Stage.3 はじめての告白
画面の中に、雪姫がいた。
いや、違う。よく見れば雪姫よりもだいぶ太っている。
一体どういうことなんだ、と数秒考えて、僕はある結論に思い至った。
――この動画で使われているのは、AR配信したリンゴのデータの、悪意ある改造版だ。
ただの動画なら、映っている3Dキャラクターの容姿に手を加えることは難しいが、AR用に配信されるデータなら、少し知識があれば簡単に改造できてしまう。
この動画を投稿した誰かはおそらく、減量シミュレーションソフトで僕たちがリンゴを作り出した、その逆の手順でリンゴを太らせたのだ。
投稿した本人に、雪姫の正体を暴いてやろうという意図があったのかどうかは知らない。どちらかと言えば、なかった、と考える方が自然だろう。こういうアイドルの改変映像は、他にも見かけたことがある。これが単なるギャグやフェチズムではなく、悪意ある投稿であることは、動画につけられた解説文の文面からうかがえた。
有名になれば、それだけファンもアンチも増える。当たり前のことではあるが……しかし、それがこんな形で現れてくるとは思いもしなかった。
世の中の大半の人間にとっては、この動画は大した意味を持たないだろう。
だが――僕たちの学校に通う人間なら、どうだろう。
彼らは雪姫の容姿を知っている。その声も知っている。存在感のある容姿だから、この動画から雪姫の顔を思い浮かべるのは容易だろう。そうなれば、彼、ないし彼女が「ぽいずんリンゴ」の正体に思い当たっても不思議はない。そうなったら……一体、何が起こってしまうのだろうか。
少なくとも、これが良いサプライズではないことだけは確かだ。
「……これは、確かに……ヤバいな」
「だろ!? ど、どうしよう、俺、こんなつもりじゃ……」
「当たり前だ。お前がそこまで深く考えられるヤツじゃないってことくらい分かってる」
「…………」
思わずため息が漏れた。電話の向こうに苛立ちをぶつけたところで、仕方がないことくらい分かっているのに。
「とにかく、連絡するなら僕より雪姫だろ。電話はしたのか?」
「したよ。『ぜんぜん気にしてないけど、リンゴのイメージダウンになるから、削除申請は出しといた』って」
「そ……そうか」
電話の向こうで、直矢が当惑しているのが目に見えるようだ。正体がバレるかもしれない、という危機に対して、雪姫の行動はあまりに冷静すぎる。
「サトル、今からそっち行っていいか」
「……悪いけど、ちょっと後にしてくれないかな」
「へ?」
断られるとは思っていなかったのだろう、直矢が間の抜けた声を上げたが、僕は構わず言葉を続ける。
「これから弁当を作らなきゃいけないんだ。じゃあな」
「え、ちょっ、こんな時に弁当かよ!?」
電話を切る。
急に静かになった家の中に、タブレットから聞こえる雪姫の歌声だけが響いていた。
*
「ごめん!」
玄関を一歩出たところで、雪姫が固まる。理由はもちろん、その足元で力いっぱい土下座している直矢のせいだ。
たっぷり数秒の沈黙のあと、雪姫が気まずそうに頭を掻く。
「あー……さすがにこの展開は予想してなかったわ。とりあえず、ご近所さんも見てるから、顔を上げてよ」
それから、雪姫はようやく僕の存在に気付いたようだった。「僕も悪かった、ごめん」と深く頭を下げると、雪姫はホッと大きな胸をなで下ろす。
「良かった……サトルにまで土下座されたらどうしようかと思っちゃった。それにしてもあんた達、あれしきのことで慌てすぎ」
ほら行くわよ、と直矢と僕の背を押して、雪姫はずんずんと歩き出す。
「あれしき、って」
「事情を知らない人が見たら、あんなの、よくあるコラ動画でしょ。学校でだって、『他人のそら似』って言っときゃいいのよ。……だいたい、私あんなに太ってないし。失礼しちゃうわ」
冗談っぽくそう付け加えて、雪姫は肩をすくめる。
「ま、いつかそういうことがあるんじゃないかって、予想はしてたわ。見た人全員に好きになってもらうなんて無理な話なんだし、仕方ないわよ。そのことであんた達を恨んだりもしないわ。おかげで、私の歌をたくさんの人に聞いてもらえたわけだしね」
「それは、雪姫の歌が良かったってだけで……」
「おだててもダメよ。直矢とサトルがいなかったら、あんな人気になったはずないわ」
そう言って雪姫は、ぽん、と優しく僕たちの頭を叩いた。
*
ぜんぜん気にしてない、なんて言ってたくせに。
斜め前の席に座る、雪姫の後ろ姿を眺める。リンゴとよく似た、ゆるくウェーブを描く黒い髪。せめて髪型くらい、まったく違うものにしておけばよかった、と今さらになって思う。
――雪姫が、三時間目の終わりに弁当を食わなかった。
前後に移動教室の授業があったわけでもない、ごく普通の休み時間だったというのに。
その理由に心当たりがあるとすれば、間違いなくあの動画の件だ。
さっきだって、「この動画、知ってる?」と、心配そうな顔をしたクラスメイトがあの動画を雪姫に見せていたが、雪姫は「ああ、これね。似てるって言われたんだけど、私こんなに太ってないわよ!」と軽く笑い飛ばしていた。「そ、そうだよね」と頷いたクラスメイトが、少しだけ残念そうにしていた気がしてしまうのは、僕の気のせいだろうか。
昼休みに入ると、雪姫の異変はますますハッキリしてきた。いつものように笑顔で友達と弁当を食べているのに、そこに、あのキラキラとした幸せそうなオーラが見えない。
「赤羽根?」
田中が怪訝そうに僕の名前を呼ぶ。安藤はちらりと雪姫のほうを見ると、「お前としても、けっこう心配なわけ?」と僕に尋ねてきた。
「なになに、何の話?」
「ちょっと前にさ、ネットアイドルの握手会に行ったって話したじゃん? そのネットアイドルが、太ったら真白さんにソックリって噂でさー」
安藤が田中に携帯端末で動画を見せ、「そんなに似てるか?」と田中が首を傾げる。こんな風にして、情報は悪気なく伝播していくのだろう。皆が田中くらいあっさりと引き下がってくれればいいのだが。
「実際、あれってホントに真白さんなの? 赤羽根、真白さんとも黒葉とも仲いいじゃん。知ってんでしょ?」
そう聞かれるのは、実は今日で二回目だ。たいして顔の広くない僕でこれだから、直矢や雪姫のところにはどれだけ不躾な質問が行っているのか、想像だに恐ろしい。
「お前はどう思うんだ? その子と握手会で喋ったんだろ」
「んー、オレはあのリンゴちゃんと真白さんは別人だと思うなー。リンゴちゃんは、人見知りだけど頑張ってる、って感じがしたけど、真白さんは、なんて言うか、もっと……大阪のおばちゃんっぽいじゃん?」
大阪のおばちゃん、か。言い得て妙かもしれない。
携帯端末で写真を撮る音が聞こえた。教室の入口から、誰かが中を撮影したのだ。バカ、バレたらどーすんだ、と笑いの混じった声が聞こえる。
「だいたい、あれが白雪姫って顔かよ」
誰かの発した言葉が耳に入る。
ふざけるな。名前は自分でつけられるものじゃない。雪姫があの名前と、小さい頃からの肥満体型のおかげで、今までどれだけからかわれてきたと思ってるんだ。それこそ、本当に雪姫が大阪のおばちゃんだったなら、ネタにできて良かったのかもしれないのに。
「誰か声かけて来いよ」「お前が行けよ」と数人の男子が喋っている。雪姫と一緒に弁当を食べている女子のうち、少なくとも二人はそれに気付いている。
みしり、と手元の箸が軋む音を立てた。ずいぶん力が入っていたことに気付き、慌てて箸を離す。
雪姫がドアのほうに目をやり、わずかに目を伏せ、それから友人達のほうに視線を戻すと、手元の弁当を詰め込むように食べ始める。
なんだよ。何なんだよ。怒らないのかよ。
そんなマズそうに飯を食う雪姫なんて、僕は見たくないのに。
雪姫をあんな風にしたのは誰だ。元はといえば僕たちだ。直矢ひとりのせいじゃない。直矢けじゃ、リンゴを人気者にはできなかっただろう。僕たち三人の誰が欠けても、リンゴは今の姿にはならなかった。僕だってそれなりに、彼女の人気に貢献してしまったと思う。
だったら、僕にだって、生じてしまったこの事態から雪姫を守る責任があるはずだ。
いや……そんな言い訳はどうでもいい。問題は、僕がどうしたいかだ。このまま黙って見ていたって、雪姫はちゃんとこの場を切り抜けるだろう。でも、それでいいのか? それで、僕は僕を許せるのか?
ああ、また、思考が目の前の友人達から離れて、どこかに飛んでいく。
「赤羽根」
安藤の声が聞こえたが、僕はそれを無視することにした。
立ち上がって、息を吸う。
「い……いい加減にしろっ!」
叫んだ声は、思わず笑ってしまいたくなるほどに裏返っていた。
*
教室に微妙な沈黙が流れる。しまった。こういう時は、次に何を言えばいいんだろう。
思わずあちこちに視線を巡らせてみたが、誰も助けてはくれない。当たり前だ。僕だって、こんな状況で立ち上がったヤツの邪魔なんかしないだろう。
落ち着け。僕はケンカがしたいわけじゃない。というか、したら絶対負ける自信がある。インドア派のひとりっ子をなめるな。小さい頃から、ケンカには勝った記憶がない。
「ひ……人の写真を、勝手に撮るなよ!」
気まずい沈黙の中、やっと出てきたのはそんな言葉だった。これが直矢だったら、もう少しカッコ良くタンカを切ってくれるんだろうけど、言ってしまったものは仕方ない。
「はぁ? だってその子、アイドルなんでしょ?」
ぷっ、と笑いながら茶髪の女子が言う。上履きの色からすると、どうやら彼女だけは二年生らしい。暇な人間がいたものだ。
沈黙が破れ、教室の中には再びざわざわとした音が戻って来る。けれど、そのざわめきの中心に僕が立っていることには変わりない。
深呼吸をひとつ。
だいじょうぶ、何とかなる。だってあの握手会では、もっとたくさんの人間を前に、上手くやり遂げたじゃないか。
「違います」
ごめん、直矢。僕はこれから、アイドルとしてやってはいけないことをします。
「確かに、アバターのデータと歌は彼女に貰いましたが」
さよなら、平穏な日常。
「――『ぽいずんリンゴ』の中身は、僕ですから」
……教室が、再び微妙な沈黙に包まれる。先ほどのような緊張感をはらんだ沈黙ではなく、どちらかと言えば、「関わり合いになりたくないなぁ」という雰囲気の沈黙だ。
分かってる。僕だって他人だったらそんな反応をするだろう。クラスの中の地味な男子がいきなりこんなことを言い出したら、それはもうドン引きする以外にどうしろというのか。
「撮りますか? 何でしたら踊りますよ」
茶髪の先輩が呆れたような顔で肩をすくめ、「いらない」と首を振る。
「あたし、変態に興味はないから」
「……そうですか」
地味にダメージの大きい捨てゼリフだった。
*
深くため息をついて、僕は席に戻る。田中が困ったような顔で、安藤が呆然とした様子で僕を見ている。
「……あ、あの……今のって、真白さんを庇うために適当なこと言っただけ、だよな?」
おそるおそる訊いてきた安藤に、「ごめん」と頭を下げる。
「え、何それ、まさかマジで……」
どう謝ったところで、今さらどうしようもない。リンゴが女子高生を騙り、ファンを騙していたことは変えようのない事実だ。
「本当に、ごめ――」
「何だよ、そういうことは早く言えっての、オレら友達じゃないのかよ!」
どん、と肩を叩かれる。
「――すげー面白そうじゃん!」
「え?」
顔を上げると、安藤がにやっと笑っていた。
*
その後、雪姫には「バカなことやってんじゃないわよ!」とさんざん怒られたが、朝から多めに作って来た唐揚げを進呈して、ひとまず機嫌を直してもらった。
直矢にも、「リンゴはお前ひとりで作ったわけじゃないだろ! そこはちゃんと俺の名前も出せよ!」と怒られた。……怒るところはそこなのか。
例の動画は幸いにして削除申請が受け付けられ、この学校以外では大して話題になることもなく、ひっそりと忘れ去られていった。
僕は……教室でダンスを披露させられたり、安藤がものすごいイケメンのアバターを使っていることを知ってしまったり、次の握手会に担任教師が現れたりといった、ちょっとした衝撃的なイベントはあったものの、おおむね楽しく暮らしている。
一部のクラスメイト(安藤と田中を含む)がリンゴの妹分を作り上げてみたり、茶髪の先輩が何かに目覚めてネットアイドルとしてデビューしてしまったり、といった事件もあったが、それはまあ、きっと僕のせいではないだろう。
そんなこんなで。
たくさんの人達に支えられて、今日もリンゴは歌っている。