恋も愛も分からない
マンションに入ると、まるで自分の部屋に帰ってきたような錯覚を覚える、部屋に入っても物腰柔らかで甘えん坊で、時々泣き虫な妹など居ないが見慣れた高所の景色には僅かに緊張が解れた。それでも部屋の内装や家具の高級さがウチとは段違いだ。テレビなんて妹が三人くらい必要な横幅である。こんなテレビで番組が見られたらさぞ楽しいだろう。
「凄い部屋だな……一人暮らしなのか?」
「今はそう。でも男の人を通したのは有珠君が初めてだよ? こっちが寝室です」
「はあ、寝室も広いんだ…………」
「―――どうしたの?」
一人で寝るには広すぎるなと思っていたら、思考を中断させてしまう代物が飛び込んできた。ベッドの上に散乱しているのはこゆるさんの下着だろう。色とりどりなだけでなく様々な形状が乱れている。妹の下着を覗き見るような変態ではない為、下着一つとっても色んなタイプがある事も知らなかった。俺の反応に違和感を覚えたこゆるさんが飛び込んできて、同じ様に硬直する。
「…………あ、あ! ちょ、ちょっとあっち行ってて下さい! いいから! 早く! かたづ、片付けし忘れたんたんたん!」
「おお見なかった事にする…………悪い」
どうもこゆるさんは自分が準備出来ている事については強気になれるが、想定外のハプニングに対してはアドリブが利かないらしい。珍しく可愛いと思えた一面だ。今の所は全面的に危機感が勝っている。この人が本気になれば免疫のない俺なんて本気で陥落するのではという真面目な部分も含めて。
いつも慌ててくれれば可愛いのに、なんて身勝手だろうか。
高級な家具が並べられているリビングは見ているだけでも感心するが、広すぎる部屋が仇になって生活感が薄れている。マンションなので自力で建てた豪邸みたいなものに比べればたかが知れているが、それでも広い。ここに住人が一人居るだけでも違うだろう。例えば俺が住んだらそれほど広いとも思わない筈だ。
「ご、ごめんね! 変なの見せちゃって。録画だったよね。直ぐに準備するから有珠君も着替えて着替えてッ」
言い出しっぺのこゆるさんは掃除ついでにノースリーブのセーターに着替えていた。セーターの丈の下は生足で、服を着ているようには見えない。丈が長いから辛うじてひとつなぎの服として成立している。そのデザイン上、どうしても胸に視線が行くが、それで揶揄われるのが嫌だったので強引に視線を逸らした。赤い糸―――『セカイ視』はいつも俺を助けてくれる。
「着替えとか別にいいよ。今日泊まる訳じゃないんだし」
「そんな事言わないで。服だってあるの。ね……お願い! おねがーい」
「…………分かったよ」
あまり機嫌を損ねると今度は録画を見せないと言われるかもしれない。多少粘ろうが突き放そうが今はどこまでもこの人に主導権がある。俺には対等っぽく振舞う事しか許されていない。どんなトンデモ衣装を着させられるかと冷や冷やしていたが、渡されたのはパジャマみたいな灰色のルームウェアだった。
「……ここで着替えればいいか? それとも何処か別の場」
「ここで着替えて!」
食い気味に言葉を被せられた。それ自体に意味はないがいよいよ恐怖が背筋を這ってくる。何が脅迫の材料になるか分からなくて―――必要以上に警戒しているのかもしれないが。車内のやり取りを経て警戒するなというのは無理な話。俺はこゆらーじゃない。
―――でもサイン貰えなくても困るしな。
弱みというなら既に二つ。録画と妹。主に後者。妹がファンである以上この人には強く出られない。あんまりにも酷い要求なら拒絶するが、こういう軽い頼みはどうしても理由が考えられないというか、機嫌を損ねる気がしたのだ。
「…………なんか見られながら着替えるなんて変な気分だな」
「嬉しい?」
「恥ずかしいんだよ」
本当に恥ずかしいので手短に着替えようとすると、俺の上裸を見て「素敵……!」などと漏らした。新手の公開処刑だ。褒められて嬉しいよりも恥ずかしいという感情が先に来る。それ以上の感情はない。純然たる羞恥心が膨らんで本当に消えたくなる。相手に興味があるとかないとかではない。何が最悪って一々喋りかけてくる事だ。見つめてくるだけなら俺が気にしなければいいだけなのに、否が応でも声は聞こえてしまう。
「有珠君って何かスポーツとかやってたんですか? それともボディビルを目指してた?」
「んなに筋肉ないよビルダー馬鹿にすんな。俺は……まあ、色々あったんだよ」
まだ糸の正体も分からなかった頃、俺以外の全てが操り人形にしか見えなかった時は、学校で誰かと関わるだけでも辛かったのに外で少し困れば声を掛けられて本当にうんざりしていた。何故身体を鍛えたかと言われたら逃げる為だ。太っていたら追いつかれるし、狭い道にも逃げ込めない可能性がある。また疲れたら困っているという事でもある為、無限ループに陥る。
だから何故身体が鍛えられたかと言われたら生存本能に基づいた結果だ。俺にとっての嫌いはただ性格が合わないからとかそういう次元ではない。身体に実害を及ぼすくらい嫌なのだ。それを避けて避けて避けてそれでも避けきれなくてを繰り返せばこれくらいにはなる。
「……教えてくれないんですね」
教えて、どうなる。
治してくれるのか。
『意思』の規定を、その歪みをどうやって正す?
「……いいや。隣座って。録画を見せるから」
「―――ああ」
もう腕をからめとられるのは慣れた。片手でリモコンを操るこゆるさんの顔は心なしか寂しそうだ。それにしてもむくろに視界の病状を戻してもらって助かった。これでこの人を起点に赤い糸が広がっていたらとてもじゃないが堪えられない。
「これです。この録画! ……つけるね」
コマーシャルはスキップで飛ばして、番組が始まった。基本的にはMCがゲストと一緒にVTRを見て、たまにVTRで登場した職業の人間が実際に現れるという流れだ。録画された回ではそれが問題の占い師である。
『さあね。なんと先程、Vでご覧になった願いを叶える占い師の早渡廉次さんです!』
テレビカメラがばっちりと顔を写す。見覚えのない顔だが、十分特徴に残る顔だ。髪にメッシュが入っている所とか、顎に傷が入っている所とか。これを携帯でハイドさんに贈ればメサイアネットワークで何とかならないだろうか。
携帯を取り出して直ぐに写真を撮影しようとすると、こゆるさんが俺の手を止めた。
「ちょっと待って」
「何だ?」
「録画を見せたんだよ。見返りとか……欲しいな」
「……見返りか。まあ確かに。タダより高い物はないな」
脅迫と併せてどんな状況で俺を困らせるかを考えたら無数に浮かんでくる。焦る気持ちが先行していたが少しでも借りがなくなるならここで消化しておいた方が良い。俺自身に興味はないが妹の為なら仲良くする事も吝かでは。
「どうすれば私を好きになってくれる?」
………………それは。
幾ら目を逸らしても悟らないといけないものがある。ハニートラップの一切をやめて、こゆるさんは真正面から問い質すようにもう一度言った。
「どうすれば、私を好きになってくれる?」
「……………………人からの好意は嫌いなんじゃなかったか?」
「有珠君は別だよ。でも、確かにそう。好かれるのが嫌いになった。だから私には……好かれ方が分からない。色々試したよ。でも有珠君の心の中には別の人が居るみたい。それって誰? 私よりも―――可愛いの?」
「………………………」
あんな絢爛な美貌を持った奴に勝とうと思うのがそもそもの間違いだ。心の片隅にはいつも、アイツの笑顔が焼き付いている。耳をすませばそれだけで、『有珠希!』と叫ぶ彼女が現れる。その声は清らかな心の落ち着くモノではないが、とてもよく通る。一度聴いたら離れないような生命の力強さに溢れている。
「……………………」
「―――そうなんですか。分かりました」
沈黙は時に雄弁となる。こゆるさんは全てを察したように目を閉じて―――
「廉次さん。私の願いを叶えて下さい」




