空のみぞ知る紗那
妥協案の末に、兎葵とマキナがお風呂に入った。人間と違って衛生の心配がない彼女にとっては入浴も娯楽だ。俺と入るから意味があるのであってと食い下がったが、断固として拒否する兎葵に折れて、今日の所は、と妥協した。
俺としては非常に残念だったが、アイツの裸など見ようものならもう抑えられる気がしないので、兎葵は正しかったのかもしれない。
「クリスマスも終わりか……」
厳密には明日がクリスマスなのだがもうどうでもいい。明日からが本当に地獄だ。未紗那先輩に対してどんな顔を見せればいいか未だに答えが出ていない。多分答えなんてないのかもしれない。頭が回らない。たくさん糸を見たせいだろうか。一人で落ち着いていると痛みが襲ってくる。
―――テレビでも見るか?
いや、これ以上糸を見たら頭がどうにかなりそうだ。これ以上この力が悪化するのは想像も出来ないが、何もここが最底辺とは誰も断言してくれない。今はただ目を休めよう。
「うーずーき!」
視界の端からずいっとマキナの顔が伸びてきた。足音は特に聞こえなかったので気付かなかった。てっきり全裸かと思ったが、きちんと真っ白い部屋着と紺色のミニスカートを履いている。それは可愛いが、少々残念。
「お前、服は着るんだな」
「有珠希は私を何だと思ってるの? 服を着るのはニンゲンの常識でしょ? 私だってそれくらい分かるわよ、キカイだもの。最近ちょっと思ってたけど、貴方って時々私を馬鹿にしてるわよね」
肩を掴まれる。敵意も殺意も無いが、マキナはほんの少しだけ苛立っていた。
「ニンゲンなんかすぐに殺せるんだから。あんまり怒らせたら後悔するわよ」
糸が視えない存在に対して本能で理解することは出来ない。でもそれなりに長い付き合いになったらこそ分かる事もある。それが本来の付き合いという奴だろう。掴まれた肩はそのままに、俺はマキナを抱きしめた。
「きゃッ!」
彼女の全身が縮み上がり、ベッドに押し倒される。存在の強さでマウントを取ってきたとは思えないくらい、その力はか弱い。
「ごめん。でもお前の知識があやふやな所と正しい所が良く分からないからな。欲を言えばお前の裸が見たかったのもある」
「……う、有珠希。見たかったの? 私の……裸」
食い気味に顔を近づけて距離を取る。マキナの胸が当たるか当たらないかのギリギリの距離。この財宝は今、俺の物だ。どうにでも出来る。この手の中にある。その身体が、その視線が、その感触が、その存在が、俺の情欲をそそっている。
マキナは羞恥から顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうにはにかんだ。
「…………えっち。私はキカイなのに、変わったニンゲンね」
「キカイか人間かは大した問題じゃない」
「…………したいなら、いいよ? 優しく……してね」
「駄目です」
せっかくの良いムードが自称妹のせいで台無しになった。ついでに言えば俺も突き飛ばされたし、壁に頭をぶつけた。
「隙あらばって感じですね。マキナさんもやめてください。この人本気にしますよ」
「…………ざーんねん」
空気が凍り付いたのを、恐らく俺だけが感じ取った。マキナは口を尖らせて残念そうに眼を瞑っているが、さっきの比ではないくらい苛立っている。あまりにも鈍い兎葵はその雰囲気にも気付いていないようだが、恐らく今のマキナは爆弾よりも危険だ。もう僅かでも機嫌を損ねたら衝動的に殺してしまいそうな気がする。
「……こんな事になるなら、視界の共有なんてなければよかったのに」
「…………そうだよ。そうじゃないか!」
後頭部の激痛なんてどうでもいい。妙な状況で明かされたから流していたが、俺達はまずそれを気にしなければいけなかった。
「兎葵、お前は何で俺と視界を共有してるんだよ。先天的って訳じゃないんだろ」
「……だとしたら、何ですか?」
「いやだからさ。お前は自分の視界にも俺とマキナのやり取りが映るのが嫌なんだろ。だから共有を解除すればいいんじゃないかっていう……」
こんな提案を切り出すにあたって主な原因であるマキナを見遣ると、彼女の表情はいつになくやる気に満ち溢れていた。
「それよ! 有珠希、貴方いい事言ったわ! 視界の共有なんて邪魔なだけだわッ。兎葵には『距離』だけあれば十分。で、何が原因?」
「え………………………口止め、されてるんですけど」
「誰が口止めしてるんだよ。絶対にそいつなんか関係者だろ。いいから言え、そいつが怖くても言え。言わないともっと怖い奴が来るから」
兎葵に選択権は無い。いや、本当に。こいつはあまりにも鈍すぎて自分が死にかかっている事にも気が付いていないようだが、何らかの願いが通じたのだろう。兎葵は胸の上に手を当てて、過去を想起するように呟いた。
「……幻影事件の真っただ中。みんな、見境なくて。私も襲われました。有珠兄の為に買い出しに行こうとしたんです。その時……助けてくれた人が『距離』の力と視界をくれたんです。なので、有珠さんが追ってるような人からは貰ってません」
「ちょっと待て。つまりそれは……同一人物って事か?」
「それはおかしいわね。だって私がバラバラになったのはあれ一回きりよ。一体どうやって部品を調達するの?」
「そうか。じゃあどういう…………」
マキナに頼らず、今回の一件に何の関係もなく、部品を渡す事が出来て、以降全く姿を見せていないような存在。
「…………」
「で、そいつは誰なの?」
「私には分かりません。だって有珠兄の友達だったから。私の事を知ってたのもその縁みたいで……」
「ふーん。じゃあ有珠希に心当たりがあるのね」
「……幻影事件の記憶がない俺に心当たりとか求めるな。それよりもそいつなんだけど」
「キカイ……じゃないか? お前が降りてくる前のさ」
それ以外、考えられない。マキナを介さず部品を渡せたのはそいつもキカイだったから以上の答えはないだろう。俺の友人と言われても心当たりはさっぱりない。さっぱりないが、これだけは分かる。
兎葵が死んだり傷を負う可能性はなくなった。
元々マキナの部品でないならわざわざ回収する道理はない。俺にも手伝う義理はない。何せ元から持っていなかったのだから。
「マキナ。そのキカイは何処に居るんだ?」
「行方不明……ていうかこっちとの共鳴が切れてるわね」
「じゃあ絶対そいつだよ。間違いない。ただ一つ分からないのは……助けてもらったにせよ視界の共有をした意味だ。『距離』はいいよ。自衛に使えるしな。でも共有は分からない。兎葵、何か言っただろ」
隠し事はナシにしてもらいたい。俺だって出来れば彼女を庇いたいが、如何せん隠し事が多すぎるといざマキナが不機嫌を極めた時に庇いにくい。言い方は悪いが、生殺与奪を握られている癖に不義理が多すぎるのだ。命の危険に鈍感なのか、それとも普段のマキナがおちゃらけているからなのかは分からないが、もう少し危機感というものを養ってもらいたい。『距離』があるからいつでも逃げられると思ったら大間違いだ。未紗那先輩との小競り合いを見てはっきりした。
本気でマキナに追われたら逃げられない。
そもそもこいつの事だから道路を溶かして足を止めるくらいしてきそうだが。
「『俺にはこれくらいしか出来ない。これが限界なんだと分かってくれ』って…………それだけ言われて。私は何も言ってません」
マキナの不機嫌を何とか鎮めた後、俺達はこの家で一夜を明かした。特筆するようなイベントは何も無かったが、マーキングと称してマキナがずっとベタベタしてきたのはどう考えても兎葵が原因の一端を担っている。アイツが一々妙な真似をするから、その負債が俺に押しかかって来たのだ。
マキナと触れ合えて嬉しかったので咎めはしない。腕枕なんて人生で初めてやったが、宝石さえも霞むその寝顔を間近で見られたなら悔いはない。結局俺も寝る直前はマキナの腰を抱きしめていた。人間の女性にやったら痛いと苦情を言われるくらい、強く。
そうして、時は過ぎて朝の五時。もしも俺の保護があのままならカガラさんが迎えに来るはずなので、家に帰らなければならなくなった。
妹にも今日は帰ると伝えてある。約束を破るのは違うだろう。
「もう行くんですか」
眠りが浅いのか、兎葵はこっそりと家を出ようとする俺を言葉で引き留めた。
「……まあ。な。一応学校生活があるんだ。社会でまともに生きられるとは思えないけどな。アイツなら事情を察してくれるよ。そんな事よりお前は、もう少し発言を気を付けろ」
「は?」
「アイツをあんまり怒らせるなって言ってるんだ。俺は取引相手だから比較的温厚な態度で相手されるけどお前は違う。お前は生かされてるだけだ。後―――多分、俺があんまり殺しを見たくないから遠慮してる。でも殺さない訳じゃない。気を付けてくれよ、本当に」
「……別に。貴方の為に食い下がってる訳じゃないんですけど」
兎葵は長い髪を掻き分けながら目を逸らした。
「マキナさんと一緒になったら…………もう二度と、戻ってこない気がして」
なんじゃそりゃ。
まるで意味が分からないが、心配しているなら無碍にも出来ない。お礼を言っても悪態で返されるのが見え透いていたのでそのまま玄関を過ぎる。今度は式宮家の帰路につかないと。
プルルルルッ。
こんな早朝に電話を掛けてくるような相手は相場が決まっている。メサイアの内の誰かだ。着信画面には『隠』と表示されている。
『もしもし』
『おお、俺だ。今忙しいから手短にな。取り敢えずあんときの被害は全部キカイにおっかぶせた。恨むなってのも無理な話だが頑張れ』
『別にそんな報告しなくていいんですけどね』
どうでもいい報告だ。現場でもカガラさんから聞いたような聞いてないような。それくらいの事後報告。立ち止まる程の衝撃も無ければそんな暇もない。出来れば妹が起きる前に帰りたいから、この足は止められない。
『それとてめえの扱いについてだが……ミシャーナがトップに掛け合って最重要保護対象って事にした』
『……は、は?』
『同時にI₋nは任務から解任だ。一応チームを組ませてたんだがそれも解消の申し出が一方的に。俺も上司だが命令系統が敵わねえ。ミシャーナには気を付けろ。今のアイツはやべえ』
足が止まった。
ハイドさんの脅迫染みた忠告にビビったからではない。
未紗那先輩が、玄関の前に立っていたからだ。しかも俺の方を見て。
笑っている。