日常 再構築
二月十四日。
「ようやく荷解きも終わって、新しい我が家って感じがしますね」
俺と牧寧は無事に引っ越しを終えた。
ここに至るまでの経緯は話せば長くなるが、電話で連絡を取り合って夜逃げのような形で何とか引っ越しを達成したのだ。『認識』の規定の影響力が下がったせいで苦労する事も……別に無かった。『私の計画に抜かりはありません』と豪語するだけはあって本当に何の心配もない。俺の視界にすら出番は一度もなく、ただただ俺は妹に従っていたら全てが終わった。
「……お前は俺と違って必死で探されるだろ。本当に大丈夫なのか?」
「ええ、何も心配なさらず。両親や那由香が私達を探しに来る事は絶対にあり得ないので」
「……言い切るな」
当時糸を読んだ所によると、那由香は家出なんかしていなかった。俺を家から追い出す口実だった訳だ。あれ以来本当に家には入れなかったので、暫くマキナの家で泊めてもらいつつ妹とコンタクトをとって(その間のマキナと諒子はかなり機嫌が良かった)、今その苦労がやっと成就した形となる。
「言い切りますよ。ふふ、だって兄さんとの念願の二人暮らしですよ? 万が一にもこの幸せに傷を付けられるなんてあってはならない事。御覧になって下さい兄さん。窓から見える景色を、私達の足元を。まるで全てを掌握したみたいではありませんか?」
俺達の新居は、高層マンションの最上階(屋上ではない)。この階だけというよりマンション全体が牧寧の所有物になっており、下の階には別に誰も済んでいない。住まわせる気もないらしい。曰く『私と兄さんとそれ以外の距離を物理的に表した結果』だそう。俺にはさっぱり分からないが、隣人も住人もいないなら気兼ねなく過ごせるのは違いない。病室なんかだと隣に入院者が居るとテレビ一つとっても音量を絞ったりそもそも就寝時間は気を遣って点けないなんて配慮もしなければいけないが、そういったややこしい人間関係をまるっきり無視出来るのは非常にありがたい。糸も妹一人分なら負担でも何でもない。
その妹を起点に糸は広がっているから、やはり長時間視るのは辛いが―――それでも、ずっと楽だ。
「―――しかしこう見るとあれだな。ダブルベッドで寝るのに違和感があるな。 お前と俺の共用だろ」
「……嫌いですか?」
「違う違う。前はほら、俺のベッドで寝てただろ。お前の身体がちっこいから成立してた感じで……だから広さがちょっと、な」
「ああ、そういう事ですか。直に慣れますよ。それにあそこはやはり窮屈でしたから。それはそれで兄さんに抱きしめられてる感覚がありましたけど、これくらい広かったらもっと色々な触れ合い方が出来るでしょう?」
新居に引っ越すとはこういう感覚なのか。未だに自分の家という感じがしない。キッチンも広くて綺麗で、設備がやたら最新で、お風呂こそそこまで大きくはなっていないが、それでも家の一回りは大きい(あまり大きいと色々と面倒があるとの事)。
何もかもが違う家を我が家と思うには時間が掛かるだろう。ただし今回は時機が悪すぎる。既に妹には伝えてあるが、今日という日は俺にとって大切な日だ。
緑色のカーテンを開きながら鼻唄なんか歌っている妹に切り出すのは心苦しい。彼女がベッドに倒れて仰向けになった時を見計らい、声をかけた。
「なあ牧寧。俺、今日……」
「分かっています。こゆるちゃんに会いに行くんでしょう? ええ、別に構いません。私も少し計画を変更しないとと思っていた所です」
「計画は完璧じゃなかったのか?」
妹は仰向けになったままキッチンを確認している俺に視線を向けて、器用にウィンクをした。
「それ自体は完璧ですよ。しかし本来は中学卒業を契機にこうなりたかったもので、かなり前倒しする形で成就させてしまいました。とすればこの後の予定にも影響が生じるのは必然。兄さんが東京に行っている間に修正するつもりです。ああそうそう、これは妹からの切実なお願いですが。こゆるちゃんのサインを貰ってきて欲しいなと。嫌ではないですよね?」
「分かった分かった。それはちゃんと貰いに行くよ」
どうせこゆるさんに用があるのだから、そのついでにこなせばいい。あの人だってファンを無碍にするような人間ではない筈だ。牧寧は同性、しかも年齢も離れているし。家を一通り見て回ったら疲れたので妹の隣に腰を下ろすと、彼女は俺の腰にしがみつくようにして押し倒してきた。腰まで伸びた綺麗な黒髪を身体に摺り寄せてくる。
「…………それと。撫でてくれませんか?」
「藪から棒になんだ?」
「―――兄さんに髪を撫でられるの、好きなんです」
こういう所は本当に変わっていると思う。髪は女の命。兄妹とて簡単に触らせないのが普通ではないのだろうか。俺だって別に丁重に扱っている訳じゃない。極力そうあろうとはしているが、美容のびの字も知らないような人間だ。髪を傷つけない優しい触り方を心得ている道理もなく。
「……行くまで、こうしてて欲しいんです」
「マジか」
「本当はずっと我慢してたんです……大人っぽく振舞うのなんてやめて、ずっと甘えたいって……ふふ。だから今は、涙が出るくらい嬉しいです。もう誰も、私と兄さんは引き裂けないんだって……!」
「泣き虫め」
「ええ、泣き虫です。すん、すんっ。私は泣き虫だから、兄さんが傍に居てくれないと駄目なんですッ。だから―――必ず帰ってきてくださいね? 約束ですから」
白いブラウスを涙で濡らしながら、牧寧は俺の身体に蹲った。妹に縋られるのはそう悪い気分ではないが幾ら何でも大袈裟である。俺はこれから戦地にでも行くのか、ではいつから大戦が始まろうとしているのか。普通に行きたくないので時期さえ教えてくれればマキナに頼み込んで終結させたいのだが。
「―――泣くなよ。美人が台無しだぞ。お前、今日はバレンタインじゃないか。どんな美人でも泣き顔は…………まあ何だ。とにかく泣き止んでくれよ」
あの日見た先輩の悲痛な笑顔が脳裏にちらついて、説得力が無くなった。何故俺は、あんな物に魅了されてしまったのだろう。まるで全てを恐れている伽藍洞の表情に味わいも趣も存在しないというのに。
「……そう言えば、そうですね。でも私、クラスメイトにチョコを渡す気はありません」
「本命が居ないタイプかお前」
「本命も居なければ渡す義理もない、という訳です。特別親しい友人は居ませんから」
じゃあバレンタインその物に意味がないのか、と言われると違うらしい。牧寧は俺から素早く離れると、慌ててクーラーボックスの中から小さな袋を取り出した。それが何なのかは糸とかそういう問題以前にバレバレだったが、妹は隠し通せたと思っているらしい。背中に手を隠して不思議なステップで距離を詰めてくる。
「兄さんはとても幸運な人です。何てったって私からチョコを貰えるんですから!」
この話の流れならそうなるだろう。クーラーボックスなのは冷蔵庫の設置が済んだばかりというやんごとなき事情がある。その辺りまで拘ろうとすると流石にバレンタインを過ぎるので、牧寧としても妥協しなくてはいけなかったのだろう。こればかりはどうしようもない。今日この日をバレンタインと定めた由来が悪い。
「……有難う。バレンタインなんて、貰った事ないよ」
「かつての家では、邪魔者が居ましたから。でも今後その邪魔は入りません。さあどうぞ、受け取って下さい。色々な意味含まれチョコです」
「何だそのロシアンルーレットな感じは」
袋を受け取ったが、それ自体に変わった仕掛けはないようだ。一方で市販でもないのは明らか。何せこの小袋は妹が自分で縫い上げたものだ。その証拠に、縫い目が割と甘い。チョコだけに。
…………。
「チョコレートの一つ一つに色々な思いを込めて作ったんです。兄さんも食べる時、私がどんな思いを込めたのか当ててみて下さい? 全問正解した暁には―――」
「暁には?」
「…………褒めてあげます」
成程。何も考えていなかったようだ。牧寧も目を瞑って誤魔化す辺りかなり苦しい。
「そうか。じゃあ褒めてもらえるように頑張らないとな。そろそろ行くよ。チョコ、有難く食べさせてもらう」
「はい。行ってらっしゃい。此度は諦めますが、今度からは私も誘ってくださいね?」
妹の笑顔に見送られて外に出ると、マンション特有の浮遊感が足元をすくった。これで今すぐ地上に真っ逆さまとはならないが、高所を視るとどうしても飛び降りるイメージが湧いてしまう。早く下りないといけないが、地上何十階とあるマンションを階段で降りようとすればそれだけで疲労しかねない。文明の利器ことエレベーターを数秒待った方が建設的だ。
―――そういえばこれ、点検の時とかはやっぱりアイツが色々呼ぶのかな。
重力に多少の酔いを感じている内に一階へ。自動ドアを抜けると、道路の端に見覚えのある黒い車が停まっていた。
「わざわざ学校休んでまで行くのにまた同じ車かよ、とでも思ったかい? シキミヤウズキ君?」
「うおッ!」
その反対方向から肩を組んできたのはカガラさんだ。またとはどの口が言うのか。この人こそどんな状況下でもゴスロリ服を着てばかりのマンネリ系女子ではないか。
「今日は約束の日だ。東京に着くまでは数時間くらいかかる。何せここは田舎、あっちは都会だ。その違いは言うに及ばず、近づくにつれて道路も混んでくるだろう。私は君の視界を理解出来ないが、大方車の数だけ糸は増えるんだ。只のドライブと言えば聞こえはいいが、君にとってはかなりの苦行となるだろう」
「何が言いたいんですか?」
「察しが悪いねえ。暇つぶしの道具を色々持ってきてあげたのに。君に比べれば負けるが、私も退屈は嫌なんだ。どうかな? 遊び相手になってくれると助かるんだけど」
暇つぶしの道具が何かにもよるが、トランプやビデオゲームであれば糸は増えない。流石にこの糸もゲームのキャラには伸びたりしない。それで視界を狭めて負担を減らす事が出来れば確かに目は休まる。まだ車に乗ってもないが、カガラさんの提案はとても魅力的だった。
「いいですよ。でも大丈夫ですか? 車酔いとか」
「それくらいはメサイアで矯正されるさ。紗那と比べたら見劣りはするけど、あまり私を舐めない方が良いよ?」
「ああ、いやそうじゃなく……て。俺の方は―――するんですけど、ね」
バツが悪そうに眼を逸らす俺を見て、カガラさんは眉を顰めた。
「……仕方ないなあ。私も車酔いをするかもしれないしね。一応、酔い止めを持っていこうか」
「―――これ、後で脅しの材料とかに使われます?」
「こんな下らない脅しがあってたまるか…………いや待てよ。うーんそうだね。あるかもね? その時は良い返事を期待してるよッ」
気付けば車の前まで歩かされていた。背中を押されて後部座席に押し込まれる。体勢を整えた時にはもう彼女も乗っていた。
―――ん?
「あれ? カガラさん行かないんじゃ―――」
「はいしゅっぱつしんこー」
俺の疑問をよそに、車は発進した。
新章。




