崩れていく善
ごうごう。ごうごう。
ごうごう。ごうごう。
久しぶりに来たような気もすれば、そうでもないような気もする。夢の中でも意識は明瞭で、今日は一月一日。新年あけましておめでとうという訳だが、ここでも現実でもそういう気分にはなれない。何せあれから未紗那先輩は音信不通になってしまったのだから。
カガラさんは『今は放っておいた方がいいかな』と言ってそれ以上取り合わないし、あんなに人気者なのにクラスの誰も気にしていない。先輩などという存在は幻だったのかもしれないと思えてしまうくらい、その気になれば痕跡も残さず居なくなれる事がハッキリした。
「……ごめんね」
「え?」
考え事をしていたら、スーおねえさんに謝られた。夢の中ではいつまでも記憶の再現が行われていると思っていたが、何か違う。そんな記憶はない。
「うん、そんなつもりじゃなかったの」
「…………」
記憶喪失ともまた違う。知らない記憶が泡のように湧き出てくる。何も分からない。どうして俺にはこんなに知らない記憶があるんだろう。
「―――因果が視えるという事は、あらゆる運命を握るという事。正しい使い方なんて物はないけど……私と出会わなかったら、こうはならなかったのにね」
「…………そんな事言わないでよおねえさん。おれはおねえさんと出会えてよかったって思ってるんだから」
何を言っているかは分からない。でもスーおねえさんにそんな顔はしてほしくない。ただそれだけの身勝手な理由で、俺は何も分からないのに慰めた。
「…………どんな事になっても、おれは大丈夫。だからそんな顔しないでよ」
「……何だったんだ」
意識が連結しているのに目が覚めるとはこれ如何に。新年というのに気分は上がらない。うちの高校は冬休みが無い代わりに一月中が休みだ。授業のコマ割りなどあってないようなものなので今更突っ込まない。
「…………」
昨夜はカガラさんとずっとメッセージでやりとりをしていた。好きな食べ物の話とか、最近の情勢とか、ハイドさんについてとか。大した情報は得られていないが雑談なんてこんなものだろう。それにしてもあの人が酒好きなのは意外だった。
『主に上から流れてきたワインだけどね』
とは本人の弁。
「…………部品、探すか」
部品探しというより拾った相手から強奪し続けている気もするが、もしかしたらまだ拾われていない部品があるかもしれない。一月中にそれが見つかるなら幸いだ。これ以上部屋でうだうだとしていても意味がない。時刻は朝五時で早すぎるなんて物ではないが、取り敢えず身の回りを整えようと廊下に出ると。
「兄さん。あけましておめでとうございます」
髪の毛を後ろで結い上げ、紅い着物を着た牧寧が立っていた。
「…………うお。初詣には早くないか。家族誰も起きてないぞ」
「…………」
「え? ……ああ。あけましておめでとう?」
「はいッ。その言葉をずっと待っていましたッ。兄さんと年を越すのも初めてではありませんが、やはり兄妹で年を迎えるのは良い物ですね」
普段は和装などしないギャップからか、いつにもまして妹を可愛く感じる。自分と血が繋がっているとは思えないくらいだ……でもこういう表現は、今の立ち位置だと複雑である。そんな可愛い方の妹は意味もなくその場をくるくると回っており、糸を読むまでもなく褒めてほしそうだ。
「……大和撫子って感じだ。似合ってるよ」
「ふふふッ。もっと褒めてくれてもいいんですよ? 兄さんに褒められる以上に嬉しい事なんてそうそうありませんから♪ それにしても、何だか視点が遠い様に思えます。まだ寝ぼけているんですか?」
「そう……か? うーん。じゃあまだ寝ぼけてるのかもな」
未紗那先輩にいたぶられて悪化した視界は一時的なものだった。マキナと別れてから家に戻り、一晩ぐっすり寝たら元の視界―――赤と白と青の視界に回復した。しかし一度でも悪化したのが問題だ。次に悪化したら元に戻らなくなるかもしれない。その不安がどうしても拭えなくて、負担を感じない内から気を遣っている。
「……えっと、兄さん?」
「何だ?」
「顔を洗う前に、少しお部屋にお邪魔してもよろしいですか? 少し……相談があります」
妹の相談とは珍しい。二人暮らしの件を覗けば初めてか。或は相談という名目で俺に説教をする気か。心当たりは腐るほどある。主に家に帰らない日が多発している事とか。尋ねてくれればある程度の事情は答えるのに何も聞かない。逆にこちらが不安になる。
部屋に逆戻りしてベッドに座ると、妹は部屋の鍵を閉めて座布団の上に正座した。
「……家にもっと早く帰って欲しいって話なら、難しいからな」
「……? いえ、それは別に。兄さんの事は心配ですけど、私が引き留めてどうにかしてくれるとは思いませんから」
「…………悪い」
「責めてるつもりはありません。私は兄さんの帰る場所になれたらそれで充分。ですから、二人暮らしを考えてくれる事は本当に嬉しいんです。私の相談というのは、それに関連する事―――なのですが、いえ。それ以前に頼みたい事が」
「…………察しが悪いのかな。全然分からないや。お前がそこまでして頼みたい事ってなんだ?」
「今までは、家族で初詣に行っていたでしょう? でも最近は不和が顕著で―――兄さんを省いて向かう事になると思います。兄さんも文句は言いそうにありませんし」
「……まあ。そういう立場でもないしな」
「ふふん。兄さんの事は全てお見通しです。これでも妹ですから。それで一つご相談なのですが、今から初詣で行きませんか? これからの二人の未来を……祝って」
なにやらとても誤解の生まれそうな言い方だが、これでもまともな感性は持っているつもりで、初詣に行けるならそれに越した事はない、しかし初詣とは年が明けて初めて行くから初詣であり、二度目からは初詣というかまた詣とでも呼ぶのだろうか。
「俺と行くのはいいけど、家族はどうするんだ?」
「一応、同伴しますよ。ええ、あまり邪険にするのはいけません。私まで目をつけられては兄さんとの二人暮らしに支障が出るかもしれませんから」
元より雅な立ち振る舞いの多い妹だ、着物を着ただけでこんなにも印象が変わるとは思わなかった。いっそ扇子でも持たせてやれば兄の意を汲んであの笑い方をしてくれるかもしれない。照れ臭そうに、それでいて無邪気に微笑む牧寧はやはり俺の妹だ。どこかの無愛想な奴とは違う。
「さあ、兄さん。準備をしてきてくださいな。私はここでゆっくりお待ちしていますから。でも、あんまり遅いのは駄目ですよ。他の人達が起きてしまいます」
「……お前にはかなわないな。分かったわかった」
鍵を開けて、今度こそ廊下へ。冬の早朝、それも床暖房なんてない家のなんと寒い事か。氷こそ張っていないが体感は凍土にでも放り込まれたみたいである。
単なる空気だけでこれだ。冬の水ほど恨めしいものはない。体の芯まで凍りつきそうな水を顔にかけたら、目が覚めるのは当たり前だ。寝ぼけてるつもりはなかったが、いつも以上に意識はハッキリした。
鏡を見ると、理外の光輝を放つキカイが腕を組んでもたれかかっていた。
「……うおおおおおおお!」
状況が状況なので軽く心霊現象を味わった気分だ。違いは相手が幽霊とかどうでもよくなるくらい美しい女の子、もといマキナである事か。
「お、おい。なんだよ人の家に急に入ってきて」
「あけましておめでとう、有珠希ッ」
「え? えやあ、まあ。あけましておめでとう。キカイにもそんな感覚あるんだな」
「ないけど、そういう慣習なんでしょ? なら楽しそうだし真似くらいするわ。ねえ、暫く休みなのよね。だったら今日、遊びましょ!」
「……あ、いや。俺はこれから初詣に行くからその後な」
「初詣? 新年ってこれで終わりじゃないの? あ、お年玉貰いに行くの?」
「お前の知識ってなんかズレてる事多いよな。気になるなら一緒に行くか? でもややこしいから遠くにいてくれよ」
「むー。じゃあ後で私と一緒に行ってよっ。貴方との初詣だったらきっとうんと楽しいわよね!」
……なんか、やけに機嫌が良い。
そのせいで俺に対する過大評価が凄い。いるだけで初詣が楽しくなるとはどういう理屈だ。お笑い芸人でも同伴させないと不可能な気がする。
冷たくなった手をマキナの顔に当てると、彼女はびっくりして飛び退いてしまった。
「冷たい!」
「お前、なんか機嫌良くないか? それがなんか……うん。琴線に触れた」
キュートアグレッション的な物だと思う。マキナには伝わらなかったようだ。
「じゃあ俺は上で妹待たせてるから。お前も適当に隠れてろよ」
「あ、ねえ待って。最後にもう一つだけ聞かせて欲しいんだけど」
「道端にたくさん赤子が転がってるの。これもニンゲンの行事かしら?」




