幾年霜組マキナ先生
マキナの提案には乗らなかった。この待つ時間が愛おしいなどと言うつもりはない。今一度、改めてその力について知るべきだと思ったのだ。
「なあ。規定って結局何処まで何が出来るんだ?」
「え? どうしたの急に」
「『刻』の規定はあの男が使ってた感じだと触らなきゃいけない。お前のだって一部そうだと思うんだけど、今の言い方だとお前は一体何を触ってるんだ?」
「ああ……そういう」
そんな話をしていたら諒子が浴室から戻ってきた。替えの服が制服しかなかったのか見慣れた服装である。彼女は目覚めた俺を見るなり駆け寄ってきて、目の前で両手をついて四つ這いになった。
「式君ッ! 目が覚めたんだな……良かった」
「諒子……呼んでくれたんだな。悪い、俺の方はすっかり忘れてた。ありがとう」
「……!! ううん、いいの。君が無事なら……あ、お風呂入る?」
「いや、それはいい。後……ちょっとこの位置は不味いから横に来てくれ。これからマキナ先生が授業するから」
「何が不味いんだ?」
「いや……」
風呂上がりだからなのかそもそも持ち合わせがなかったのか(諒子は家を無くしている)、下着を着けてないとは思わなかった。制服も着崩している関係で色々見えてしまう。わざわざ説明するのはそこを見ていたと自白するような物で話がややこしくなるので誤魔化すしかない。
先生と言われて余程嬉しかったのか、マキナは眼鏡を探していた。使用者は一人もいない。
「んん! それじゃあ簡単に説明するわねッ! と言っても有珠希にはもう説明済みよ。『距離』の規定の時に説明したじゃない。ニンゲンは物理的な手段でしか干渉出来ないの。私がわざわざ触ってあげるのは貴方の手前、悪戯に被害を大きくするつもりがないからよ。一応このセカイの秩序様だし? 有珠希がどーしても見たいって言うなら、一回くらい本気出してあげてもいいけど?」
「遠慮しとくよ。それで、キカイはどうやって干渉するんだ?」
「規定は世界のルール。私達はそれを内包したルール自身よ。それってつまり自分に向けて使うようなものだから、大した事じゃないわ。やり方を教えたってニンゲンには到底出来ないし。ああでも有珠希みたいに本来知覚出来ないモノを認識してるなら話は別ね。例えば―――因果の糸に『愛』の規定を使ったら、そのニンゲンは死ぬまで影響を受ける事になるわ。ヒトの因果において関わる人間全てに、そのニンゲンを通して影響が伝わる」
中々笑えない話に怖気が奔る。俺の視界はひょっとして俺以外が手にするととんでもなく凶悪な力になるのだろうか。パッと思いつくだけでも活用出来る人間は三人くらい思い浮かぶ。ハイドさんなんて正に喉から手が出る程欲しい力の筈だ。この力が簡単に譲れるものなら譲ってもいい。それが出来ないから俺は非常に困っている。
「……私の、は?」
諒子の視界は人間の輪郭を認識出来ないというものだ。絵ならば想像しやすい。下手なりに人間の絵を描いて、そこから輪郭線を全て取っ払ったのが彼女の現実。俺みたいな異常さは控えめでもなまじ人間が型崩れな感じに見えるっぽいので、対人ストレスは俺の比じゃないだろう。彼女のを知ってから、俺はまだマシな部類だと思えている。
―――もう悪化は止められなさそうだけどな。
この部屋は特別仕様で綺麗なままだが、窓から景色を見ると木や家の屋根なんかに赤い糸が迸っている。俺の目は遂に無機物と人の因果を受け入れた。
「リョーコはちょっと難しいわね。私と有珠希だけ例外なんでしょ? うーん、因果じゃないのは確かなんだけど、よく分からないわ。でもリョーコの視界は好きよ? だって私と有珠希だけがトクベツなんでしょッ? うふふ♪ 何だか、嬉しい!」
共通点が見いだせないのでまた別のサンプルが欲しい所だ。ああ、あの男に誰から部品を貰ったのか聞いておくべきだったか。答えてくれたかは知らないし、アイツが死んでくれた事には俺もホッとしている。俺達がこれからも生きていく上で、ああいう奴は危険だ。生きてるだけで俺達と相容れない。そうなる前に排除出来たのは良かった。
「マキナ。『刻』の影響は治したのか?」
「私が把握してる範囲は治したけど、後は知らなーい。精査する義理なんてないわ。あんな奴等、どうでもいいんだから」
「どうでもいい存在なのに助けちゃうんですね、キカイって」
「お」
無愛想且つ嫌味な言い方が耳に馴染む。脚の戻った兎葵が大きなレジ袋を提げて怠そうに入って来た。
「有珠さん。無事だったんですね」
「…………?」
何だろう、この雰囲気。マキナはツーンと口を尖らせてそっぽを向いている。諒子もいまいちこの現状は理解しかねている様子で、俺と目を見合わせてアイコンタクトで互いに何も知らない事を共有した。兎葵の方もマキナとは目を合わせようともしない。不穏な空気だ。付き合いの長さが仲の良さに直結しているとは限らないのか。諒子の方がマキナから好かれているのは自明の理であった。
「兎葵、丁度良かった。お前に聞きたい事があったんだ」
「……外に忘れ物をしたんで、ちょっと待っててください」
「駄目。逃げるな」
兎葵の足が止まったのは、マキナの声に怯んだからではない。『強度』で足の裏と床とを接合されたからだ。直前にあった説明を実演するかのような遠隔操作。規定は人間には使いこなせない。その通りだと思う。
「…………何ですか。私、ちょっと探し物があるんです。脅されてるから協力はしますけど、部品拾いの会議はそっちでやってください」
「その探し物って、これか?」
マキナが身の着そのままで運んできた事が幸いし、ポケットの中身はそのままだ。兎葵にあの写真を突き付けると、いつもの無愛想が崩れ、目を見開かせた。
「それは……!」
「糸が視えないんだ。この写真には。どういう訳か教えてくれマキナ、兎葵。俺はこれと同じ状態の写真をもう一枚知ってる。牧寧が小学校に入る時の写真だ。このままだと俺には過去が二つある事になる。納得のいく説明をくれ」
「式君に、妹が二人いただけっていう、可能性はない、の?」
「アイツと血が繋がってるなんて考えただけでも寒気がします。やめてください」
兎葵はツインテールを解き、背中の半ば程までストレートに髪を放った。
「…………糸が視えない件は知りませんが、その写真は真実です。昔の有珠兄と私の写真です。もっと言えば、あの事件が起きる前の。過去が二つあるなんて馬鹿馬鹿しい話はやめてください。その写真はどうせ、私を取り除いて良い感じに編集した写真ですよ。アイツは兄がいる私をずっと羨ましがってた。そんな写真、信じないで」
「真偽は知らないけど、一応妹だからそういういい方はやめてくれ」
「何でそんな……写真を見たのに、アイツを庇うの!? 兄、やっぱ変わったよ。昔と全然違う。紹介した私が悪いのかな。そんなつもりで紹介したんじゃないのに、アイツは本気で兄に求愛してたもんね」
「そういう言い方、善くないと思うなあ」
「だから式君は、信じないんじゃないのか?」
自棄になりつつある兎葵の発言が慈悲も無く咎められる。マキナだけでなく、ほぼ初対面であろう諒子にまで。流石の兎葵もこれには青筋を立てて反論した。
「アンタらに何が分かるんだ! 兄を失った私の辛さが! 変わり果てた兄を見て何を思ってるか知りもしない癖に!」
「……そんなに式君が好きなのに、『今』を見ないんだ」
トモダチは自身の手首を握り、俺の方へ視線を向けた。
「式君の昔は、知らない。でもずっと式君は苦しんでた。今も……苦しんでる。視えてるモノが違っても、トモダチだから分かるんだ。何でそれを、汲もうともしない、んだ?」
「リョーコの言う通りね。昔は昔。今は今。視界を共有してるなら有珠希がどんな状態か私よりも分かるでしょうに。妹を名乗るんだったら『今』の兄を見なさいよ。昔昔って記憶にない事を掘り返されたら有珠希だって嫌になるわ」
「う…………うう……………………そんな、言わなくたって!」
「貴方の言ってる事が全部正しくても、それと正当性は別の論理よ。思い出にしか浸れないような人間がどうして信用出来ないのかなんて当たり前じゃない―――まあ、因果然り、兎葵が有珠希の妹だって事には賛成だけどね」
「何か根拠でも見つかったのか?」
「因果の視えない物は存在しない。けれど、例外があるわ。貴方の視界は生まれついての特異じゃない。いつ頃かは知らないけど、見えないって事はその写真が撮影された年代にはまだ糸は視えてなかったって事。言い換えるなら実在した過去。だから妹なのは認めるわ」
「牧寧の方はどう説明するつもりだ?」
「それも実在してる。二人は友達なんだっけ? だったら説明はつくじゃない。そうだ、家に帰って事情聴取すれば? 誤魔化すようならその写真を突きつければ良いのよッ」
「やめて! 私の存在がバレたら……!」
「有珠希!」
………………やるしか、ないのか?




