信じられるとすれば
目が覚めると、セピア色は景色から取り除かれていた。代わりにいつもの赤い糸が空を覆っており、俺は死体よろしく棺桶の中で横たわっていた。穴が深すぎて出るのに苦労したが、何とかして這い出ると、橋本さんが修道服に太腿までの際どいスリットを入れた女性と話し込んでいた。先程までサッカーをしていた人だが、とてもとてもちゃんとした修道女には見えないし、実際そうなのだろう。砂だらけになりながら自力で出てきた俺を見、橋本さんは手を差し伸べた。
「立てるか?」
「……何が、全然。何にも分からないんですけどッ」
「……成程な。いやはや、意外な結果に終わってしまった。取り敢えず羽儀兎葵の方も連れて来よう」
「あたしが引き上げるよッ」
女性は軽やかな動きで穴まで駆け寄ると、その場で膝を突いて穴の底へと上半身を伸ばした。棺桶に入るまでは良いのだが出る時に縄梯子なり脚立なりを用意してくれないと本当に出られない。服を汚れるのさえ嫌がるなら脱出不可能と化す。
「あーうん。私は怪しいもんじゃないですよッ。だから手を……え? 脚立? 梯子? 無いですよそんなの。え? 見ててムカツクって何ですか? えーいじれったい! 無理やりにでも引き上げますからもう好きに暴れてて下さい!」
アイツは何をやってるんだ。
名前も知らない女性を相手に見ててムカツクはどうかと思う。もしかしてマキナに限らず他の人にもこんな調子なのだろうか。だとするなら命知らずにも程がある。マキナはまだ俺が機嫌をとれば何とかなる望みはあるが、他人にまでこれなら手が付けられない。さっきの今で機嫌が悪くなりすぎだ。俺とアイツは何故か同じ景色を見ていたが、何がそこまで気に障ったのだろうか。
「離して下さい! 離してー!」
女性が首根っこを掴むように兎葵を引き上げた。もっとマシな抵抗はないのか手足をじたばたさせている兎葵を見ると、小動物を見ている気分になってくる。地上に足がついてから女性の手が離れると、暫定妹は身体についた土を払いながら俺の所まで駆け寄って手を握ってきた。
「……うーん。何で嫌われたんだろ」
「気にしないで下さい。こいつ、なんか露骨に機嫌悪いんで」
「…………結論から言うと、これ以上は見せられない」
「―――どういう事ですか?」
「君達に血縁関係があるのなら互いの記憶を照らし合わせて欠落した部分の埋め合わせをしようと考えたんだが……おかしな力に止められている。まるでそこを認識させまいとするかのようにな」
この人が規定やキカイという概念を知っているのか知らないのかは、今となってはどうでもいい事だ。その一言が全てを物語っているし、俺は数多もの状況証拠で以て犯人を導き出せた。そうだ、クデキだ。アイツが『認識』の規定で以て俺の記憶をせき止めた。きっとあれ以上はアイツにとって都合の悪い情報があったのだ。
「…………クデキを倒せば、続きを見られますか?」
「そいつが元凶なら、可能だ。その時はもう一度ここに来るか……本人に見せてもらえ。これを止められるなら見せる事だって出来るだろうな。俺が教えられるのはこれくらいだ。後は好きにしてくれ。生徒らと遊ぶのも良し、今すぐに行動へ移すのも良し…………ごめん、俺たちのせいでこんなことになってしまって」
「気にしないでください。橋本さんのせいじゃないですよ。これを止めた奴は人間の力じゃどうにもならない様な奴なんです。信じるかどうかは……勝手ですけど」
クデキがどうしても真実を教えたくないというなら、俺が意地でも見てやろう。かつて友達だったか何だか知らないが、今の俺は躊躇なくアイツを殺せる。だが殺せるという意気込みなら誰だってできる。大切なのはキカイ対策とそもそもどうやって遭遇するかだ。
棺桶で眠っていた影響で、時間は相当経過していた。なぜこの女性はサッカーをやめてまでこちらに来たのだろうと思っていたが、単純にもう遅い時間だ。夕焼け色の空を見てそう思った。もっとも、俺にとっては糸の檻の隙間から辛うじて見える現実に過ぎないのだが
「……もう帰ります。妹の代わりに買い物とかもしなくちゃいけないし」
「そうか。次、来る事があるなら分配のできるお菓子とか持ってきてくれると助かる。無理強いはしないが覚えておいてくれ」
そう言って橋本さんは教会の中に帰っていった。八木と呼ばれた女性は一人取り残されて迷った挙句に、「また会いましょう」と言って彼の背中を追っていく。玄関の方から聞こえる大量の足音は教会に居た生徒達の物だろう。鉢合わせすると何となく面倒な気がするので、暫くはここから移動するという選択肢もない。
「兎葵、どうしたんだ? お前……おかしいぞ」
「…………」
「おい、うさぎちゃん」
「やめて!」
俯いて沈黙を貫いていたのが一転、猛烈な拒否反応を示し、思い切り俺の頬を叩いた。まさかの行動に心の準備ができておらず、痛いのなんの。意識外からの攻撃は実際の威力以上に効いてしまう。頭が真っ白になって、痛みを感じるよりも前に頬を手で抑えた。
「…………悍ましいから、やめて。アイツの苗字になった兄に呼ばれたらどうかなりそう」
「…………んあ?」
兎葵の感情が爆発している。零れ落ちる涙が何よりもそれを示していた。
「マキナさんも橋本さんも……言ってくれたじゃん。私と兄には血縁関係があるんだよ。もう分かるじゃん。分かれよもう! ねえ、羽儀有珠!」
気づきたくなかった。
おかしいとは思っていたのだ。ほんの僅かに残る程度の疑問とかではなくて、確信的だった。「シキミヤ」の性を持つ牧寧が俺の家に尋ねてきたのだ。その事実の何処に、『シキミヤウズキ』である証明が出来る。兎葵も牧寧もクデキも俺の事は有珠としか呼ばなかった。偶然共通した愛称にしては出来過ぎている。思えば確かに…………俺の名前が有珠で終わっているなら結々芽も『ウズ』で止めるわけだ。アイツとは単純に付き合いが長いから稔彦と呼び方が違っても不思議はない。
「…………………」
何かが。何かがおかしい。
兎葵にこそ許容しているが、なぜ俺は他の奴にそう呼ばれるの嫌がったのだろう。考えてみれば理由がない。単に嫌だからではありえない反応だと自分でも思う。まるでその理由さえ『認識』できなくなっているみたいではないか。
「…………やっぱり、違うの?」
俺よりも遥かに今の彼女は精神が不安定だ。慎重に接したいと思う反面、どこがどうトリガーになるかわからないのでどうにもならないのではというあきらめもある。
「―――いい加減認めてるよ。こんなに証拠だされたらお前が妹だって信じてる。けど覚えてるかどうかは別の話だ。俺の記憶では牧寧と過ごしてるんだからな」
「……兄の馬鹿! 散々こんなに見せられてまだアイツの味方するの!? あんな奴の味方なんてしないでよ!」
「お前なあ……嫌う気持ちは、わからないけどさ。アイツは今こゆるさんが死んで弱ってるんだよ。本人がいなくても悪いことは言いたくない……殺したの、俺だしな」
「…………馬鹿ぁ!」
今度は頭突きをクリティカルに受けた。鼻が折れたと錯覚するような鈍痛が顔中に広がる。今の一撃で鼻のどこかが切れたのだろう、鼻血が噴き出して止まらない。
兎葵はどこかへいなくなってしまった。
「………………」
俺の悪い所が出たのかもしれない。風評なんかより実際に交流した実感で以て俺は行動する。どんなに怪物だのやばいだの言われてもマキナはちょっと我儘で気分やな女の子にしか見えないし、先輩は先輩だし牧寧は大切な妹。理屈ではない。だからどんなに言われても―――掌を返すような真似はできない。相応の出来事がない限りは。
「……ホント、お前は馬鹿だよ。俺の血なんてつけてたらマキナに殺されるだろうが」
まあそもそも、『距離』の規定なしにどうやって帰ろうかという問題もある。お金は持ってきていない。まず今日中に家に帰れるのかというところから既に問題だ。教会の人に相談しようにも車らしき物体は見当たらなかった。
「はあ…………」
でも、駄目で元々だ。相談してみる価値はあるか。
「という訳で、車みたいな物が欲しいんですけど」
橋本さんの表情は芳しくない。とりあえず一息吐くために席へ座ると、彼を『センパイ』と呼び慕う女性がお茶を淹れてくれた。
「成程。その子がいなければ帰れない、と。なら話は早いな。仲直りすればいい」
「いや、簡単に言わないで下さいよ。そもそも何処にいるかも分からないのに……ていうか仲直りって。俺は―――悪いことはしてても反省するような真似はしてません。大好きな人の死で悲しんでる人の陰口なんて嘘でも叩きたくないです」
「おそらく、お前とは見えた景色が違うんだろうな。無理もない。お前が見た記憶の大部分はあの子の物で、それを客観視していたにすぎないからな」
「……確かに、家に取り残しちゃいましたね。記憶の世界? でも。じゃあ何が見えたんだって話ですけど」
橋本さんは何かを言いかけた様子で、すぐにそれをやめた。悩んでいるようだ。伝えたい事はあるが伝えたくない……そんなもどかしい葛藤が窺える。
「あの。言いたい事ははっきり言ってください。もうお互い様でしょ。あり得ない事言うのは」
「…………信じる信じないは勝手だと言える話でもない、これはな。一つ言えるすれば、式宮有珠希。お前には兄としての自覚があるのかというくらいだ」
「自覚って……そりゃ、記憶がないんだからないに決まってるでしょ。証拠はあっても俺はあんまり認めたくないっていうか」
「お前が兄か兄じゃないかなんてどうでもいい。そこは重要じゃない。少なくともあの子はお前を兄と信じて止まないんだ。どんな理由があれ、そこはお前の否定出来る領域じゃない。俺にはお前がどんな辛い目に遭ってきたかを何となく理解出来る。だがお前は自分の事ばかりで、ちっともあの子の方を見ようともしない」
ああ、それはどこかで言われた事があるような、俺ではなくて兎葵が。いつもの調子で問い詰めようとしたら百倍返しも斯くやというくらいに言い返されていた。もしかしなくても俺たちは本当に似ている。ちょっと頑固な所も、自分よがりな側面がある所も。
「それが本当に正しいかは分からないが……家に帰りたいなら仲直りするべきだ。意見を同調させる事ばかりが仲直りじゃないぞ」
橋本さんがお茶を片手に立ち上がる。それを待っていたように丹李が現れて、これみよがしに車のキーを見せつけていた。
「十五分以内に見つけてやる。その後はお前次第だ…………たまには正直になるのもいいんじゃないか。優しすぎて言葉を濁すのが裏目に出るようになっているぞ」




