反旗と命を翻す
「……じゃあ宜しくお願いします」
血塗れになった左腕を抑えて、兎葵はトイレの中に立て籠もった。コンビニの人とこれから尋常な目的で使う人には申し訳ないがこれしか生き残る道が無い。まだ小さな女の子に目の前で手首を切られる光景は他人事ながら精神的にきつかった。マキナの様に元気いっぱいでもなく、ただただ痛々しく、涙を浮かべながら己の身体を刻む。
見るだけでこれならする側のストレスは計り知れない。血を纏ったコートを羽織り、俺は夜の闇へと繰り出した。血から血に移動出来たとしても待ち伏せされていては意味がない。だから俺が新しいショートカットとして学校に行き、移動させる。ナイフにも兎葵の血がべったりついているので、最悪俺が無力化されても何とかなると思う。合図に関しては所有者の「何となく分かる」という発言を信じるしかない。
「別動隊って……何だよ」
メサイアにまともな戦力が未紗那先輩しか居ないと言うのが事実なら大した事はないが、世の中には肉体的に強くなくとも一定以上の強さを得られる最強の武器がある。銃だ。この国は銃の所有を一部除いて認めていないが、法律などという概念がどれだけ強いのかは閉店したお店が営業している時点で明らかだ。
「そこの男性、止まりなさい!」
学校まで一キロもないような道のりなのに声を掛けられた。相手が誰かを確認している暇はない。顔を覚えられるのはそれ以上に危険だ。何のためにわざわざマキナが溶かした地面を散らしたのか。少しでも俺の存在を隠せるようにという気遣いを無駄にしてはいけない
「あ、こら待ちなさい! 私を助けると思って!」
―――!
止まれない。しかし止まらないのはまずい。この世でそれに反する事が出来る人間は限られている。もしも先輩が俺に対する情報を漏らしているなら、ここの選択一つで俺が何者であるかがハッキリする。脳みその腐った安直な善人ばかり見てきたが、流石に組織の人間は一味違う。
結局、俺は足を止めなかった。どうせ止めても正体を確認されてしまえば同じ事だと思ったのだ。何せこの身はアイドル誘拐で一度指名手配されている。身元の照合など必要もないくらいの有名人だ。
「いいから止まれッ、式宮有珠希!」
肩を掴まれた瞬間、引っ張る力に沿って身体を翻し、隠し持っていたナイフで白い糸を切断。しかし追跡者の三人は互いに距離を空けて追ってきており、しかも直近行動は『引っ張る』であって『走る』ではない。脊髄でそれを理解した俺はすかさず腹を蹴っ飛ばしてまた走り出した。
「こいつを一歩も行かせるな!」
「応援が来るまで止め続けろ!」
ハイドさんの説明は正しかったが、やはり撃退手段のタネが割れているといないとではやりやすさが大違いだ。俺がナイフを当てる気が無いのを知ってか、彼等は絶対に攻撃をよけようとしない。直前で止めるだろうと高をくくってノーガードを貫いてくる。
「…………ふざ、けるな!」
何故俺に因果が視えるのかが分かるかもしれないのに、こんな、こんな下らない倫理に邪魔されるのは嫌だ。何故マキナと取引したのかと言われたら、それはこの視界が鬱陶しかったからだ。心境の変化はあった。けれどもそれは無関心ではない。この視界について何か分かるなら何だってやろう。今までの全てが水の泡になるくらいなら―――手を汚す事だって!
「うあああああああああああああああ!」
初めてナイフを縦に構え、黒服の男性の脇腹を突きさした。マキナに全てを任せるという卑怯な形で守っていた一線を、俺は遂に超えてしまったのだ。男性の呻くような喘ぎ声が聞こえ、大柄な肉体が抱きかかえるように蹲る。
そして、俺の肩を掴んだ。
「……え」
「―――捕まえたぞおおおおおおおおおおお!」
「よくやった!」
身動きが取れない状況になって初めて、俺は己の過ちに気が付いた。彼等は最初から攻撃されるのを待っていたのだ。切るにも突くにも式宮有珠希はずぶの素人。無駄に深く切り込む可能性は十二分にある。刃物が止まれば糸を切れない……という訳ではないが、少なくとも密着状態はあちらに利がある。
肩を掴んだのは腕を封じる為か。ナイフ以外で糸に干渉した回数は少ない筈だが……何処で漏れたのか。
「やめろやめろやめろやめろ! 離せってこぅのおおおおおおおおおお!」
「離さん…………! 俺は、俺は救わなきゃならないんだ……うおおおおおッ」
「加勢するッ」
誰がどう見ようと俺の敗北は決定的だ。一人が動きを抑え、もう一人がスタンガンと共に突っ込んでくる。現実時間に換算して二秒、この拘束から逃れられなければ俺は完全に動けなくなる。幸か不幸かこの絶望的な状況にダメ押しでもう一人が攻めてくる事はなかった。無線機を片手に何処かへ連絡しているようだ。
「離せよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああああああ!」
バシュッ!
「やっぱり、そう上手くはいきませんね」
その場にいる全員が、自分を疑った。正気を失ったかと錯覚した。俺の動きを封じていた男の身体から兎葵が出現し、その身体をバラバラに引き裂いたのだ。自らへの被害を防ぐ為か眼を塞いでいる。その準備が無かった人物は俺も含めて血塗れになった。
「………………」
「………………」
何が起きたかは分かる。それでも、脳が理解を拒む。人間的な死に方とは思えない死体。さながら映画のエイリアンだ。背中を突き破って現れた兎葵にはマキナ以上に人間味を感じない。この時ばかりは妹と同い年くらいの女の子に、本気で怯えた。
「…………怯えますか?」
「あ…………あ……」
誰もが動きを止めた絶好の機会、俺は腰を抜かして彼女を見上げていた。兎葵は相変わらずの無愛想を貫いて、悲しそうに俺を見つめている。
「何を怯えてるんです。目を覚ましてください。貴方だって十分人間ではなくて、バケモノなんですから」
「いや、俺…………俺…………俺は………………」
「糸が視えるんですよね。生物の運命の全てが一から十まで全てが視える。私の力なんかよりずっと、おかしい事です。早く行きましょう。まだ二人残ってますよ」
手を差し伸べられたが、受け取れなかった。際限なく引き上がる動悸を無理に抑え込み、抑え込んだという事にして立ち上がる。目の前で仲間が突然一人認識出来なくなった事実に二人は混乱していたが、俺達が走り出したのを契機にまた追跡を開始した。
「このままだと学校まで追われますね。どうしますか」
成り行きで逃走は続けているが、何故兎葵は殺人を意にも介してないのだろう。そればかり気になって会話が頭に入ってこない。彼女は人体の内部をショートカット先にして人間を殺害した(ナイフに付着した血液が原因だろう)。ただ人を殺しただけでも俺には強いストレスだ。そうしなければ死んでいたという状況も込みでギリギリ許容もとい正当化出来ている。
なのに何で…………
「式宮さん」
「……撒く」
「撒く? どうやって」
「学校は入り組んでる。地の利があるのはこっちだ。だから撒ける筈だ。校庭でお前を待ち伏せてる奴が合流しても行ける」
「虱潰しに探されたらそれまでだと思いますが」
「一対一なら勝ち目がある。こっちは二人なんだから。でも…………もう殺さないでくれ。殺さないで済むように、頑張るから」
「殺した方が楽な気がしませんか?」
「やめろ。やめてくれ。一応知り合いなんだから……死んでほしくないんだ。お前だってすすんで人を殺したくない筈だ。そうじゃなくてもっと殺したいって事なら……」
マキナは呼べない。
未紗那先輩も頼れない。
汚れ仕事をしたくないからと言って二人を頼るのは違うだろう。俺の手は綺麗じゃない。善人を敵視している時点で、この身体に綺麗な部分など一つとして存在しない。ならば答えは一つだ。
「事情を聞いた後―――俺が殺す」