四月の恋の風物詩
ハイドさんはシルクハットを手に取ると、俺に被せてきた。不審者のシンボルを押し付けるのはやめてほしい。カガラさんに渡したら「渡さないでよ」と拒絶された。じゃあこの帽子はどうすればいいのだろう。
「携帯、出て下さいよ」
「ああ……悪いな。携帯は諸事情で使えなかった。それよりも何でI₋nがいる? 俺にとっちゃそれが気がかりだ」
「別に来るなとは言われてないし。まあ気にしないで下さいよ。邪魔をするつもりはないし」
さて、どう反応するだろうか。ハイドさんがどうして庇うような発言をしたかはここの発言次第で糸を視なくてもある程度絞れる。というかやっぱり糸は視ようとして分かるものじゃない。自力で分かるのは色までだ。
シルクハットが消えるとハイドさんは只の色男になるが、顔が良い程度で目立つならカガラさんだって即戦力のアイドルだ。大体顔の良さで言ったらこの付近の群衆全ての目当てであるこゆるさんが極めているだろう。
「……まあいい。せっかくだ、少し俺の仕事を肩代わりしろ。せっかく来たんだから仕事はしねえとな?」
「人使いが荒いなあ。ここに居る人達みたいに自由にさせてくれよ」
「そう言えば国中がこんな状況なのに随分呑気ですね。普通に考えたら街を挙げて復興とかすると思うんですけど」
「周囲が荒れてる程娯楽は必要だろうが。シキミヤ、その思想は危ねえぜ。娯楽を規制すりゃ国民がせっせこ働く……訳ねえだろ。娯楽は精神的な食糧だ。食糧で肉体が死ななくても心が死ぬんじゃ意味がねえ。その娯楽が危険ならともかく、好きなアイドル追いかけるくらいは許してやれよ。大体てめえだって呑気に引っ越してんじゃねえか」
「いや住居は大切でしょ。それとこれとは話が違いますよ」
「いーや一緒だな。住居とは言うがてめえにはキカイと同じ場所で暮らす選択肢があった筈だ。必要のない引っ越しは娯楽以外の何だって言うんだよ」
そう言われると言い返せない。牧寧の望みを叶えたと言えばまるで救世主か神様のようだが、当の妹は家で邪険にされていた訳ではない。暮らすだけで良いなら引っ越す必要なんて存在しなかった。だが引っ越しが楽しかったかと言われると……いや、後に精神的な余裕を貰っているなら娯楽か。
「それになあ、金の流れが崩壊してる事に関しちゃ国民が全員協力したとしても簡単にどうにかなるもんじゃねえよ。ましてもう善意は通用しねえ。だから国民様には出来るだけいつも通り生活してもらわなきゃな。それはそうと……これじゃお目当ての奴に声を掛けるのも無理だな」
人ごみを潜り抜ける力はない。ましてこれだけの人の量に突っ込むのは文字通り死にに行くような物だ。俺以外の誰にも理解は出来ないだろう。近い所で諒子が限界。無数の糸に彩られた視界の終末具合は現実世界がどうあろうと変わる物じゃない。
いっそ人類なんて滅んでくれれば楽になるが、自分の気持ち一つでそこまで願う程傲慢になった覚えもない。
人の壁に穴がないか探してみたが、仮にあってももう埋まっていた。何処を見渡してもうじゃうじゃと埃のように人間が溜まっている。不愉快だ。気分が悪い。人間のいない方向を見ても今は赤い糸が視えてしまうので気休めになるかならないか。直視よりはマシ程度。
「撮影会って事なら列にならべばいいんじゃない?」
「列なんて何処にあるんですか?」
そう、列なんてものはない。弧状に並んでいるといういい方も出来るが順番なんて物はないだろう。我が先に我が先にと、醜いファンの仁義なき争いが始まっている筈だ。善意の譲り合いなどという概念はない。単なる戯言のつもりで聞いてほしいが、あれだ。皆、善人を演じるのに疲れた反動が来てしまったのだ。
「……で、ハイドさんはいつ行くんですか?」
「ああん?」
「テレビ局」
俺に指摘されてようやく気が付いたようだ。言い訳っぽく『今行こうと思ってた』と反論して、カガラさんを侍らせながら金属の杖を突いて歩き出した。二人して珍妙な格好故、ただ歩くだけでもその姿は微妙に人目をひきつける。こゆるさんを巡ってこの争奪戦に向かおうとする人間にとっては些末な事だ。俺が考えあぐねている内にまた数人が参加している。
「あー」
どうしよう。ファンの熱意には勝てる気がしない。何とかしてこゆるさんと接触しないといけないのにこれではそれ以前の問題が解決しないままだ。普通に苛ついている。マキナを俺の都合に巻き込む訳にはいかないし、それだとデートにならない。あんまりアイツに頼りすぎると人間として駄目になる(一緒に住まないのもそういう理由)気がするので、ここは何としても自分の力で切り開きたい所だ。
「………………」
待とうか。
時間が掛かりすぎる? それはそう。
「………………」
ポケットの中にあるナイフを弄りながら、白と青の糸を直視する。全員分を切れば空きそうだが、後方でナイフを振り回している人間の危なさは常識的に考えても計り知れない。今の状況だと極々当然の物として警察に捕まるだろうし、色々考えても昼間に使える手段ではなさそうだ。
色々考えた末に、少し離れた場所でまずはこゆるさんの存在を確認する所から始める事になった。撮影会は事実でファンも押し寄せているが、まだこゆるさん本人を確認した訳ではない。頑張って人ごみを抜けても本人が居なかったら骨折り損だ。丁度坂を上った所にあるお店は外に飲食スペースが広がっているのでそこから見下ろせば確認くらいは出来る筈だ。
「…………あー」
しかしお店は閉店していた。よくある光景だが、他のお客さんの姿が見えなかった時点で察するべきだったか。今の世界だと不法侵入も取り締まられるだろうが、こんな所で俺を取り締まれる程暇ではないだろう。死体がまだまだ散らばっている事に賭けて不法侵入。木製の椅子に座って、人込みの方を観察する。本当に見やすい。お店だった場所は店内から外付けで場所を拡張しており、坂に合わせて高く作った土台の上に机を置いているから非常に使いやすい。身体にも負担がなければ偵察場所としても文句なしだ。これで軽食の一つでもあればつい出に昼食も済ませられて完璧だった。
「……おー居た…………か?」
視力が悪いとは思わないが、細かい表情までは視えない。でも多分、あれがこゆるさんだ。遠目から見た雰囲気が何となく牧寧に似ているのが根拠。ただし似ているのはそこまででスタイルは哀しいくらい違う。そのことに関しては妹も気にしているので、もしも二人がそっくりさんになってもそこで分かる。
撮影会というのは握手とツーショットでワンセットらしい。戦いを潜り抜けたファンはここから見ても満足そうに帰宅しているので、アイドルとしての仕事はちゃんとこなしているようだ。あんなにファンを嫌いと言っていたのに……いや、俺は諭した側だが。それでも意外だ。
目を机の下に向けて、ストレスをやり過ごす。
遠距離から観察する方法の欠点はただ一つ。視野が広がってより多くの糸を捉えてしまう事だ。本当に辛い。視ているだけなのに目が割れそうだ。
「……ここから手を振ったら見えたりしないかな」
楽な方に楽な方に物事をシフトする。追い詰められた時の悪い癖かもしれない。今まではそんな事よりもストレスから逃げる方法を探していたが、どうやっても逃げられないなら出来るだけ楽に済ませないと。
もしくはSNSのアカウントを今すぐにでも作ってこゆるさんにメッセージを送るとか。行為の是非はともかくただ会いたいが為にやるのは迷惑行為でしかなさそうだ。自分でも不思議なくらい横暴になれない。取り敢えず挑戦しようにも、迷惑が掛かる事を思うと動き辛い。
「ハイドさんには案出させてから行かせるべきだったなー……」
あんまり時間は掛けたくない。マキナとのデートは別に時間こそ決まっていないが蔑ろにし過ぎると機嫌を損ねる。何とかして今すぐにでも気付いてもらう方法。ファンにつけ狙われないで済む方法…………!
「………………これしかないな」
利用するのはネット媒体の拡散力。そしてファンの力。
何の根拠も確証もないままに、俺は持っていたナイフで腕を切った。
「ぐおおおおおあああああああああ! いっあああああ……!」
これは持論だが、多少の怪我の方が喘ぎ声が良く出る。重傷はそれどころじゃない。本当に驚いた時は声が出なくなるあれだ。噴き出した血液で机の上に『こゆるに会いたい』と書き記して、横には『凶悪指名手配者』と彼女にだけ分かるような名前を書いておく。まだ善意が最強だった時代に起きた出来事なので今の人達は何の事だかさっぱりの筈だ。式宮有珠希が人類初の指名手配犯だった場合はこの限りではない。
そしてこれを新規作成したSNSのアカウントに『こゆらー』のハッシュタグをつけて投稿する。本人のフォローは勿論忘れない。流石に直接送りつけるのは気持ち悪すぎるので控えた。しかしこれで気付かないようなら腹を括るしかない。
アカウント名は四月アリスにしたが……有珠という呼び方がそもそも女の子っぽいので気付けるだろうか。
「―――杞憂だったな」
作成からまだ十分と経っていないのにもうフォローを返された。どういう魔術だ。




