【江戸時代小説/仇討ち編】因果なふたり
「おぬしに、怨みはない……」
闇の中から、父のものではない低い声がした。
「だぁれ……」
開け放たれた戸口から月の光が差し込んで、知らない男と目が合った。
男は頬に傷があった。
「なにしてるの」
尋ねたが、返事はない。
よく見ると、男の手には大刀、それに血が滴っていた。酷い鉄の匂いに、噎せ返るほどの異様さに、鳥肌がざわめき立つ。
「わしの名は佐々木治郎右衛門。こやつはおまえの父親か」
佐々木と名乗ったその男は、今しがた斬り捨てたものを足蹴にした。
月明かりが男の踏むそれを照らす。
それは既に事切れた我が父だった。
父の眼は白目を剥き、それを見たわたしは声を失った。恐れが全身を包み、震えが止まらなくなった。まるで自分の全部をこの男に支配されたが如く、その場から動くことさえできずにいた。
「母親は留守……いや、おらぬのか……」
月明かりが更に濃く男の影を伸ばし、男が一歩近づいた。影にさえ捕まりたくなくて、慌てて隅へと移動し身を縮こまらせる。
「わしは訳あって、おまえの親を殺した。わしはおまえにとっての敵だ。これから先、この顔と名と憎しみを忘れずにおれば、おまえがわしを殺すこともいつか叶うだろう。己がこころを鬼とするならば、それに呑み込まれぬよう心に留めよ。恨みつらみを抱えて過ごすのは“一生を蹴る”ようなものだというのも、覚えておくがよい」
この夜が、男の言葉が、わたしの人生を変えた。それがわかっていても、今はまだ、幼いわたしはただ暗がりでこれは夢だと思うほかなかった。
それから数年後、父を殺したこの男を、刀一本携えて、わたしは探す旅に出る。
✱
「人を捜していてね。頬に傷のある男だ。名を佐々木治郎右衛門というのだが」
「生憎だけど、聞いたことがないねぇ。もう一泊してくなら、宿帳見てきてやってもいいよ」
「いや〜〜口が上手いなぁ。姉さんは」
わたしは既に元服(成人)を迎えていた。あの最悪の夜から数年の時が流れていた。
実はこれまで佐々木に恨みはあったものの、奴を追う生活は控えていた。それは恨みがなくなったからではなく、自分の人生を生きるためだった。しかし、ついこの間、仕えていた大名がお取り潰しになった。そのため、浪人となった今は都の旅籠を転々とし、奴を探しているというわけだ。
「あぁ、でも、佐々木って子ならここで働いているよ。もしかしたら、その子の親類とかなんじゃないかい。今呼んできてあげるよ。酒を飲んでちょいと待っておいておくれ」
「奴の娘だったりしてな……いやいや、そんな旨い話があるか……」
たまに酒が入るとこうだ。運がある人生なんてのをちょいと想像しただけで、そうはならないと頭が冴えてくる。
なにせ相手は数年前の晩、会ったのは一度きりの男。
どんな恨みも憎しみも時が風化させてしまうところがある。わたしの中のそれらは、背丈が伸びるのとは裏腹に、大きく成長しはしなかった。
そのとき、京言葉の女が襖の向こうから挨拶した。
「佐々木どす。ここを開けてもええやろか」
「ああ」
開けられた襖から穏やかそうな面立ちの女が一人入ってくる。
「姉さんから……わたしに用があるゆうひとがおるて言われたんやけど……」
「いや、これはこれは。お初にお目にかかります。わたしは野澤市兵衛と申す者。少々、お伺いしたいことが」
女子はきょとんとした顔でいたが、長話になると思ったのか、わたしににじり寄った。
「単刀直入にお尋ねするが、そなたの親類に“佐々木治郎右衛門”という男はござるか」
「ええ、はい」
わたしはまさかと思った。耳を疑った。
「わたしの父どす」
いつかこうなることは、予期していたことだ。
賽の目が転んだ気がした。
「ほう。そなたは娘……か」
「ええ。もうすぐ二十歳どす」
女はにこやかに笑う。恐らく、自分の父親にひとを殺した過去があることは全く知らぬのであろう。人斬りも人の子というわけか。
「兄さんは、うちの父を尋ねてきはったんよね。ほな、旧友とかいうやつなん」
「まあ……似たようなものだ。お父上は元気でおられるか」
「どないやろ……わたしはここに奉公に出てて、父とは最近は会うてへんのよ」
「そうか。居場所はわかるだろうか」
「そいなら、ここを出て右に行った先の大屋敷に仕えておられるはずやから、行かはったら会えると思うわ」
わたしは一晩、一人にしてほしいと彼女を下がらせ、これからのことをどうするか考えることにした。
蝋燭の日が風で揺れる。あの日の夜のように影が伸びる。
わたしは思い返した。奴の目は鋭く、まだ幼かったわたしを貫いた。鷹が獲物を狙う目をしていた。わたしはそれに呑み込まれたくなくて、距離をとったのを覚えている。倒れた父を見ると呼吸がしにくくなったのも、逃げ出したいのに行き場がなかったことも。
泣けたのは奴が去って、夜が明けてからのことだった。
わたしにとって、奴は悪だ。憎むべき相手だ。
しかし、先ほど見た彼女は……奴の娘の、無垢なまでの笑顔を奪ってまでも、親の敵を討つことが正解なのか。このまま知らないふりをして生きていくことだって、今ならまだできる。
ふと、奴が捨て吐いた言葉が脳裏をよぎる。『己がこころを鬼とするならば、それに呑み込まれぬよう心に留めよ。恨みつらみを抱えて過ごすのは“一生を蹴る”ようなものだ』。
わたしはまだ鬼になどなっていない。今ならまだ、人生をやり直せる。
自分がどうしたいのか、わからなくなるほど悩ましい問題に、わたしは頭を抱えた。
蝋が溶けてなくなるまで、わたしはひとり、悩ましげに唸っていた。
✱
朝日が昇ったことを告げに女が部屋にやってきた。佐々木の娘だった。
「これから、父上に会いに行かはるの」
「いや、所用を思い出した。急いで都を発たねばならなくなったのだ。お父上にお会いするのは、またの別の機会にするよ」
「そうどすか。おきばりやす」
そう、わたしは何年もの間、肌身離さず手元に置いていた、刀を捨てる覚悟をした。
わたしはこのまま、わたしの人生を生きる。
旅籠を出た丁度そのとき、表通りが騒がしいことに気がついた。
なんだなんだと、野次馬をかき分けて見ると、ひとりの男が刀を別の男に向けて騒いでいる。
騒がしい男の言い分はこうだ。
数年前、自分の息子をこの男に斬られたようで、それが元で歩くことができなくなり、結局命を落としたのだという。
この男さえいなければと、震える刀身で息子の敵を睨みつけるその男の姿は、自分を見ているようだった。
そして、狙われている男をよくよく見ると、その男の頬には古傷がある。まさか、わたしが捜している男、佐々木治郎右衛門なのか。
運命はふたりの男を引き寄せた。
「因果なものだな」
過去のしがらみに浸っていると、刀が佐々木に向かって振り上げられる。
しかし、無惨にも佐々木の刀が男の身を貫く。
この男の仇討ちは失敗に終わったのだ。
男はふらふらとよろめき、わたしのすぐ前で倒れる。
そのとき、野次馬は数歩引いたが、わたしはその場を動かず、そしてなぜか、この男を見て思った。
自分の番が来た、と。
わたしは刀を抜き、奴の前に立つ。
「わたしは、野澤寛兵衛が子、野澤市兵衛! そなたに斬られた父の敵、いざ、尋常に勝負されたし!」
すぐさま、地を蹴っていた。頭で考えるより先に体が動いた。重い一撃をくらわせる。
奴は一瞬ひるんだが、続く斬撃には動じない。
鍔迫り合いが続く。
すると、奴が何か言った。
「……る」
「何ッ」
「そなたのことは、覚えておるぞ。いつか来ると思っておったわ!」
奴は瞳の奥を爛爛とさせ、わたしはそれに呑み込まれぬように必死に耐えた。
「力をつけたな!」
「待たせたな!」
互いの呼吸が触れ合い、刀から伝わってくるようだ。
すると、背後から瑞々(みずみず)しい声がした。
「お父上!」
聞き覚えのある声に油断した。その隙をついて奴の刃先が牙を剥く。
声の主は佐々木の娘だった。
わたしが倒れる瞬間、ほんのわずかの間、娘と目が合う。
「知られたくはなかった、な」
胸の痛みは斬られたからか、それとも……。
わたしが最後に見たのは、佐々木の娘の泣き顔だった。
おわり