理想を叶えし
妙な男のお陰で追手は来なかった。もしも来るならその時こそハイドさんから貰った拳銃の出番だったかもしれない。諒子の精度については信じるしかないだろう。それよりも気になるのは兎葵の態度だ。反抗的でひねくれている暫定妹の様子がいつもと違う。借りてきた猫のように大人しい。
「……兎葵。お前の知り合いか?」
「…………さあ」
「……何となく分かるんだけど、嘘吐いてるな」
「―――いいえ」
「マキナに言ってもいいんだぞ」
「私、恩知らずじゃないんです。助けてもらった事の恩返しとして、有珠さんには言いません」
「…………式君。ちょっと止まってくれるか?」
「あ?」
諒子から頼まれるなんて珍しい。追手も来ていないので適当な所で足を止める。何のつもりで足を止めたかと聞くよりも前に俺は彼女の行動に息を呑んでしまった。今まで見せつけようともしなかった拳銃を取り出すと、躊躇なくトリガーに指を掛けて兎葵に向けたのだ。
「……は?」
「式君だってお前を助けたじゃないか。見ず知らずの奴には恩とか言い出して式君には仇で返すなんて、おかしいぞ」
「……貴方に何が分かるんですか。有珠さんの事も私の事も知らない癖に」
「分からないから言ってるんだぞ。式君は優しいから、そんな風に言われたら追及出来ない。それくらい私でも分かるんだ。妹だからって……好き放題していいのか?」
「有珠さんは家族でも何でもないです!」
「―――お前。そういう言い草は兄に甘えてるって言うんだぞ。自分に都合が悪い事があったら妹面で何かにつけて昔は昔はって何なんだ? 気分が悪い」
「おい、諒子。ちょっと落ち着けってなあ。俺は別に気にしてないよ。こいつのこういう態度はいつもの事で……お前も分かってるだろ」
「式君も甘やかしすぎだ、ぞ。ちょっと意地になれば直ぐ諦めると思ってるからこんな事言うんだ」
「……それはそうだけど、銃はやめろ。兎葵も怖がってるだろ」
「は? 怖がってないですけど。撃てもしない人の銃を怖がる人が何処に―――」
パンッ。
諒子が躊躇なく真上に発砲。紛れもない威嚇射撃だ。こんな間近で銃声を聞く事になるとは思わず、耳を塞いでしまった。運動会の空砲なんて比ではない。兎葵は目を見開いたまま固まって、諒子から視線を離せなくなっていた。
「…………ひ」
「………………私は撃てる、ぞ。分かったら。さっさと話せ!」
「諒子! ちょっと待てって!」
これ以上は見過ごせない。銃を兎葵の頭に突き付ける彼女の手を制してどうどうと宥める。ついでに白い糸も切る。力いっぱい抱きしめて、梳くように髪と包帯を撫でた。そうだ、俺の友達はこういう奴だった。未紗那先輩に拉致されたと聞けば支部に乗り込んで暴れ回る凶暴さは知っていたが、こんな形で発露するとは読めなかった。
責めるつもりはない。彼女にとって俺とマキナ以外は輪郭の成立しないドロドロの怪物だ。いざ殺害するとなったら微塵の躊躇も湧くまいよ。
「……銃声を鳴らしたらまた逃げないといけないだろ。後、兎葵をイジメるな。こいつは素直じゃないだけだ。反抗期真っ盛りとも言う。俺はむしろ、こいつが従順になった方が怖いよ。俺の為にやってくれたのは分かる。でもこれはない。どうしようもない時はあるかもしれないが、流石にタイミングが違うだろ。マキナじゃないんだから俺の言う事は分かるな?」
「…………ごめん、な」
ちゃんと反省出来て偉い。凶器と理性の狭間にあるような危うさだが、これくらいでないと視界のストレスには耐えられないのかもしれない。続いて俺は兎葵の方を見て、彼女の涙を持っていたハンカチで拭った。
「言う必要はない。お前が俺に対して色々抱えてるのは知ってるからさ。お互い様って事で今はいい。ただ、今回に限った事じゃないが噛みつきすぎだ。諒子にもそうだしマキナにもそう。強がるのはいいけど相手を選んでくれ。俺だったら幾ら強がってもいいからさ。特にマキナ。アイツを本気で怒らせたら多分だけどただ殺すだけじゃ終わらないぞ。兄でも兄じゃなくてもいいからさ。今回だけは忠告を聞いてくれ。諒子じゃないけど、お礼って事でさ」
「………………」
泣くのを堪えるかのように兎葵が唇を噛んだ。もう答えはそれでいい。しかし心理テストではないが、諒子の発言もあながち間違いではない。多分彼女はずっと甘やかされていた。どんなに好き勝手しても守ってくれる存在が居たのだろう。その正体はずばり俺の知らない『式宮有珠希』だが、その甘やかされ方は相当だ。マキナに喧嘩を売る辺りから信じられないとは思っていたけど。
「つー訳で逃げるぞ。警察も近いから直ぐに来る可能性が高い。後、マキナが待ちきれなくなってる可能性」
「……有珠兄」
「ん?」
「―――ごめん」
謝罪を、された。
こういう時になんて言えばいいのか分からない。
「謝るのは俺の方だよ。お前の知らない兄になっちまってごめんな。俺がお前の知ってる有珠希だったらそもそもこんな事にはなってないし」
「遅ーい!」
案の定、マキナは苛立っていた。左足を何度も何度も動かしているせいでその足元には小さくも深い穴が生まれている。ちゃんと直せよという前に『強度』によって修復された。秩序を操る力の癖にとんだ無法女だ。
「すまん。ちょっと手間取った」
「もう、後少しで探しに行くところだったんだから」
マキナは伏し目がちに腕を組みながら斜に立って俺を見つめている。ちょんちょんと指を動かしているのはまだ苛立ちが収まっていない証拠だ。どうした物だろう。
「でも、探しに来なかったんだよな」
「私が任せたのを探しに行っちゃったら貴方を信用してないみたいでしょ? だから待ってたの。心配で心配で仕方なかったけど!」
「じゃあ信用して正解だな。ちゃんと帰って来た。有難うな、人間の俺を信じてくれて」
ぴょんと髪の毛が一本立ったかと思うと、マキナは腕組みをやめて穏やかに微笑んだ。
「うふふッ。私だってやれば出来るんだから。有珠希も少しは敬っても良いのよ?」
「わーキカイさまだおそろしやおそろしや」
「馬鹿にしてるわね!」
馬鹿にしているというか、どうでもいいというか。腕をピンと伸ばして今にも突っかかってきそうな姿勢だが本題を進めたい。あんまり本筋からズレるようなら話の腰を折ってでもと思ったが、さっきの喧嘩と違って流石キカイ様は引き際を弁えていらっしゃる。兎葵の方を見て、目だけが伴わない笑みを浮かべた。
「さーて。せっかく生かしたんですもの、役に立ってもらわないと困るわ兎葵。覚悟は良いかしら?」
「……何をさせるつもりですか?」
「何をさせようが、私の勝手でしょ。貴方に拒否権なんかないわ」
月の瞳が何かの陰に隠れて新月のように姿を隠す。骸骨のようにぽっかりと黒い穴だけが残った瞳のまま、今度こそマキナは悪い笑顔になった。




