一つの恋にも副作用
バラバラに崩れ落ちそうな頭蓋骨を引き締めるような感覚は翻って頭痛となる。最早授業処ではない痛みに危うく意識がブラックアウトする所だった。が、その痛みは役割を終えたかのように霧散し、仮病だと言われても仕方ないくらい跡形もなく消えてくれた。
―――苦しくない。
五感は至って正常。動悸も落ち着いて未紗那先輩に対する恐怖も無い。よく効く薬というならこれ以上は無いだろう。副作用について明記されていない辺り正式な薬ではなさそうだが―――効くなら何でもいい。まさかこの苦しみを薬で治療出来るなんて思ってなかった。
お蔭で授業に集中出来る。とはいっても、進路が不安定な現状で真面目に聞く気も起きない。俺が多少楽になっただけで問題は何も解決していないのだから。
「…………?」
この薬は、どうやって返そう。
俺の様子を窺うクラスメイトはいない。相変わらず授業中にも拘らず睡眠時間を捻出する不良と真面目に受けている善人の二分化だ。薬を持ち逃げする訳にもいかないし、かといってこの瓶の何処にも名前は書かれていない。
「…………」
消去法で、俺を気に掛けてくれた女子生徒は間違いなく手紙をやりとりしていた人物でもある。ここで大声を出しても彼女はきっと反応してくれないだろう。そうなると連絡を取るにはまた手紙を書くしかない。同じ教室内で手紙のやり取りとは。極限状態から抜け出せた安堵感もあって、そう悪くないと思えてしまう。
『薬を、ありがとう。本当によく効いて落ち着いた。出来れば面と向かってお礼をしたいんだけど、会うのは無理な感じか?』
恩人に上から目線でどうこう言えるような性格ではない。どうしても無理と言われたらそう言う人もいるだろう。こんな世の中だ。どうもあの子もこの世界をおかしいと思っているから、それで人間不信になっていても違和感はない。嫌いなりに付き合う事を選んだ俺もいれば、嫌いだから拒絶したい人も居る筈だ。
「あー僕を助けると思って授業は終了させてください。職員室に戻りますので、皆さんは各自で勝手に休み時間へ入ってください」
予期せぬ幸運。何故か授業が四〇分で終了した。お蔭で薬瓶を手紙の重しにして遠慮なく席を立てる。
「……返事は、くれよな」
誰にも聞こえないくらいの声で言い残し、用は無いが足しにいく。五分くらいをじっくり待ってから教室に戻ると、薬瓶が回収されて代わりの手紙が手作りのぬいぐるみと共におかれていた。家庭科の授業で習ったから作れたというクオリティではない。白い布で作られた熊のぬいぐるみには中々の愛嬌を感じる。
流石の俺も今なら現実と因果の区別くらいはつくのでこの程度で暴れたりはしない。
『嫌いにならないって約束してくれるなら、会う』
「…………?」
出会っただけで嫌いになるような見た目とは何だろう。そりゃクリーチャーみたいな見た目だったら流石に第一印象は悪いが、このクラス内にそんな奴は存在しない。それ以前に俺がそんな短気だったらもうとっくに自殺している。糸が繋がっているだけで激しい嫌悪感を抱くのに、そんな自分を殺すような信念は定めた覚えがない。
また手紙を新たに作成するのが面倒だったので、返事の上から大きく『会おう』と書いてまた席を離れた。また用を足しに行くのはわざとっぽいと思い、急に暇を持て余したが電話がかかって来たので事なきを得た。
相手はまた『隠』さんだ。
『もしもし?』
『大丈夫だったか?』
『肩の骨を外されました。いや、そんなのどうでもいいです。未紗那先輩の様子がおかしいってもんじゃない。何があったんですか? 俺の知る先輩と乖離が……』
『あー。それは帰ってきてからだな。たまたまこっちの支部に顔出してたんで盗み聞きしたが……アイツ、泣いてたよ。ガキみてえによ。いや、実際にガキではあるのか。にしても一晩中泣く奴なんて初めて見たぜ。普通は嫌でも落ち着いちまうと思うんだが……『生命』の規定の影響だろうな」
「どういう事ですか?」
「人間に規定は使いこなせねえ。ミシャーナには寄生してるって言った方が正しいな。普段使いにそこまで違いはねえよ? ただこういう……不安定な時にも規定が働くのが困りもんだ。アイツの身体は生物が生きてる事そのものの基準を自在に変えられる。だがそれが勝手に発動したりするとどうだ。感情が極限まで高まった状態がデフォルトになったら。そんでミシャーナ自身もそれに気が付いてなかったら」
「……つまり、何が言いたいんですか?」
「脳の構造的にな、寝たら感情は取り敢えず戻るもんだ。たとえ鬱状態だったとしても最底辺のテンションには波がある。俺の予想が正しけりゃ、アイツはその最底辺を感情の基準点……プラマイゼロに置いちまった。ま、だから性格が変わったように見えるんだろうぜ。普段は優しくても酒を飲んだら暴力的になる奴が普段から暴力的になったら性格変わったように見えんだろ」
その例えでようやく腑に落ちた。違う理由とはいえ同じくらいのストレスを抱える俺は真っ先に察してやるべきだったろう。マキナと触れ合ったり視界をこれ以上使わない事で俺は緩和してきたが、未紗那先輩にはそれがない。
―――でもストレスって、何だ?
裏切った事だと思っていた。でも先輩は怒っていないと言っていた。なら何だ。全く分からない。性格を変えてしまうようなストレスを抱えるなんて、何だ。そもそもそれに、俺は関係あるのか?
「…………まあ、所詮は上司でしかも男の俺には何も分からねえ。今I₋nに調べさせてっから、何か分かったら連絡する」
「最後に一つ聞かせてください。未紗那先輩は…………怒るとあんな感じになるんですか?」
「俺の知る限りじゃあ、そもそも怒らねえ。キカイと関わってからだな……ちょっとずつアイツはおかしくなってった。これを忠告した所で何なんだって話かもしれねえが、今のミシャーナはキカイじゃなくててめえに執着してる。精々気を付けろ―――あんまり下手な事言ってると、普通に殺されるからな」
そう言ってハイドさんからの二度目の警告は終わった。俺に執着するのは分かる。あそこで待ち伏せしていたなら、今までの先輩ならキカイについて問いただしていた筈だ。それをしなかった以上特別な理由があるのは間違いない。最重要保護対象にしたのもおかしな話だ。何故それで、未紗那先輩以外の人員がやってこないのか。
マキナがネックだったとしても取り敢えず上の命令には従うだろう。この辺りもよく分からない。分からないものをこれ以上考えていても仕方ないので、教室に戻ろう。返事が来ている筈だ。
「おい式宮。お前、西側のトイレんとこ行って来いよ」
教室に戻るや否や見ず知らずのクラスメイトにそんな事を言われ、足が止まる。
「―――何でお前にそんな命令をされなくちゃいけないんだ?」
「伝言を頼まれたんだ。別に、そんだけ。俺は伝えたからな」
教室全体を見回すが―――瞬間記憶能力がある訳でもなし、仮に誰か減っていても分からない。授業中はいつも眠っている奴が減っている事実こそあれ、休み時間だけ元気なタイプかもしれない。この時点での特定は不可能に近かった。
自分の椅子に座ると、机の角に油性ペンで『待ってる』と書いてあった。主語がないが、偶然にも待ち合わせ場所と思わしき伝言を聞いたばかりだ。休み時間は先生が勝手に授業を切り上げたお陰でたっぷりある。今から行っても遅刻はしない。
―――今はちょっと、ドキドキするな。
多分、同じ価値観の人間に出会えたのが大きい。この世界をおかしいと認識し、それを嫌っているであろう人間がすぐ近くに居たなんてもっと早く知りたかった。男でも女でも、もう早く出会えたなら。俺はそれだけを楽しみに日常を生きられた。
言われるがままに西側のトイレまでやってきた。校舎の構造上、建物の端に位置するトイレは何処もかしこも入り口が奥まっている。そこに少女は立っていた。
頭に包帯を巻いて―――よく見たら太腿と手首にも包帯を巻いた病弱そうなクラスメイトは、俺の姿を見るなり力強い足取りで近づいて来た。
「…………わ、私は祇末諒子だ。………………は、初めまして」
「……おお。式宮有珠希だ。有珠とは呼ばないでくれ。それ以外ならまあ何でもいい」
「じゃ、じゃあ式君……えっと。聞きたい事があるんだけどいい、か?」
女性らしくない口調は中々新鮮な気分を味わわせてくれる。単に人付き合いに慣れていないから荒っぽいだけかもしれないが、俺の周りには畏まった感じの女子が多いから新鮮なのだ。髪質は綺麗だが、頭に巻かれた包帯のせいでややぼさぼさにも見える。でも多分、可愛い方だと思う。
マキナが天上の秘宝であるかの如き輝きだとするなら、諒子は今にも消え入りそうな蝋燭の火だ。儚いというかアンニュイというか。そういう表現が近いと思う。
「式君は……周りが、どう視える?」
「どう…………どうって。糸が繋がってるように見えるよ。俺には人間が操り人形か何かにしか見えない」
「………………運命…………?」
そう。運命。即ち因果。そういう言い方をしてもいいかもしれない。見た目通りの病弱なのか諒子は熱に浮かされたような艶っぽい瞳で俺を見上げている。
「……そういうお前は、どうなんだ? 何が視えてる?」
質問には確信があった。理由なんて単純だ。最初の質問がまず妙な物が視えていないと出ない質問だし、そういう奴でもないと俺と気が合うなんて起きっこない。マキナは俺にとって因果を理解出来る形が糸だと言ったが、それなら糸以外で認識している存在も居る筈だと思った。
―――後付けだけどな。
全部後付けの理屈だ。本当の理由なんて説明しようとしても出来ない。糸にそう書いてあったから、としか。
「私は…………式君以外の人間の境界が溶けてる」
「境界?」
「り、輪郭だ……言い間違えた……だから、何で式君だけ、普通に視えるのかなって。ご、ごめんなさい。普通の人と話すの初めてだから」
絵で描けば彼女の視界は分かりやすい。
輪郭とは内側と外側を分ける概念の事で、絵ならそれは線になるし、現実なら視界の捉えきれる限界の外側になる。理屈は地平線に近い。地球は丸いが俺達には直線が視えるし、腕だって形で言えば円柱に近いが、裏側を目視出来ないので直線に見える。
だが彼女にはそれがない。まるで一枚のキャンバスに色だけをぶちまけた視界が広がっているらしい。言うなれば空間全体が人間の輪郭で―――人体のパーツは福笑いのように宙に浮いているそうな。
何で俺に話しかけようと思ったのかはそれで十分だろう。その中に一人だけまともな人体が存在したら話しかけたくもなるし助けたくもなる。
「普通ってことは、お前も後天的なのか」
コクリと頷く諒子。人間不信が本当に極まっている様子で、全く視線を合わせてくれない。
「悪いけど、何で俺だけそう視えるのかについては分からない。俺の方はお前だけ違うって訳でも……あーいや。微妙に違うな」
「え……?」
「どんな形にせよ俺達は視界の異常を背負ってる。形式は違えど同じ悩みを持つ者同士だ。さっきは助けてくれて有難う。お前が居てくれなかったら危なかった」
握手を求めたが、当たり前のように拒絶された。それとも説明が無かっただけで、彼女は己自身の輪郭も認識出来ないのだろうか。休み時間も終わりが近づいているが、関係ない。諒子が手を出すまで待つまでだ。
「………………この手は、何。だ?」
「―――いや、何だ。よく分からないけど、似たような悩みを持ってるのに繋がらないのはお互い辛いだろ。アイツなら分かってくれる筈って一生すれ違うのは御免だ。そういう訳で―――」
「トモダチになろう。諒子。お前も、俺が傍に居たら少しは気が楽になるだろ?」
古戦場で更新は遅れます。