たった一度きりの成就
先輩に何処へなりとも行くつもりで付いていくと、普通に人が住んでいるマンションの裏手に地下に続く階段を発見した。入り口に蓋をしているのはゴミ捨て場のゴミであり、何の疑問も抱かずゴミをどかす先輩には俺も首を傾げざるを得ない。
仮にも制服姿でそれをやるか、と。
「心配しなくても、自分で用意した偽装ゴミです」
「持ってかれないんですか?」
「仮に持ってかれてもまた作るだけです。さ、こちらへ」
懐中電灯を片手に俺はされるがままに連れていかれる。逃げようと思えばいつでも逃げられる。先輩の力は女の子のようにか細くて、それは、あのマキナと真正面から戦える人にしてはあまりにも弱い。以前とは打って変わって強引さなどなく、『逃げたいならいつでもどうぞ』と言わんばかりだ。
―――聞きたい事、あるし。
逃げるつもりはない。階段の奥に続く扉の鍵を開けると、独房のような小さな部屋が俺を歓迎した。部屋を照らしている明かりは蝋燭が三本のみ。鉄格子の先にあるベッドを除けば木製の机と椅子以外は何もない。
「……先輩。先輩は誰にも動かせないって聞きましたけど」
「……確かに、メサイア・システムとしての私は活動を休止しています。ですからその活動で得た財産は使っていません。よって、今の私はただの未礼紗那です。強いて言えば、学校の先輩ですね」
先輩は自ら鉄格子の先に入ると、扉を閉めて鍵を掛けた。何の意味があるのか分からなくて困惑していたが、彼女の糸を視れば理由は直ぐに判明した。要するに手出しはしないという意思表示だ。どうも先輩は俺の手首を折ったり足を折った事にかなり負い目を感じている様で、見た目的に手を出せない状況に追いやらないと安心できないようだ。
もうそんな事、気にしていないのに。この人はつくづく根っこが善良というか、単に優しいというか。
「タオルが机にあるので、それをどうぞ」
「え。あ。はい……地下室って意外に温かいんですね」
「私が温めておいたからですね。どうぞ、好きなだけ温まってください」
「……何で俺を助けたんですか?」
「雨に濡れた後輩を助けるのは先輩の役目です。それ以外、理由なんてありません。私的な行動ですから、篝空さんには内密に」
椅子に座りながらタオルで適当に身体を拭く。身体は随分と雨に晒されていたのだとこの時実感した。芯まで冷えていた訳ではないが、身体が温まっていくと相対的に寒さを味わう事になっているというか。
「…………君に言われた事を、考えてました」
「へ?」
「幻影事件がキカイの仕業でなかったら、という話です。そうであったなら確かに、恨む理由はないんですよ。でも……真実がハッキリしない事には、何も分からない。私は何の味方をすればいいのか。ずっとそれだけを考えてました。そして、キカイの仕業だと教えてくれたクデキさんも信用出来ない……今まで、たくさん無実の人を殺してきたんだって知って―――もう私は、戦うのが怖くなりました」
未紗那先輩は笑っているのに、泣いている。不思議な状態を何と言い表そうか。なんて綺麗な笑顔なのだろう。感情が見えなくても、己の罪を吐露する事が悲しくない訳が無いのに。見惚れてしまった。陰に蝕まれたその表情は、美しいなんて言葉では済まされない。
眩すぎる美貌と生命力に満ちたモノがマキナなら。
退廃的な美貌と悲憐に満ちているのが今の先輩だ。
「結局、私はただの子供だった。全部知っている気で振り回されてただけ。力があっても何も変わらない…………それでも、私には力しかない。だから―――」
制服の袖で涙を拭い、未紗那先輩は目を瞑った。
「君の味方をしようと思います」
「…………俺のって事は、マキナと協力してくれるんですか?」
「勘違いしないでください。どっちみちキカイは嫌いです……真偽のはっきりしない恨みよりも、はっきりした妬みが……いえ、何でもありません。ともかく、キカイと協力なんてまっぴらごめんです。しかし積極的に戦うつもりもありません。私は飽くまで後輩の味方をします」
「…………?」
よく分からない。
俺はマキナの味方なので、俺の味方をするという事はつまりマキナの味方をするという事だ。それが違うと言われても、そんな筈はない。しかしどうしても先輩としては譲れない部分のようで、何度同じ問いをしても同じ答えが返ってくる。
―――じゃあ味方じゃないような?
「君には事情があるでしょう。私にキカイの関係を偽ったり、アンヘルさんと密かに繋がりを持っていたり」
「げ。ちょ、先輩。それはちょッと―――」
「分かってます。秘密ですね。そんな感じで君にはキカイに介入して欲しくない状況というものがある筈です。そんな時に力になります」
「えっと―――ありがとうございます。電話すれば、いいんですか?」
「電話なんて文明の利器に頼れるような暇があるならそれはピンチではないでしょう。心配しなくても、君の事はずっと観察してるので大丈夫です」
せんぱいが すとーかーに なった!
今更気にする事でもない。この人は俺に危害を加えようとする事に恐怖を持っている。糸を読む限りでは、俺がこの場で押し倒し、制服をひん剥いて犯そうとしても指一本動かさないだろう。やる気も無ければ活力もない。未紗那先輩にはおよそモチベーションと呼べるような感情が見当たらなかった。
「―――あの。何でそこまでしてくれるんですか?」
「幻影事件を解明しようとしてるんでしょう。それが理由じゃ駄目ですか。それ以外でしたら……迷惑のかからない範囲で受け付けます」
「じゃあ―――また学校で会いたいです。今月はどうせ休みでしょうけど」
「わざわざ学校で会いたいんですか。君も物好きですね。ええ、本当に物好き。キカイを好きになるなんて酔狂もいい所―――会うだけなら今日みたいな形でもいいでしょうに。何故です」
「………………好きだから?」
暗闇の中で瞑られていた瞳がパッと開いた。その表情には俺の良く知る穏やかな先輩が微かに残っていたがそれも束の間、名残は溜息に代わり、部屋に流れる。
「―――ぜんっぜん。嬉しくありません」
「……駄目ですか?」
「いえ、好き嫌いで決める程、私は感情的じゃありません。分かりました。二月からまた登校します…………私からの用事は、以上です。机の下に傘を用意してあるので、帰りはそれを使ってキカイの所にでも帰ったらどうですか?」
「……あの先輩。もしかして拗ねて―――」
「ません」
流石に小学生なだけはあって、妙な所が幼い。普段の俺ならもう少し先輩に寄り添うだろうが、今日は諒子との約束があるので本当に帰らないといけない。そもそも先輩が何に拗ねているかもよく分からない。過去の俺の態度が悉く不誠実だったという点で怒っているなら、謝るしかないのだが。
「……そろそろ帰ります。有難うございました」
「はい。お気をつけて」
やはりこの人は引き止めない。そうされても帰るつもりだが、キカイ嫌いを拗らせていた先輩がここまで素直だとちょっと心配になってくる。けれど、その心配をする資格が俺にあるのだろうか。先輩をこんな風にした原因の一端は俺にあるというのに。
「………………先輩!」
地下室を出る直前、そう勢いづけたまでは良かったが続く言葉が何も思い浮かばなかった。俺は気の利いた事を言える人間ではないのだなと実感した瞬間でもある。だから口を吐いて出たのは、当たり前の言葉。
「俺にとって先輩は、貴方一人だけですからッ」
外の白さに視界を焼かれ、未紗那先輩の表情は分からない。
先輩の傘を頼りにマキナの部屋まで戻ると、既に扉が少し開いており、そこから銀色の瞳が廊下を覗き込んでいた。古今東西、銀なんて珍しい瞳の色はタダモノではない。残念ながらカラーコンタクトのそれを凌駕する輝きは、天然物以外の何と言おう。
「……何してるんだ、お前」
眼は何も答えない。状況が良く分からないので取り敢えず扉を開けると、引きずり込まれるように中へ入れられ、扉が溶接された。
「遅いじゃないッ。ずっと待っててあげたんだから!」
成程。未紗那先輩と違って非常に分かりやすくマキナはご立腹だ。腰に両手を当ててむすりと頬を膨らませている。怒り方は可愛いが怒らせた時の被害はシャレにならないのがこいつの特徴だ。和やかな雰囲気でもおちゃらけた謝罪は基本的にリスクが高い。それは俺とて例外ではないだろう。
「ごめん……そうだったか。もしかして俺が約束を破るとでも思ってたか?」
「ううん? ただ有珠希ってほら、色々特殊な立場にあるから。これ以上時間が掛かるなら探しに行く所だったわよ。本当はリョーコだけ帰ってきた瞬間からずっとずっとずーーーっと探しに行きたかったけど、貴方に迷惑がかかりそうだったから。用事は済んだの?」
「まあな。それも含めてちょっと全員に共有したい事がある。諒子と兎葵は?」
「リョーコは料理中よ。家でずっとやらされてたんですって。両親と、居もしない弟妹の分だっけ」
「は? どういう事だ?」
両親と仲が悪かっただろうというのは、糸を視なくても分かる。アイツは俺と出会うまで輪郭ドロドロの人間としか接する事が出来なかった。外見的にそれを気持ち悪いと思って接すれば険悪にもなる。俺と牧寧を除いた家族との仲が悪いのだってそれが原因なのだから。
だが居もしない弟妹の方が少し気になる。デリケートっぽいので気軽に聞くのは遠慮したいが。
「興味ないわ。兎葵の方は机で携帯を弄ってるわ。それで、何があったの? これだけ待ってたんだから先に教えてくれてもいいでしょ?」
むしろ教えなければ機嫌を直してやらないと言わんばかり。白いセーターの袖でぺちぺち俺の頬を叩いて表情を下から窺ってくる。
「…………別に面白いもんじゃない。家の私物を全部表に出されて実質的な勘当を食らったんだ。俺があの家に帰る事は二度となくなった。牧寧との二人暮らしがどうなるかはちょっとよく分からないけど……そういう訳だ」
やや浮かない顔の俺とは対照的に、マキナは嬉しそうに両手を合わせる。
「じゃあもっと一緒に居られるのねッ! 有珠希はどうしてそんなに落ち込んでるの? そこまで家族と仲が良かった記憶はないんだけど」
「…………自分でも良く分からないけど、まあ家族は家族だし。なんだかんだ寂しいんだろうな」
「でも仲は良くなかったんでしょ? じゃあそこまで気にしなくていいじゃないッ。楽しくない人と一緒に居ても辛いだけよ。私、有珠希にはそんな顔して欲しくないなあ」
「―――お前みたいに割り切れないんだよ、俺は」
「雨が降ってるせいかしら。気分が落ち込んでるのね。お腹が膨れたらきっと悩みも晴れるわ! 食事にしましょうッ?」
マキナは感傷的になる暇を与えてくれない。いつになく強引にぐいぐいとリビングまで引っ張ろうとしてくる。
「ちょ、やめろって。分かったから! 自分で行くから!」
「はーやーくー!」
「だーもう! 分かったってば!」
誰よりも人間らしく、満面の笑みを浮かべるキカイにつられて表情が和らぐ。ここには視界を侵す糸もなく、俺が求めた綺麗な世界が見えている。家族を失った寂しさは埋められない傷になると思っていたのに……どうも俺は単純すぎる。
一抹の寂しさからあまりある温かさに、気が付かないなんて。




