創性愛のオンナノコ
マキナの部屋の白い壁にも、継無垢のフローリングにも赤い糸は伸びない。この世界全体が彼女の意思に従っているかのように、ここの無機物は『セカイ視』を拒む。拒んでくれる。今の俺の精神状態は言うまでもなく不安定だ。赤色を見ればそれだけでこゆるさんを殺した瞬間がフラッシュバックしている。
だから妹を慰めている時も頭がどうにかなりそうだった。ここだけが俺を正気でいさせてくれる。
「有珠希~!」
そんな部屋の主は、俺の訪問を知ると太陽のような笑顔を弾けさせながら温かく出迎えてくれた。勢いに驚いて逃げようと思っても無駄だ。脚を後ろに退こうと思った瞬間にはもう捕まっている。笑顔に隠れてうっすらと開いた眼の中には月の瞳が見惚れる程美しくさんざめいている。
「お、おう。何だ。今日はやけに機嫌が……いいな?」
「だってね、そろそろ来る頃だと思ってたの! そうしたら本当に来てくれたんだから、嬉しいに決まってるわッ! 三日ぶりくらい? メサイアに変な事はされてないかしらッ」
「………………」
本当に何をしているのか自分でも分からない。
気が付いたら、マキナを抱きしめていた。
「きゃッ……!」
妹にしてきた抱擁とは比べ物にならない。同じ力で牧寧を抱きしめたら身体から悲鳴が上がるだろう。指を立てて、相手がどんな風に思うかなんて考えないような乱暴な手つき。しがみつくような、縋りつくような、情けなくて申し訳ない、何かを乞うような密着。
「な、何? 今日は随分積極的ね……?」
「…………少し、こうさせてくれ」
その気になればいつでも突き返せるのに、マキナはされるがままに壁へ追いやられ、俺の抱擁を受け入れてくれた。大きくて、柔らかくて、温かくて。頭がクラクラする。ストレスによるいつもの頭痛じゃない。あんまりにもこの瞬間が愛おしくて、意識が飛んでしまいそうなのだ。
「ん…………有珠希の身体、温かいわ」
「―――痛いか?」
「ううんッ。もっと強く抱きしめてもいいわ。近くで、もっと。もっと近く。二人の身体が溶けて一つになってしまうくらい近くで―――有珠希を感じたい♪」
マキナが俺の顔を己の胸に押し込んで、俺の脇から手を通した。布一枚を隔てて感じる至福の柔らかさに思考が溶かされていく。それを受け入れようとする自分が居る。胸を掻き分けるように何とか彼女の顔を見上げると、月の瞳が万華鏡のように展開して、チカチカと不可思議に形を変えながら俺を見つめていた。
「…………♡?」
「…………し、下着はつけろ、よな」
「窮屈なのは好きじゃないわ。それとも有珠希が見たいのかしら?」
「…………」
こっちの方がいい、なんて言えるか。
―――ああ、なんか馬鹿馬鹿しくなってきた。
今までとこれからは別の問題だ。俺にはまだマキナとの取引が残っている。気持ちを切り替えて行かないと、やってられない。
「も、もういい。もういいから、離してくれ」
「私がダーメ! 貴方の言うとおりにしたんだから今度は私の番でしょ? 今日は兎葵が気を利かせてくれて眠ってるのッ。だからこの前は邪魔されちゃったけど……出来なかった事、シてもいいわよ? うふふふッ♡ どうシよっかな。どう〝ノたい?」
正面から指を組みあっていると、黒金白銀の万華鏡が廻りながら瞳の形へ収束していく。銀色の瞳への復元は不完全だ。瞳孔の傍に生まれたクレーターが不可視の力で伸ばされて、強膜を再生成。機巧と生命の神秘を孕んだ一連の変化に気を取られてしまう。
俺はどうしようもなく、こいつの目が好きだ。一日中見ていてもきっと飽きない。この世のどんな宝石よりも、或は光そのものよりも綺麗な白銀輝煌の瞳はどんな様子を見せてくれるのかと期待してしまう。会話が不自然に途切れても気にしないで、俺達は何秒も見つめ合った。俺の目が黒いのは彼女の銀眼が放つ光を逃がさない為だと正当化して。ただ見ていたいだけなのを誤魔化して。
「………………大好キよ?」
「…………これで満足してくれないか。お前に確認したい事があって、来たんだ。一応な」
ここまでの流れが交渉の一部であったと知ってマキナがムッと眉を下げたが、要求には応じてくれるようだ。俺を解放してくれた。笑顔を絶やしてはいないが、その表情にはやや不満が残っている。
「いいわ。許してあげる。それに、私も伝えたい事があったのを思い出したわ」
「じゃあ最初に伝えてくれよ」
「有珠希の顔を見たらどうでもよくなっちゃった! それで? その話したい事は兎葵も居た方がいいかしら。必要なら起こすけど」
「…………どうだろうな。でも一応居た方がいいんじゃないのかな。諒子はどうした?」
「テレビの音声を聴いてるわ」
アイツらしいと言えばらしい。しかし俺の用事とマキナの用事は何だろう。特に根拠はないが全く無関係という訳ではなさそうだ。リビングへ通されるや諒子が俺の存在に気が付いた。マキナは兎葵を起こす為にまた別の部屋へと行った。
「式君……その。大丈夫なのか?」
「大丈夫……じゃないけど。アイツがあんなに元気なんだ。いつまでも落ち込んでる訳にはいかないだろ」
「そう、か。……なら、いいんだ。私、励まし方とか分からないから、な」
「気持ちだけで十分だよ」
マキナが作ったのか自分で買ったのかは分からないが、諒子は左肩だけが露出した長袖の黒いトップスを部屋着として着ていた。下の方はチェック柄のロングスカートを履いているからこそ、肩の露出に視線がいってしまう。
俺の視線は隠すつもりもないのでバレバレだ。諒子が顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「……隣、座るぞ」
「う、うん」
諒子の反応からも、ますます確信が生まれてきた。俺の予想が外れているならそれで結構だ。だが当たっているなら、今度こそ俺達は明確に目標を決め直さないといけない。
「んぅ……ん。有珠さん?」
「おはよう」
「おはよう……ございます。なんの集まりですか!」
「さあ? 有珠希はどんな用事で来たのかしら」
「…………いやさ。間違ってたらいいんだけど」
「廉次から部品は取れなかったんだな?」
彼女の瞳にピシリとヒビが入ったかと思うと、まもなく砕け散る。白目から瞳孔にかけて真っ黒い影が覆い尽くし、その目はまるごと引っこ抜かれたように空っぽに。マキナは直前までの気分を捨てて、おもむろに俯いた。
「……ええ、そうね。部品なかったの。でもそれっておかしいわよね。アイツが私の部品をばら撒いてるのに。『愛』の規定はアイツが渡したんでしょ? じゃあ誰が持ってるの? 有珠希は分かる?」
「……分からないけど、有益な情報を持ってるかもしれない人は知ってる。お前の方は?」
「……わかっちゃったのよ。部品を持ってない奴がどうして渡せたのか。兎葵から聞いたんだけど、『傷病』を悪用してた奴は別の人間を介して改定してたのよね?」
「……あー。つまり他にいるって事か? 周囲の関係を炙り出せば分かるって……いや違うか。裏は取れてないが『傷病』とかも与えられたって事なら、アイツは複数の規定を扱ってる事になる」
「ええ。そう。一つくらいなら、あり得ると思うわ。でもこれまで私の部品を盗んだ奴らがただ買っただけなら、本当に持ってる奴は複数の規定を問題なく扱える存在だって結論になる……行って無駄骨はないと思うわよ?」
そこまで言われたら、俺にも答えははっきりしている。金音叉を鳴らしたような引き笑いが結論を急がせているみたいで、俺は慌てて答えを口にした。
複数の規定を問題なく扱える存在。
誰とでも接触出来ていつでも逃げられる存在。
「クデキか」
自らの不穏な気配を吹き飛ばすようにマキナが笑う。
「大正解!」
クデキ。
先輩に『生命』の規定を与えたと思われる人物であり、兎葵に『距離」と特殊な視界を与えた、式宮有珠希の友達。
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