在りし日の兄
………………………。
………………………。
…………。
――――――え?
「え」
「ほら」
たった一言。たった一文字。それが全てを物語っていた。拒絶を。否定を。困惑を。不信を。兎葵に繋がる糸に変化はない。けれども決定的だった。俺は今、理解するのを辞めた。誰よりも自分がそれを自覚してしまったから―――取り消せない。
「……いいんですよ。信じてもらわなくても。そんなの昔の話です。貴方は式宮有珠希。式宮牧寧の兄で、私とは何の関係もない。それでいいです」
「いや。いや、いやいや。ちょっと。待ってくれ。話を勝手に」
「もう話は終わりにしましょう。今のでハッキリしました。貴方に規定を渡すつもりはありません。どうしても取り返したいなら殺してください」
「…………勝手に決めるなよ。まだ全部言った訳じゃないだろ。お前が何で糸が視えるのかって事しか聞いてないぞ。その規定を誰から貰ったのかとか。お前がその……俺の妹っていう部分のあれこれを説明してくれ」
「説明したら、割り切れますか?」
「何?」
「妹が好きなんですよね。いい事だと思います。私が今から全部説明して、その好感度は割り切れますか? もし私が本当の妹として偽妹を殺そうって言ったら、殺せますか?」
それは。
それは。
それは。
殺せない。
殺せる訳が無い。大事な家族なのだから殺せない。殺すどころか怪我一つ負わせるのも非常に申し訳ない。それをしないと世界が破滅するとかそれくらいの天秤だ。だからもし、万が一。アイツが規定を拾得してしまったらその時は……マキナに任せてしまうと思う。俺は卑怯だから。
「だったら全部無駄です。意味がありません。こんな事なら、真実を話すんじゃなかった……」
「じゃ、じゃあ何で話そうと思ったんだよ。お前が俺の妹なら……その。こんな反応するって事くらい分かってただろ」
「メサイアに殺されたって噂を耳に挟んだ私の気持ちが貴方に分かりますか? 視界を共有してても不安なものは不安ですよ。確かに視界は共有してます。でもそれがいつまでも正しいって保障はない。私にとってこの左目はテレビと一緒です。映る物が本当に正しいかどうか分からない。今は鏡なので、正しいんだとは思ってますけどね」
ここに来て初めて兎葵は笑顔を見せたが、こんなに生気を感じない笑顔は初めて見た。諦観の染みついた笑顔、というより微笑み。それよりも倦怠。妹を名乗る兎葵に何を返したら良いのか俺にはさっぱり分からない。何もかも彼女の言う通りだ。牧寧が偽物でもじゃあどうやって成敗するかとは割り切れないし……兎葵が嘘つきだとしても、こんな泣きそうな顔をされたら強気には出られない。
「…………全部、台無し。私もおバカさんですね」
「何だよ急に」
「貴方の反応なんてずっと前から分かってました。家に突っ込んでこんな事言っても貴方から不審者認定され、牧寧にも目を付けられるだけだから他人として振舞ってたのに。変な噂に振り回されて馬鹿みたい。どうせここで何時間説得しても貴方は頑固ですから。無理でしょうね」
足音が近い。もうそろそろだ。兎葵も俺も教壇の下を飛び出し、アルコールランプを鈍器のように構えた。
「一つ聞かせてくれ。幻影事件の前の俺は、どんなだった?」
「別に、今と変わりませんよ。妹を、家族をいつも気にかけてた優しい人でした。私はそんな兄さんが大好きで―――大好きだった」
理科室の扉は敢えて鍵をかけていない。黒服の男性が入って来たと同時に、俺達は不意打ちを仕掛けた。
「貴方にはちゃんと部品を返したいと思っているので、この場は切り抜けましょう。その後は…………殺してください」
俺は腹部、兎葵は頭部。準備もなく身体を殴られた黒服の男性は主に兎葵のせいで昏倒した。意識はあるようだが、これだけ派手に殴れば硝子は割れるし音も響く。直に全員が集まるだろう。
「校庭の方へ逃げましょうか。今なら待ち伏せも無いと思いますし」
「…………死にたがる事ないだろ。俺はまだ納得してないだけでお前に言い分があるなら―ー―」
「もういいんですよ」
理科室の窓を叩き割って、兎葵が外へ飛び出した。その背中を追うべく俺も窓枠を超えていると、彼女は一度だけ振り返って。
「もう、私は子供じゃありません。ずっと我儘ばっかりで。これも我儘で。でも私は大人だから、いいんです。有珠兄が幸せなら、どうでも」
校庭の血痕から駅前まで戻ってきた。
急に表れた二人に数少ない周囲の人間(無関係)は驚いていたが特別気にされる事はなかった。この暗さだ、急に人が現れたように見えても不思議な力が働いたとは思わないのだろう。
「適当に張っていたら、ようやく引き当てたよ」
痕跡から一刻も早く離れようと歩き出した途端、柱の陰から姿を現した女性が一人。カガラさんだった。上司の命で妨害工作をしていたと思われたが、終わったのだろうか。身体に目立った外傷はないが、中々どうして息切れを起こしている。
「か、カガラさん!? 何でここに……?」
「何でここにって、そりゃ規定持ちと同行してるならその影響力がある場所を回ってればその内会えるかなって思っただけだ。キカイの助力を経て無事に救出出来た訳だが、収穫はあったかい?」
「………………あったと言えばありましたけど、まだ全部終わった訳じゃ」
「いいえ終わりました。私はこの人に規定を返したいので殺されます」
「おい、兎葵!」
殺してくださいという意思を伝えんと兎葵がカガラさんの目の前に立ちはだかる。彼女の手には拳銃が握られているので、どうもそれで殺して欲しいと思っているようだ。カガラさんは俺と兎葵の方を交互に見て、困ったように眉を下げた。
「…………やれやれ。こっちはこっちで面倒だな。まあいいや、私の仕事は一つだけだ。二人の間で何があったかは知らないし、どちらの意思を尊重するかという権利もない。命じられたのは通知だからね。肉体労働を嫌うあの人が何で私と役目を変わってまで派遣させたかったかは分からないが―――シキミヤ君?」
「はい?」
「紗那が発狂状態に入って、キカイは現在劣勢を強いられている。『有珠希、助けて』と何度も何度も呟いているのを収音マイクで取り込んだ。協力者なのだとしたら、助けに行くのが道理じゃないかい?」
こっちもこっちで、言っている意味がイマイチ分からない。兎葵の事で頭が一杯だったのにノイズをぶちまけられた気分だ。優先順位が分からない。最初からなかったような正解が本当に存在しなくなった。
思考は絡まり空白に。身体は重く、怠惰にのしかかる。それでもマキナの声とやらは見過ごせない。
「―――車とか、ありますか?」
「そんなものはない。私だって徒歩で回ってたんだ。そして同行も出来ない。これ以上は上司に迷惑が掛かるからね」
「…………そうですか」
ここから走って間に合うだろうか。劣勢というのがどれだけかは分からないが、アイツはこゆるさんの時に無理をして身体を故障させた。もしも次同じような事になったら……今度は無事かどうか。発狂が良く分からないが、判断機能を失ったという事であれば未紗那先輩が見逃してくれるとも思えない。
「―――殺してくれるなら、助けますよ」
兎葵がぽつりと呟くも、俺は即座に頭を振って、彼女に向かって頭を下げた。
「お前は殺さない―――けど、助けてくれ」
「取引になってません」
「取引じゃない。お願いだ! ―――頼む」
マキナを失ったら。
俺は。
「――――――――――――俺を。助けると。思って」
次回で章終わり?