壊れた先輩の鏡
八章です。
未礼紗那の顔が全国的に報道されてから、三日。その映像がフェイクでない事は東京ドームに残された数多の死体と共に明らかになった。ただでさえ社会状勢が不安定な中でこんな凄惨な事件が起きてしまって少なくとも国内は幻影事件の再来かと言われるほど、騒がしくなってしまった……らしい。俺は幻影事件など知らないので、再来と言われてもピンと来ないでいる。
「うぅぅぅ……あああ………………」
学校はあったが、当たり前のように休んだ。多分この流れは俺だけが取ったものではない。学校にはこゆらーが大勢いたが、彼等もまた休んだ筈である。特に証拠とかはないが、SNSにそういう投稿が散見されるのでそう思った。今の俺はあらゆる情報に疎い。ここ三日間はずっと、牧寧を慰める為だけに過ごしている。
胸の中で泣きじゃくる妹をどうして放置出来るだろう。こゆるさんをこの手で殺したのは俺だ。未紗那先輩はその罪を全て被っただけ。詳しい捜査をすれば簡単にバレるような偽装……とも思えない。『生命』の規定で何が出来るかを把握していないのもあるが、規定などという理屈は真実として扱われない。先輩がビデオの上でこゆるさんを殺して実際に死体が見つかった以上、その映像はフェイクとは言い切れない。仮に警察がそう言った所で、こゆらーはやはり先輩の掌の上だ。
「……………………」
諒子から薬を貰い軽減はしているが、あの人を殺す為だけに、俺は自ら悪化させた。妹とのせっかくの同居で申し訳ないが、この部屋も随分居心地が悪くなってしまった。赤い糸が無数に広がって、白い部屋の壁を赤く染める。それは錯視や光の反射具合と言った視覚の原理に基づいた赤色よりもアカく、アカいから、どうにもならない。この場でペンキを持ってきてぶちまけようが赤色のまま。気合いで抑え込んでいるだけで妹さえ今は触れたくない。こゆるさんを殺してしまったショックと、赤い糸のストレスで俺もどうにかなりそうなのだ。
「…………ごめん」
「………ううう。ううううううう…………!」
俺は醜い。
自分の手で殺したのに、それを妹に伝えられない。先輩の気遣いを無碍にしてしまうとかではなくて、単に嫌われるのが怖かった。牧寧が甘えられるのはもう俺しか居ないんだと。そんな風に正当化して。これで名実ともに人でなしのろくでなし。マキナに対する負い目が多少消えただけで、それ以外に得た物はない。
負い目を解消出来なかったらそれはそれで後悔した確信もある。どちらの方が、は決められない。俺は臆病なので、そんな決断は下せない。
「…………ちょっと、出かけて来るな」
胸の中で妹が頭を振った。そろそろ買い出しなんかも行かなくてはいけないのだが、こうなったら手がつけられない。何度か試してはいるものの、決まって彼女は俺が離れるのを良しとせず、離してくれない。
「…………………………兄、さん」
「何だ?」
「…………兄、さんは置いていきません、よね。ぐすッ」
「……病気とかにならなかったらな」
「嫌です、嫌ですぅ! 私を置いて……行ったら……許さない…………ンだからァ……!」
「…………分かったよ。置いて行かない」
「本当ッ? 本当に……? 嘘は駄目よ? 駄目なんだ……ですから」
「嘘じゃない。大丈夫だ」
妹が泣き止むまでの三十分弱。俺は力いっぱい彼女を抱きしめていた。泣き声が収まったと思って顔を見ると、泣き疲れた反動で眠っている事に気付いた。ここ三日間碌に眠れていなかった反動もあるのだろう。妹を起こさないよう、ゆっくりベッドまで運ぶと、その華奢な手がか弱い力で俺の腕を掴んだ。
「…………おやすみ」
携帯から学級グループのSNSを覗くと、生徒の大半が案の定、学校をボイコットして未紗那先輩を捜索していた。彼女がメサイア・システム出身である事はこゆるさんが死んだ翌日には判明しており、所属高校とメサイア・システムは現在報道機関への対応に追われているようだ。また別のSNSによると自称『目覚めた』人間が先輩こそ幻影事件の犯人だと言い出す始末。触れられざる事件まで遂に出される辺り、こゆるさんとのいざこざが残した爪痕は大きい。
「…………どうするかな」
この三日間、マキナは顔を見せなかった。空気を読んでくれたと言えば聞こえはいいが、本当にそうなのかは疑問が残る。確認と目の保養も兼ねて会いに行く選択肢もある。妹も寝てしまった事だしと、考える前に洗面台で嘔吐した。
「喉が、焼ける……」
ハイドさんかカガラさんに電話してみるのも良い。何か情報があるかもしれない。何かって言うと……先輩について、とか。しかしそれをするくらいなら直接会いに行くのも手だ。SNSの声が実際に動いている前提だが、これだけ人手があって見つからないならあの人が居る場所は一つだけだ。そこに行ってみるのも手ではある。いなかったらそれはそれ。
「………………」
『うん。よく電話してくれたね。大丈夫かな?』
『……人を殺して大丈夫な人なんて居ませんよ。今は猛烈に死にたいですね』
『殺さなきゃよかったって?』
『…………殺されるよりは、マシですよ。大体俺が死んだとしたら、誰がマキナを止められるんですか?』
『それもそうだ。世界が滅亡するよりは余程ね』
こういう悩みもどれか一つには決めきれなかったので、折衷案としてマキナの家に向かいながらメサイアの二人へ電話をした。ハイドさんの方は繋がらなかったのでカガラさんの方へ。この人は前々から緊張感が無いと思っていたが今回も相変わらずの砕けた調子で何と言うか、お気楽。しかし電話越しなら糸も見えないので人間の中では一番話しやすい部類に入る。
『しかしこの状況は君にとってはチャンスかもよ?』
『どういう事ですか?』
『今、メサイア・システムは大混乱中だ。一体何人がこゆらーだったか。メサイア・システムは慈善組織だけどまあ一応審査みたいな物があって、今はそれどころじゃない。どさくさに紛れて就職しても問題ないよ。その気があるならちゃっかり給与を整えてあげてもいい』
『…………カガラさん。俺は殺人をしたんですよ。これからまともに生きようなんて思いますか? 変な冗談言わないでください。未紗那先輩は?』
『残念だけどまだ見つかってない。上司からもせっつかれててさあ、知らないかい?』
『……ハイドさんが?』
『ここで探さないのは裏切りを教えるようなもんだから一応探すだけ探して保護するんだとさ。そんな事しなくてもあの子は強いんだから放っておけばいいのにね』
―――カガラさんは知らないのか。
先輩はもう戦えない。戦うのが怖くなったと言っていた。どんなに力が強くても、戦う意思がないならあの人は強くない。ただの女の子だ。
『…………何で、俺のせいなのに全部被ったんでしょうね。こうなる事は分かってた筈ですよ。俺にはマキナが居るから、何とかなるって思っても不思議じゃないし』
『―――その心は、本人に聞けばいいさ。何処にいるかは分からないけどね。しかし答えなんてもう出てるでしょうに。紗那にとって君は自分の力で築き上げた唯一の関係だ。大事にしたいんだよ。自分の全てを捨ててでも。ほら、あの子だって殺人者だしね』
マキナのマンションの前に、到着した。
『…………切ります』
『あいあい』
熾天の檻がどうのこうのという次元ではない。俺の世界は真っ赤に染まってしまった。通行人が一人いるだけで視界という視界が赤色に満たされる。気が重いのはそのせいだ。気に病んでいるのはそのせいだ。
俺にはもう、ここしか安らげる場所がないのだ。




