01.婚約者と姉
目尻に涙を浮かべながら、涼しくなった夜風を切るようにアーシャは歩く。そして、会場から離れ、喧噪が僅かにしか聞こえなくなった所で立ち止まった。
「……ゴードン様」
思わず呟いてしまったのは、自身の婚約者の名だった。
――ゴードン・アレクセイ。
実力で成り上がり、若くして騎士団長となった男だ。
平民出身ではあるものの、粗野な所も少なく、礼儀も正しいと評判の良い人物でもある。
婚約者となってから、ゴードンとは何度か会ったことがあった。
前評判に違わぬ人物であるように、そのようにアーシャの目には映っていた。
アーシャには夢がある。
幸せな結婚をして、暖かい家庭を築くという夢がある。
自分自身が冷遇されてきたからこそ、それとは正反対の、毎日笑顔が絶えず、そして姉妹や兄弟間で優劣も作らないほのぼのとした家庭を作りたいのだ。
誠実なゴードンとなら幸せな家庭を築ける。
そう思えていた。
だからこそ、辛い今の時に思わずその名を呟いた。
ゴードンとの婚姻は、公爵家にとっての端々までの権力強化の一環に過ぎず、政略や計略的な意図のあるものではある。
でも、それでもアーシャは構わないと思っている。
自分の夢は叶いそうだから、と。
けれども……。
それはあまりに唐突に、そして突然に崩れ去ることになる。
アーシャがゴードンの優し気な顔を思い出しつつ、そのまま帰路につこうとした時だ。街路樹の影で動く二人の人物を見てしまった。
一人は自分の腹違いの姉のバーバラ。来賓会で姿を見ないと思ったら、早々に去り、こんなところにいたらしい。バーバラは誰かと逢瀬の最中でもあったようで、あろうことか接吻の最中だった。
そして、その相手が――つまりもう一人が――ゴードンであった。
「……え?」
アーシャの目の前が真っ白になる。すると、バーバラがアーシャに気づいて、にやりと笑った。
「あら、ゴードン……今日はとても強く求めて下さるのね」
「もう我慢が出来ない……」
「アーシャのことはよろしくて?」
「あんなツギハギだらけの薄汚い女、誰が好き好んで一緒になるものか。俺が一緒になりたいのは……バーバラお前だ」
「……嬉しい。私もゴードンと一緒になりたいわ。お母さまに伝えて、取りなして貰いましょう。大丈夫。お父さまはお母さまに弱いから」
「ははっ、そうだな」
そんな会話が耳に入り、アーシャは青ざめた表情のまま、駆けだした。目の前の光景を信じたくなかった。この場に長く留まれば、自分の心が壊れてしまう気がしていた。
――これは夢。悪い夢。
☆
「お、おぇぇぇ……」
人気が全くない街の外れ。そこで、月明りに照らされる大木に手をついて、アーシャは嘔吐していた。先ほどの光景がフラッシュバックしてしまい、気づいたら胃から吐しゃ物が迫り上がって来てしまったのだ。
呼吸が荒くなり、目端からぽたぽたと涙が零れて落ちていく。
「どうして、どうして……」
そう呟きつつも、アーシャは心の内では察していた。バーバラが、自分への嫌がらせの為に、ただそれだけの為にゴードンを寝取ったのだと。
姉妹たちの中でも、バーバラはひと際に、アーシャを虐めることを楽しむ性格をしていた。
だから、アーシャがゴードンとの婚姻に乗り気だったことが、それが気に食わなかったのだ。
冷遇されて、いつも辛そうな顔をしている妾の子が幸せそうな顔をするなんて――と、そんなバーバラの考えが透けて見えた。
「良いじゃない。別に、一つくらい、幸せがあったって……。どうして、どうしてこんな目に遭わなければ――」
悔しげな表情を浮かべながら、アーシャは木を蹴る。当たりどころが悪かったようで、来賓会でテーブルを蹴った時と違い、足首に痛みが走った。
「――っ」
――痛い。凄く痛い。
急激に増していく痛みに、アーシャが流す涙の量が更に増えた。
「……ぅぅ」
心と体の痛みに泣きながら、アーシャはうずくまった。
すると、ふいに、体に影が被さる。
はっとしてアーシャが顔をあげると、そこには、先ほどの来賓会で自分が胸倉を掴んだあの男がいた。
「……凄い泣きようだ。そんなに俺の言葉が効いてしまったのか」
アーシャは、一瞬きょとんとしたものの、すぐさまにきっと睨み返した。
「な、何よ。……追い打ちでもかけに来たの? ……ふん。笑いたければ笑えば良いわ。みすぼらしくてみっともない女が、ツギハギだらけの女が、何か良く分からないけれど汚く醜く泣いている、と」
唸るようにしてアーシャが言うと、けれども、男は神妙な表情で地面に膝をつくとそのまま頭を下げた。
「そんなことを言うつもりはない。……ただ、謝りたかった。すまなかった。この通りだ」
「……え?」
「……単なる冗談話のつもりであったが、確かに、君の耳に入れば傷つく。そんな当たり前のことに俺は気づけなかった。だから謝る。……ところで、怪我をしているようだな。足首が腫れ始めている」
言って、男は自らの上着を脱いでびりびりと破き始めると、了承も取らずにアーシャの足首に触れた。
何をする気かは分からないけれど、了承も得ずに淑女の肌に触れるのは、無礼にも程がある。
アーシャは顔を真っ赤にしながら男の顔を蹴飛ばした。
「ななななな、何をっ……!」
「……いきなり触れたのはすまない。だが、別に君を辱めようとしたわけではないことだけは、理解して欲しい。……骨は折れていないようだが、なるべく固定して、動かさないようにした方が良い」
蹴飛ばされて、口角から僅かに血滴を流しながらも、男は千切った上着でアーシャの足首が動かないように、結んで固定した。
真剣な表情をしていた。
どうやら……応急処置をしてくれたらしい。
「……これで良いだろう。ただ、痛みや痺れは、一時や二時ではとれまい。おぶって家まで運ぼう。……もしも、時間が経って酷くなるのであれば、医者に掛かれ。いかような事情を持ってツギハギ令嬢として冷遇しようと、公爵にとって実の子であることにも変わりはあるまい。そのぐらいの温情はあろう」
「……」
「一体どうして、という顔をしているな。では、こう言えば良いかな。『君に酷いことを言った。だから、その贖罪の為にも、何か君の助けになりたい』と。ここで君に拒否されては、俺はろくでもない男のままになってしまう。……どうか人助けだと思い、俺に助けられてはくれないか?」
アーシャは、目を丸くして、ただただじっと男の顔を見つめた。
けれども。
やがて、出会った当初とはまるで正反対の真摯な態度に絆されてしまい、こくりと小さく頷いた。
悪い人では無さそうだ……と、そう思った。