幼無き日の記憶
意識が覚めた時、景色がセピア色に満たされていた。状況が良く分からない。取り敢えず俺の身体は何ともなくて、棺桶もない。そして何より視界を満たす糸もない。これが何より俺を困惑させている。久しく忘れていた正常な視界に、涙が零れている。
「…………ああ?」
セピア色に濡れた世界なんて、糸に比べれば大した事などない。そして根拠など全くないのだが、もしもこの世界にマキナが現れたのなら、アイツから色は失われていないのだろう。その輝きを奪うのは不可能だ。つまり俺の『セカイ視』などそれに比べたら何でもないのだ。
―――何で糸が視えなくなった?
牧寧との写真、兎葵が持っていた写真。全て糸が無かった。だが兎葵は知らないと言うし、牧寧はそもそも何の関係もない……事もないのか。でなければ兎葵はあそこまで敵視しない。俺から見たら全く関係ないのに、俺の妹は確実に関与しているのだ。少なくとも兎葵のトラブルには。
「………………過去。か?」
糸が視えなかった写真は全て過去の物だ。過去と言っても一年前とか二年前とかではない。もっとずっと前。小学校の頃。具体的に言えば、おねえさんと出会う前の写真。それらには決まって糸がなく、今はここにもない。
景色の色が統一されていても何故か分かる。ここは俺の家だ。ただし引っ越す前の家という意味ではない。でも何故か分かる。ここは俺の家なんだと。
『ありすおにいちゃん!』
その甲高い声には、聞き覚えが無い。なのに俺には声の主が分かってしまう。身体と心が分離しているかのようだ。振り返ると、そこに現れたのはまだ小さかった頃の兎葵。今の無愛想からは想像もつかない満面の笑顔に思わず怯んだ。
「あ、ちょっと…………待って!」
そんな幼い少女を追ってやってきたのは無愛想な方の兎葵。流石に今度ばかりは無愛想の無反応という訳にも行かず、慌てた様子で俺の部屋まで飛び込んできた。そして案の定、彼女にはセピアが侵食していない。
「……有珠さんッ。ここは……その。えっと。私達、棺桶に入れられてた筈じゃ?」
「その筈だけど……マキナみたいな変な力だろ。アイツがアリならこれもアリさ。意外と世の中何でもありなのかもしれないな」
『何だよ兎葵。遊んで欲しいのか?』
俺の声が俺の口以外の場所から発せられる。慌てて今いる位置をズレると、セピアに侵された式宮有珠希が膝に手を当てながら兎葵に話しかけていた。どうやら俺達は観客のような立場にいるようで、セピア色の物体に触る事は出来ても変化はないしあちらも気付かない。こんな記憶はないのに、これも何故だか非常に懐かしい。
『うん! おにいちゃんと遊びたい!』
兎葵の小さな手を置くように握りしめて、式宮有珠希が部屋を出ていく。観客でしかない俺達には何かを求められている訳ではないようだ。セピア色の部屋に二人そろって取り残された。
「…………こんなの、記憶にない」
「私は、あるよ。楽しかったから。本当に、こんな日が永遠に続くなら何だってする。有珠兄に記憶がないなら、これは私の記憶って事になるんじゃない」
「―――後を追うぞ」
「…………何が起きてるの」
自分で言うのも何だが、ずぼらな二人で助かった。開けっぱなしの扉を通って階段を降りる。リビングでは式宮有珠希と兎葵が楽しそうに手遊びをしていた。彼女のオリジナルの歌に沿って手を動かしているようで、何度も間違えては怒られる情けない俺の姿が目に沁みる。
『もうー! ちゃんとやってよー!』
『うーんごめんよ。難しいなあ? もう一回! もう一回やろう!』
「………………この後の展開、兄、分かる?」
「あん?」
「私が大嫌いな奴が来るんだ。遊びにね」
兎葵の発言に呼応するように玄関のチャイムが押された。台所で何やら作業をしていた母親が扉を開けると、幼かった頃の牧寧がぺこりとお辞儀をしていた。
『こんにちは。うさぎちゃんいますか? それと、アリスにーさま♪』
『あらーマキちゃんッ! 一人で来たの? シキミヤさんは?』
『わたしひとりです』
『大人なのねえ! そこで遊んでるから上がって頂戴。二人共ー! マキちゃんが遊びに来たわよー!』
「…………有珠兄さまって。アイツはそんな呼び方した覚えがないんだけどな」
「私は覚えてるよ。アイツ、兄に惚れてたから。お嫁さんになるってずっと言ってたし」
「一目惚れッ? い、妹が……?」
「妹じゃなくて……ただの他人!」
苛立ちが募ったからか兎葵が階段を勢いよく駆け下りてセピア色の牧寧に飛び蹴りを喰らわせた。特別それで彼女が吹き飛ぶような影響はない。ノーダメージなのを良い事にその後も何度か殴りつけていたが、幼き牧寧は構わずリビングの方へ向かって、式宮有珠希に抱き着いていた。
『にーさま~♪』
『まっきー! まっきーもあそぶ? あたらしいあそびかんがえたんだよえへん!』
『うさぎちゃん。すごいっ』
とても複雑な気分だ。妹二人に囲まれているのもそうだが、俺自身の行動も妙だ。上手く言葉には出来ないのだが、俺にしては優し過ぎるような気がする。こうなってくると気になるのは外の様子だ。牧寧が開け放してくれた玄関を通り抜けると、外の景色が広がる代わりに、場所全体が変化した。
―――病院。
そう、ここは病院だ。天井の模様だけを見てもハッキリしている。『傷病』の規定が支配する前、もっと言えば入院している時期の何処かで、俺はおねえさんと出会っている。俺が立っている場所は誰も使っていないベッドの一室。ノットセピアな俺は入院している訳ではない。カーテンを開けて対面に視線をやると、衰弱した様子の式宮有珠希とベッドに腰かける長身の男性の姿があった。
『おいおい、しっかりしろよ有珠。俺に妹の世話を頼む気か?』
『…………万が一は、頼むよ。友達が居なくて……お前にしか頼めないや』
『おい馬鹿な事言うな。妹庇って刺されただけだろうが。その程度で死ぬ程人間は柔じゃない。気をしっかり持て』
『…………お父さんもお母さんも死んだ』
『お前を守る為だった』
『うん。別に恨んじゃいないよ。でもさ……現実的にこれからどう生きるべきか分からないんだ。状況がどんどん悪化していくなら……しなくても……どうすりゃいいんだろう』
『……それは退院してから考えるんだな。妹の手を焼かせるなんて兄としてどうなんだ? お前しか守れる奴は居ないのに』
『―――そう言えば、遅いね、アイツ。ちょっと様子を見に行ってきてくれないかな。頼むよ―――クデキ』
『………………』
溜息を吐いた男が振り返る。ベッドに突いた手を式宮有珠希が願うように握りしめた。
赤銅色の髪と真紅の瞳。セピア色の世界に抗う華やかな輝き。
「お前が…………クデキ」
それは東京で兎葵を助けていた男の顔。フードで全体を隠していても、髪色と瞳だけはどうにもならない。こいつが俺の友達ならこいつがクデキであるというなら―――こいつがメサイアのトップで。俺の殺すべき、敵。
『…………自棄になるなよ、お前の両親を殺した責任を取るつもりで……何とかしてやるから』
クデキがふわりと宙を浮いて窓から病院を後にする。そう言えば兎葵は何処へ行ったのだろう。まさか場所そのものが移動するとは思わなくて置き去りにしてしまったみたいだ。アイツも病院に来ているといいのだが。
―――ガラッ。
『兄さん? 身体の調子はどうですか?』
移動しようかと思った矢先に来訪者が現れた。今度も牧寧だ。年を取って見慣れた姿に近づいてるがまだ幼い。しかしこゆるさんを見習ったストレートな髪の美しさはセピア色の世界に変わっても変わらない。彼女は俺の眠るベッドにゆっくりと近づいて、両手で優しく手を握った。
『お身体の方は大丈夫ですか? ご両親に刺されたと聞きました。今は何ともないかもしれませんが安全だって保障は出来ません。私の家で療養するのは如何でしょうか』
『…………牧寧ちゃん。それは出来ないよ。兎葵がさ、買い出しに行ってくれてるんだから。危険を冒してるんだ。だから、待っててやらないと』
『……暫く戻らないんですか?』
『暫く戻ってこない、って言った方が正しいね』
『そうですか。では…………』
プツン!




