妹はそれでも妹のまま
『距離』の規定で無事に自宅まで帰ってきた所だ。一応買い出しの体を取りたいので、兎葵には買い物も手伝ってもらった。ほんの少しだけ関係性が変化した影響だろうか、ひねくれてばかりだった少女が途端に素直になって、極々普通に買い出しを手伝ってくれた。
「…………額は念入りに洗っとけよ。アイツ、臭いに敏感だからな。俺の血だってわかったら何されるか」
「……うん。適当に洗っとく。誤魔化せるなんて思えないけど。頑張る」
「―――じゃあな。気を付けて行けよ」
「…………うん」
その代わりと言っては何だが、今までの彼女からは考えられないくらいに大人しくなってしまった。心なしか短いツインテールにも元気がない。別人のようというか……俺に言わせるなら、別人だ。勿論、俺が選んだ選択のせい。
―――アイツがメンタルケアとかしてくれるとは思えないな。
結局喧嘩の原因はいつもの押し付け合いだが、マキナにとって大切なのは今であり、過去に拘る彼女を嘘でも慰めようなんて、そんな繊細さは持ち合わせていない。諒子は人間だが、全く事情も知らなければ人間関係の作り方も慣れていないので難しいだろう。下手に声をかけても逆上されるだけだ。もしも慰められるとすれば……過去にとらわれている先輩が適任だが、当の本人にそんな余裕があるかといわれると、微妙な所。
「兎葵」
ならばまがりなりにも兄貴らしい俺がどうにか励ましてやるべきなのか、と思って声をかけたが何も思いつかない。
雨が降り出してきた。
にわか雨にはならず、本降りになるだろう。早く何か言わないと、お互いびしょぬれになって風邪をひいてしまう。
「…………有難う。買い出し手伝ってくれて」
「別に、これくらい気にしないでください。私にも有珠希さんにもやる事があるんですから。それじゃあ」
『距離』の規定で雨の心配はしなくてもよさそうだ。俺も早い所帰らなければと、マンションの階段を上る。現在時刻は午後七時。朝から何十時間も妹を一人にしてしまった。携帯に電話やメッセージをかけてこないあたり、意外とまだ眠っていたりするのだろうか。まさか俺が出払っている内に立ち直ったとは考えにくい。いや、立ち直ってくれたのならそれが一番いいのだが。
「ただいま」
家に帰ると、ブレーカーが落ちたのかと錯覚するくらい電気が点いていない。慌てて部屋の電気をつけたが、リビングや台所に彼女の姿はなかった。浴室や洗面所はそもそも使っていないとして、では寝室かと様子を見に行くと、当たりだ。牧寧はまだ眠っている。あまり良い夢は見られていないようで、時々体が震えていた。布団の中に手を入れて優しく握りしめると、だんだん震えが収まっていく。
「……ごめん」
俺には、謝る事しか出来ない。こゆるさんを殺したのは俺だ。けれどもそれは避けられない選択だった。俺がマキナの味方をする限りは……自分だけが綺麗なままなんて酷い裏切りだ。人を殺す負担なんてアイツにはないのかもしれないが、そんなアイツにも頼ってもらいたい。背中を預けられるような、或いは怖がるアイツを守れるようなそんな自分になりたい。
だから……ロクデナシのままでいい。ロクデナシのヒトデナシ。アイツとの取引を遂行する為ならそれでいい。善意と遵法精神及び道徳は俺の視界をどうにもしてくれなかった。だから避けられない。俺は避けない。周りに被害を及ぼすような危ない奴ならせめてこの手で殺す。あの人の心情的にも……俺に殺された方が、まだマシだった筈だ。
「―――ん…………んぅ………………兄、さん?」
「……悪い。起こしたか?」
「いいえ…………とても心地よい夢を……見ていたような気がします。兄さんとのんびり日向ぼっこするような、とても穏やかで優しい夢」
牧寧は「んしょ」と寝起き特有のかすれた声を出して半端に上体を起こす。空腹やら喉の渇きやらでも一切目が覚めなかったというのは中々異常だ。それくらいぐっすり眠ってくれたお陰で気分は落ち着いているらしい。泣きつかれるとどうしていいか分からなくなる時があるのでそれは助かった。
「兄妹で結婚は許されざる行いですが……夢の中でくらい、構いませんよね? 子供の頃の夢だったんですから」
「け、結婚? ……まあ人の夢に口出しはしないけど。お前にはもっといい男を捕まえられると思うぞ。可愛いし」
「クスクス。照れていらっしゃるんですか?」
「あのなあ! …………そこまで冗談を言えるようになって何よりだよ。お腹すいただろ? 今日くらい俺が飯を作るから、お前はそこで待っててくれ。大人しくな」
「よろしいんですかッ? 兄さんに手料理を作ってもらうなんてなんだか不思議な気分ですねッ! 料理、どこかで習いました?」
「んな訳あるか。がっつりネットで調べながら作るわ。つっても簡単な料理くらいだけどな。味は……まあ体には悪くならないように気を付ける」
牧寧に再び笑われた。できない事は確約してもしょうがない。レシピのせいという事にしてもよかったが、それはそれでなぜそんな信用ならないレシピを参考にしたのかという問題がのしかかる。責任転嫁は許されない。妹はそんなプレッシャーの中でいつも料理しているのだ。そうでもないとあんなに美味しい料理が作れるものか。
いつになく張り切っている俺に任せるかのように、今日の牧寧はやたらと甘えてくる。リビングに連れていくのにも手をつないでほしいとねだってきて、渋々つないでやったら子供のように大はしゃぎ。丁寧な口調こそ大人びた雰囲気を演出しているが、その実態はやはり泣き虫で甘えん坊な妹だ。或いはその瞬間だけ精神年齢が退行したかのよう。退行しすぎて指をしゃぶろうとしてきたので流石にそれはやめさせた。
―――レシピ通りに作るってのも難しいもんだな。
キカイと違って完璧な再現は期待出来ないが、精いっぱいやろう。兄の意地を見せる時だ。
「実際、どうなんですか?」
「何の話か分からん」
「私を可愛いと言ってくれるのは……ええ。兄さんに限ってはとても嬉しく思っています。しかし私達は血の繋がった兄妹です。私が美形であるなら、兄さんも然り。その辺りはどのように考えてますか? 客観的にも、兄さんは粗悪な豚と呼ぶにはあまりにも端麗ですが」
「お前ってたまに口悪いよな。まあでも俺の言葉のチョイスが悪かったよ。可愛いってのは内面も込めて言ってる。外じゃ大和撫子なんだろ? 最近は色々あって学校休んだけど、また行けばモテるんじゃないか?」
「……しかし、兄さんも依然と比べれば落ち着きましたから、同じ事が言えるのでは? それとも兄さんを醜いと言うような方がいらっしゃるのですか?」
どうも牧寧は俺を容姿端麗な男であるという事にしたいらしい。別に片方が美人でも何でも兄妹は兄妹だと思うのだが、何を不満に思う事があるだろう。別に俺だって自分の顔が怪物染みた醜さを誇っているとは思わない。ただそれはそれで美形と呼ぶのもやりすぎではないかというだけだ。なぜ牧寧にはゼロか一〇〇しかないのだろう。世の中には中間がたくさんある。何でも二極化すればいいものじゃない。二極化してよかった事例はパッとは思いつかなかった。
「そんな奴はいないけど…………腫れ物扱いにはなる。俺に話しかけてくる物好きは一人くらいだな。今時の周囲の状況とかも考えたら……まあ、学校生活なんて楽しくないよ」
今、学校に行きたいという気持ちはない。どうせこゆらーだった奴らが血眼になって未紗那先輩を探しているだけだ。そんな捜索隊には加わりたくもなければ、そのせいでトラブルに見舞われるのもごめんだ。だから連絡はしないが、明日も休む。
「…………そうですか」
「俺の方こそ聞きたい事がある……と。まった。フライパンが危ない」
卵焼きなんて単純な料理で何を恐れているのだろう。料理初心者丸出しで、これを頼りがいがあるとすればそれ自体が危険信号だ。全神経を注ぎ込んで何とかひっくり返すのを成功させる。
「…………うさぎちゃんって、覚えてるか? お前の友達だったと思うん……だけど」
「―――ええ。勿論知っています。喧嘩してしまって絶交を切り出され、それっきりですね。以前、兄さんには特別親しくしている友人はいないと言いましたが……一方的に、私はあの子を親友だと思っています」
「そうなのか?」
「ええ。あの子と遊ぶのは楽しかったものですから。突然どうしたんですか?」
「いや…………急に思い出してさ。俺はお前の人間関係とか知らないから、そういえば来ないなってふと思ったんだ」
「いい子なんですけどね。悪戯したらすぐに反応してくれるし、何をあげても喜んでくれるし、正義感も強いし。なんで喧嘩したんでしょう……もう思い出せません」
「………………」
―――これも、クデキの仕業なのか?
「おっしゃ。完成だ」
「随分時間がかかりましたね?」
「卵焼きだけな」
牧寧の責め立てるような視線を背中に感じる。とても痛い。
「……お腹、空きました」
「…………もうちょっと待っててくれ。悪い、不器用な兄で」




