人。では少しでも汚れが残っていたらいかがいたしましょう。湯船の中でゆっくり考えさせていただきますね?」
食器を洗うのは慣れていない。それ自体は出来ても熟練度では遥かに劣る。だから水も余計に使うし洗剤も余分に使う。牧寧が入浴に行ってくれたのは不幸中の幸いだ。これで私も手伝うなどと言われた日にはあまりのお粗末さに怒らせていたかもしれない。
―――妹じゃないなら、全部本気なのか?
俺と結婚だの、一緒に風呂へ入ろうだの。アイツなりの誘惑という事なのだろうか。全く靡ける気がしない。するとやはりカガラさんのような悪戯だと考える方が自然だ。一体全体何がどうなっている。俺を巡って二人の妹がなんのかんのと争う図に誰が得をしているのだ。
ピンポーン。
「…………あ?」
こんな時間に来訪者とは、珍しい。家を訪ねてほしいと頼んだ覚えもなければそこまで交流も広くない。考えられるとすればマキナだが、アイツはアイツで精一杯俺を気遣ってくれているので、用もなく訪ねてくるとは思えない―――が、用があるとすれば話は別だ。
兎葵が俺に頭突きをして、鼻血が出た。その血痕は拭き取ったつもりだがキカイにどう見えているかまでは分からない。その可能性を否定する材料がない以上、俺にはこの訪問を無視できる道理はない。
『兄さん? 申し訳ないのですが出てくれませんか?』
妹にも逃げ道を絶たれたので出るしかなくなった。水を止めて手を拭き、欠伸も程々に玄関へ向かう。
「………………えっ」
思わず、声が出た。予想なんて出来る訳がない。脈絡もなければそのような兆候もなく、そもそも俺達の仲は悪かった筈だから。
「……助けて、兄ちゃん」
式宮那由香。俺の妹ではあるものの、その関係は牧寧はおろか兎葵以上に険悪だ。目を合わせれば喧嘩を吹っかけてくる感じで、できれば互いに関わり合いになりたくない存在だった。家の場所も教えていない筈なのに、何故かいる。全身に打撲痕と切り傷、無数の痣をつけて。
「ど、ど、ど…………ちょ、ちょっとえ。ちょっと、は?」
「私が、馬鹿だったんだよ。だから、助けて。お願い。兄ちゃん」
「………………」
糸に嘘はないし、喉を這いずるような掠れた声で言われて疑おうなどとは思わない。牧寧はまだお風呂にいるが、どうしようか。呼ぶほどの事かもしれないしそうじゃないかもしれない。どこを触っても痛がりそうな気がしたので体に触れないように視線を合わせて、出来るだけ優しい口調で尋ねてみる。
「……何があった?」
「お父さんに殴られた。お母さんに殴られた。お姉ちゃんが出て行ったのはお前のせいだって。毎日される。家に帰りたくない」
「…………?」
牧寧が出て行ったのは那由香のせいかと言われたら、それは違う。どちらかといえば俺のせいだし、両親は彼女を虐待する程嫌ってはいなかった。それはむしろ俺の方で……俺も別に。毎日虐待されていたとかでもないし。
「―――とりあえず、入るか?」
そういえば、俺には妹が三人居たのだ。牧寧が偽物なら自動的に彼女も偽物だが、妹は妹。仲は悪かったがこんな風に頼られたら無碍には出来ない。せっかくの二人きりの空間を台無しにされた事は残念だが、それよりも事情だ。
「傷の治療か……いや病院に頼むべきいや……いや……うーん。痛くないか? 耐えられないってくらいなら救急車を呼ぶんだけど」
「……」
那由香は頭を振って俯いた。そんな訳はないのだが、あれだろうか。結局親元に連絡が行く可能性を危惧しているとか……虐待自体信じがたいが、それが事実なら筋は通る。そうなると俺が彼女の傷を治せる手段はマキナに何とか頼んで『傷病』の規定で治してもらうくらいしかないが……アイツを無関係の人間に紹介するのは何か違う。
「お姉ちゃんは」
「風呂だ。……なあ、命って言われてるから聞くべきか迷ったんだけど……髪、なんでそんなボロボロなんだ?」
俺が気にしているのは那由香の髪の毛について。かつて見た時は牧寧に習って長く伸ばしていたが、今は長いとか短いとかそういう話じゃない。歪だ。髪型として成立していない。中途半端に短かったり長かったり。
「……お父さんに引き千切られた」
「…………………………」
たった一言の悍ましさに声も出ない。髪は女の命だ。それを引き千切るなんて考えただけでも怖気がする。次第によってはマキナの理不尽よりも恐ろしい。小規模な暴力こそかえって身近で、だからこそ生々しく―――想像したくないものだ。
「…………兄ちゃん、ごめん」
「何も怒ってないぞ」
「私を、まだ家族だって思ってる?」
「……ノーコメントだ。でも距離が離れたお陰で優しくなってる可能性はある。だからそういうのは気にしないで……このままでもいいんじゃないか」
「兄さん、こんな夜遅くに誰が訪ねて―――」
牧寧が入浴を終えてリビングに戻ってきた。どこぞのキカイと違って破廉恥は弁えており、既にピンク色のパジャマに着替え済みだ。その代わり脱衣所には妹の下着が置き去りにされているが、それは同居上、仕方がない事だ。家族にそこまで気を遣うのは馬鹿らしい。
「…………あら、那由香。どうしてここが分かったのですか?」
「…………お姉ちゃんッ」
俺の扱いはさておき、彼女にとって牧寧はいつだって大好きな姉だ。途端に感情をむき出しにしたかと思うと、そのボロボロの体を飛びつかせて一生懸命に抱き着いた。可愛い方の妹は困惑しながらも背中をさすって慰めている。
「怖かったぁ…………こわかったよぉぉぉおおおお……!」
「……兄さん。こういう時はどうすればいいでしょうか」
「―――とりあえず、一泊させないか? こんなにぼろぼろの奴を放り出すのはちょっとな」
「……兄さんがそう仰るのでしたら」
明日、久しぶりに以前の家を訪れてみようか。これは流石におかしい。何か原因がなければ起き得ない事件だ。
「とりあえず治療を頼む。出来る限りでいい。明日は病院に連れて行く……前に、俺は両親の様子を見に行くよ」
「……では私はこの子の面倒を見ておきますね?」
「頼む」
倒すべき対象はクデキだとハッキリしたのに。世の中うまくいかないものだ。次から次へとトラブルが舞い込んできて。突然の出来事で動揺してカギを閉め忘れた事に気が付いた。ないとは思うが両親が追い打ちをかけてくる可能性も皆無とまでは言い切れないので駆け寄ると、今度はチャイムではなく着信音が鳴り響いた。
電話の主はカガラさんだ。
『…………切っていいですか?』
『ええ? 自分で言うのもなんだけどさ、まだ何もしていないよ? それなのに君は電話を切るのかい?』
『すみません。ちょっと色々あったんです。何か用ですか?』
『用ってほどの用は………………思いつかないな。年下の男の子の声を無性に聴きたくなったって事じゃ駄目かな?』
『……メサイア・システムって暇なんですね。未紗那先輩が指名手配されてるのに』
電話口から離れた所で「仕事は全部終わらせたんだけどなあ」と愚痴る声が聞こえる。俺もそこまで迷惑だとは思っていないが、ちょっと頭が混乱している。那由香とカガラさんの電話に何か関係があるのではないかと。無かったようだ。
『じゃあそんな暇なカガラさんに頼みたい事があるんですけど、大丈夫ですか?』
『はいはい。もう暇人って事でいいから、言ってみなよ。出来る限りは応えよう。紗那もいないしね』
『まず、明日ちょっと待ち合わせしたいのと―――』
『ふんふん』
『俺をメサイア・システムに入社? させてください』




