猫と理性を踏んじゃった
兎葵が音を出して反対側に逃げてくれたお蔭で初動の脱出は完璧だった。俺と諒子は近くの公衆トイレに立て籠もって状況を整理している真っ最中だ。この状況、何処かで見た事があるような。
「……ああやっば。大変だわ」
「どうしたんだ?」
「SNSに俺の顔が公開されてる。こゆるさんの仕業だな。あーやばいやばいやばい。指名手配されてた時とおんなじだこれ。どうするかな」
あの時守っていた人に今度は指名手配を喰らうとは何たる恩の返し方か。何が不味いってこのSNSは別に東京限定のネットワークではないという所だ。既に俺の手配書にはいくつものリプライがついており、中には特に用事はないが俺の捜索の為だけに東京へ来ようとする者もいる。長期戦は明らかにこちらが不利だ。ジリ貧なんてものじゃない。日本中のこゆらーが集結する可能性があるどころか、都内を脱出しても安全が保障されないという点で最悪だ。何としてもこゆるさんか廉次をどうにかしないといけない。
いや、それよりも。
『兄さん? 何があったんですか?』
牧寧にこの騒動が伝わってしまった事が問題だ。着信こそないが、家に帰れば事情説明は免れない。都合よく記憶でも無くしてくれればいいが、そんな規定はあったとしても所有していない。
「……一番やりやすそうなのはこゆるさんだけどな、どうやって近づけばいいのかもわからん。一度突っぱねたんだ、殺されるしか道は無さそうに思える」
「……こんな状況でも、式君は折れないんだな」
「……死んだ方がマシな時期はとっくに過ぎたよ。それに俺がどうにかなったらお前が泣くだろ」
「な、泣かないぞ。泣く訳ないだろ、何言ってんだ、よ」
「そういう強がる所は結構好きだぞ」
「あぅ……!」
「……つっても打つ手が全くないんだけどな。あの場に居た奴は兎葵を追うかもしれないけど、指名手配を受けて出てきた奴等は俺を探すだろうから」
よってこゆるさんに利を為さない最善の選択肢はこの時点で限られている。アイツは多分快く引き受けてくれると思うが、流石に俺も気軽には頼みたくない。以前俺が人を殺す覚悟を固めた時と一緒だ。自分が手を汚したくない、実力的に汚せないからと言ってアイツに全部任せるのは違う。
どうした物かと途方に暮れていると、電話が掛かって来た。状況が状況だ、妹が遂に痺れを切らしてきたかと思ったら、ハイドさんからだ。周囲の音は諒子に拾ってもらう。近くに誰もいないのを確認してから恐る恐る通話を開始した。
『もしもし』
『おー。I₋nから聞いたぜ。大変なことが起きてるらしいな』
『率直に言って、助けてほしいです。一応収穫もあります。顔が判明しました。髪にメッシュが入ってて顎に傷があるロン毛の男です。今はこゆるさんと一緒に居ると思います』
『おお! そうか。ツー事ぁ俺が骨折る必要もねえ訳だ。よくやった。直ぐに助けを出してやりたい所だが、悪いな。俺は片腕が落ちて静養を強いられてる』
―――は?
『何があったんですか?』
『世界征服の為なら腕の一本くらい安いもんだ。てめえは気にしなくていい……一応聞くが、何処にいる?』
『よく分からない場所の公衆……』
「式君……」
諒子の手が口を覆って言葉を遮る。利用者が現れたようだ。小便をする音を二人して真面目に聞いているとこの状況が馬鹿らしく思えてくる。手も洗わず出て行った男性の足音を聞き届けてから会話を再開する。
『―――大体分かった。今からうちの者を向かわせる。五回ノックしたら反応してくれ』
『……こういう時はカガラさんじゃないんですね』
『てめえどうせ男子トイレに隠れてんだろうが。ゴスロリの女がそこ入んのは目立つぜ。ただでさえアイツ一人でも目立つんだ。写真撮影求められたりナンパされたり変な奴にビデオ出演交渉されたり…………流石に今回はな』
『因みに何処に隠れるつもりですか?』
『ああそうだな。下手な場所じゃ意味………………ちょっと待て』
『どうしました?』
『……五回ノックしても出るな。俺が直接行く』
『え?』
一方的に電話を切られた。意味が良く分からない。でもハイドさんの言う事だから何か意味がある筈だ。足元の隙間から存在を悟られたくなかったので便器の上に足を置いて蹲り諒子には扉の前で立ってもらった。これなら足を見れば女性だと分かるし、田舎の価値観かもしれないが男子トイレを借りる女性は往々にして存在する。諒子をそういう類の人間だと思ってくれたら幸いだ。
存在すら悟られたくないなら諒子に跨ってもらう事も考えたが、誰もいないのに鍵が掛かっているのはおかしいし、そもそもの絵面が酷いので却下だ。鍵の確認もせずに足元だけ見る人間がいるとは思えない。
コン、コン、コン、コン、コン。
十分くらい息を潜めていただろうか。不意にノックされて怖気が立ってしまった。言いつけを守る様に俺は沈黙。諒子が裏声で「入ってます」と言ってみせると、足音の主は小さく「すみません」と言って帰ってしまった。
―――これでいいのか?
また電話が掛かって来た。相手は以下略なので、開口一番疑問をぶつけてみよう。
『どういうつもりですか?』
『俺の手持ちは教育済みだが、そいつらはちっとこっちの事情で動かせねえ。つー訳で直属でもない奴に仕事を振るしかねえんだが、そいつがこゆらーだった』
『……つまり?』
『メサイア・システムの下っ端の七割はこゆらーだ。何処で情報が洩れるとも分からねえから信用出来ねえ。しょうがねえから片腕のない俺がご足労かけてやる。つっても爆弾みたいなてめえら連れて回るのは勘弁だ。立場ってのもあるしな』
『……じゃあどうやって助けてくれるんですか? 結構真面目に、困ってるんですけど』
『情報戦術さ。波園こゆるがその発信力で以ててめえを探すならそれを逆手に取るまでよ。今からお前達のデマ情報を定期的に流していく。取り敢えず江戸川の方にでも誘導するか。そこからは頑張ってキカイと合流するなり、さっさと元凶を片付けるなりしてくれ』
『そっちで早渡廉次を処理してくれないんですね。あ、それがマキナの部品ばら撒いてるクソ野郎の名前です。言い忘れました』
『…………クデキの野郎と他の幹部共に俺の裏切りがバレつつある。正直誤魔化すので精いっぱいだ。それで無理なんだよ』
『裏切りってそんな言う程ですかね。俺こそ世界を獲るのに相応しいって言ってるだけでしょ』
『それが裏切りってもんだ。つー訳でこれ以上は助けられねえ。あー…………焼き鳥屋の通りのゴミ箱を漁ってもいいぞ。餞別をくれてやる』
そしてまた一方的に電話を切られた。
俺に選択の余地はないらしい。つくづく勝手な人だが、藁にも縋る思いで頼った手前信用しないという手はない。どっちみち俺の脳みそでは名案が浮かばなかった。SNSの捨てアカと思われるアカウントから俺の目撃情報が拡散。たくさんの絵文字とやたらカラフルな記号の羅列で目が滑るが、効果は覿面だ。見た目だけでも陰謀論みたいな信用出来ない文章なのによくもまあ信じられる。
「…………行くぞ諒子」
「うん」
人目は気にしない。突っ切るように外へ出て、焼き鳥屋とやらを探して一直線に大通りを抜ける。道中のゴミ箱とは何だろうと思えば、歩道の端に不自然な置かれ方をしたポリバケツが設置してある。店の看板みたいな風貌をしているが単なるゴミ箱だ。それ以上でもそれ以下でもないし何なら通行の邪魔だ。
「諒子……周りに人は?」
「居るぞ」
「だよな」
突然ゴミ箱を漁るのはモラルとしてどうなのか。それ以前に目立つのではないか。まだ江戸川区に誘導されていないこゆらーに捕捉されるのではないか。色々考えたが、結局狙われているのは俺だけだ。あの場には諒子もいたが指名手配するにあたって彼女は何の記録も残していない。俺が目立つのが問題なのであって、諒子が目立つ分には問題ない。性別上、彼女が俺と疑われる確率は皆無なのだから。
「ちょっと路地で隠れてる。お前が中身を取ってくれ」
「……私が? ああ―――汚くない、か?」
「多分。もし汚かったら後で責任もって俺が洗うよ」
人に頼ってばかりなのが本当に情けない。自分一人でどうにか出来る規模でもないが、こんな所でも友達を頼らないといけないなんて。路地裏の自販機で適当に飲み物を購入していると、諒子が血相を変えて俺の下に戻ってきた。
「ちょっと。え、式君ッ。 こ、これはどうなの? 餞別ってこれなのか?」
「はあ? 一体どんな―――ああああ。最悪だよこれ。こんなもんで何させる気だよあの人は」
清涼飲料水と引き換えに俺が受け取ったのは拳銃だ。種類には疎いが自動式拳銃という事くらいは分かる。エアガンの方は流石に触った事くらいはあるが、エアガンと実銃でどういう違いがあるかも分からないので迂闊に弄りたくない。
「…………諒子。これ何か分かるか?」
「―――多分グロック二四。でも使った事とかないぞ」
「この国で使う事とかねえだろ普通。なんつー置き土産だよ。ってか何がメサイアだよ。暴力の象徴みたいな物置いてくんじゃねえよ」
とはいいつつも、護身用の武器はあって困る事がない。諒子に弄らせた所によると弾倉はマックスまで詰め込まれている。糸を狙い撃ち出来ればナイフよりも遥かに効率的だが、そもそもあれだけの人数を前にちまちまと糸を切る余裕はあるのだろうか。
それ以前に習ってもない射撃がまともに機能するのかという点で不安になり、俺はそれを改めて諒子に渡した。
「…………すまん。俺には扱えないからお前に渡す―――すまん」




