Stage.2 はじめてのブレイク
四時間目の終わりのチャイムが鳴った。まだ数学教師が教室に残っているというのに、「おなかすいたー」と言いながら雪姫が弁当を買いに立ち上がる。家から持ってきた弁当は、三時間目の終わりの休み時間に完食済みである。野球部あたりの男子なら分かるが、帰宅部の雪姫がなぜそれだけのカロリーを必要とするのか、さっぱり分からない。
鞄から弁当を出し、いつも一緒に弁当を食っている友人、田中と安藤の席に向かう。直矢はクラスが違うから、昼食を共にすることはあまりない。
今日もいつも通りの一日だ。上手く滑り込んだ、クラスの中でも無難な立ち位置。目立つことも浮くこともない平穏な日常。やっぱり世の中、平和が一番だ。
何気ない会話の中で、不意に安藤が口を開く。
「そういやさー、昨日『ねこ生』見てたら、ネットアイドルの握手会やってて」
「ぶっ!?」
思わず卵焼きを喉に詰まらせて、僕は派手に咳き込んだ。
「うわッ! ちょっ、大丈夫か?」
「あ、ああ、うん」
落ち着け。別に、それが「ぽいずんリンゴ」の握手会だと決まったわけじゃない。
「んで、その握手会がどうしたんだよ?」
「そのアイドルってのが、前に2組の黒葉が超オススメしてた子でさー。前にオレも動画見たんだけど、けっこう可愛くて! まだ枠開いてたから、思わず行ってみちゃった」
いや、「行ってみちゃった」じゃないよ! 何やってんだよ! どこにいたんだよ!
「おい赤羽根、ホントに大丈夫か? なんか顔色悪いぜ?」
「へ、平気だから。ほっといてくれ」
直矢はやたらと友人が多いし、その友人たちに「ぽいずんリンゴ」の動画をオススメして回っていたのは紛れもない事実だ。この学校は部活があまり盛んじゃないから、安藤が僕たちと同じ帰宅部なのも、別に珍しいことじゃない。
だからって……この偶然は、あまりに酷いんじゃないか?
「そっか? 気ぃつけろよ。んで、アイドルってどんな子? 画像とかある?」
「ちょっと待って……ほら、コレ」
安藤が携帯端末に表示したのは、間違いなく笑顔の「ぽいずんリンゴ」だ。人違いであってくれたら、という一縷の望みが、目の前で容赦なく打ち砕かれる。
「3Dスキャンかよ。実写ねぇの、実写」
「分かってないなー、三次元じゃダメなんだよ、こーいうのは。グラビアの写真とかだって、補正してるからキレイなんじゃん。ナマの画像なんて見たくないね」
「んな夢のねぇこと言うなよ……おい、赤羽根、お前はどっち派だ?」
田中が不意にこちらに話を振ってくる。飲みかけていた緑茶を噴き出しそうになり、僕は慌てて片手で口を押さえた。
「い、いや……ケースバイケース?」
「出たわー玉虫色の回答。ま、赤羽根はアイドルソングなんて興味なさそうだしなー」
まったくその通り、と大きく頷いてみせる。いいから早く次の話題に移れ。
「握手会ってことは、この子と喋ったのか? どうだった?」
田中に聞かれた途端に、安藤が嬉しそうに相好を崩す。
「それがさー、動いて喋るとさらにカワイイの! こう、ぎゅーって手握ってくれて、『今日は来てくれてありがとう♡』って!」
ぶふっ、と再び噴き出して、僕は視線を逸らす。頼むから裏声で実演しないでくれ。というか、参加者のほうからはそんな風に見えてたのか。いや、バレバレのネカマだったと言われるよりはずっとマシなのだが、何というか、こう……非常に複雑だ。
「分かったから、俺の手を握るな」
「あ、ゴメン、つい。いやー、それにしても、リンゴちゃんってオレらと同じ高一らしいんだよなー。あれだけ可愛い子がクラスにいたら、毎日学校来るのも楽しいだろうなー」
語りながら、安藤は楽しそうにニヤついている。
ふと振り返ると、いつの間にか雪姫が弁当を買って戻って来ていた。機嫌がいいところを見ると、今日は首尾よく唐揚げ弁当を手に入れられたらしい。雪姫が好物を食べているときの幸せそうな姿は、ARディスプレイがなくたって、その周囲にキャンディやフルーツが飛び回っているのが見えてきそうなほどだ。
痩せた雪姫を安藤に見せてやりたい気もするが、飯を食っている雪姫を見ると、お前はそのままでいいよ、と言いたくなってくるから不思議だ。僕は内心でひとつため息をついて、安藤に訊ねてみる。
「でもさ、相手もアバターなんだから、本物はすごいブスだったり、オバサンだったり、オタク男だったりするかもしれないわけだろ? それでもいいの?」
「あのなー、そんなの喋ったら分かるって。あんな心のキレイな子を疑うなんて、いくら赤羽根でも言っていいことと悪いことがある! っつーか、あれで男だったらドン引きだよ!」
「そ、そうですか……」
正直なところ、今すぐこの場から逃げ出したい気分ではあったが、内心ちょっぴり誇らしい気持ちがあるのも確かだった。相反する感情を持て余し、僕はひとまず、目の前の弁当箱に意識を集中することにした。
*
事の始まりは一ヶ月ほど前、雪姫が自分の体格を3Dスキャンしたことにあった。
技術の発展により、電脳空間で自分の身体を好きに動かせるようになったことや、アバターを使ったVRチャットが普及したことから、「自分そっくりの3Dアバター」の需要は日増しに大きくなっている。
かつては、出来合いのアバターをカスタマイズして自分に似せるのが主流だったという。しかし近ごろはもっとお手軽に、写真を撮るように自分の身体をスキャンして、3Dアバターを自動生成してしまうのが流行りだ。もちろん、お腹をちょっと引っ込めたり、ぜい肉をちょっと削除したり、目をちょっと大きくしたり、といった修正は当然のように行われる――プリクラ写真の補正と同じだ――が、それをとやかく言う者などいない。お互い様だ。
とはいえ、そのちょっとした修正くらいでは、雪姫の体型を補正しきれるわけもない。「美味しいものが食べられなくなるくらいなら、私は太ったままでいい」と常々言い張っている雪姫は、特にそれ以上の補正もせずにアバターのデータを持っていたのだが、そこに興味を持ったのが直矢だった。
直矢のお姉さんが買って来たという減量シミュレーションソフトに雪姫のデータを読ませ、標準体重よりやや細いくらいまで痩せさせてみたところ……恐ろしいことに、モニタの中には目をみはるような長身の美少女が立っていたのである。
実際にはこう上手くは痩せられないのかもしれないが、とにかく目を惹く巨乳。メリハリの利いた体型。パーツのハッキリした顔立ち。
「あ……これ、雪姫んちのおばさんに似てる」
「おお、ホントだ! ってことは、これガチなのか……おい雪姫、お前今すぐ痩せろ!」
「イヤよ! ダイエットなんかするくらいなら、私はこのままで結構!」
雪姫にそう一蹴されたものの、直矢はこの美少女に未練たらたらのようだった。そこで、「だったらアバターデータだけあげるから、好きに使いなさい」などと、軽い気持ちで雪姫が言ったものだから面倒なことになってしまった。
「そうだ雪姫、お前、自分で歌った動画配信してたよな?」
「してるけど……それが?」
「そこにさ、3Dキャラの動画とか静止画じゃなくて、このアバターが歌ってる動画つけようぜ! それくらいならいいだろ?」
もしここにタイムマシンがあったら、僕は過去の雪姫に伝えたい。この直矢の提案にだけは乗ってはいけない、と。
「まあ、それくらいなら……」
せめてここでやめておけば良かったのに、「せっかくだからプロフィール画像もこの顔で」だの「日記書こうぜ」だの「アイドルらしい設定を作ろう」だのと、直矢の提案は続いた。さすがに「俺の書いた歌を歌ってくれ」と言い出したときにはどうしようかと思ったが、それなりに評判が良かったので結果オーライだ。そこまでの作業が、なぜか全て僕の家で行われたのは若干納得がいかないのだが、父親の趣味で機材が揃っているのは確かなので仕方ない。
気がついたときには、「ぽいずんリンゴ」はすっかりネットアイドルとしての体裁を整えていた。ある日、直矢が「せっかくだから踊ってみようぜ」と言い出すと、雪姫はにっこりと笑って、僕たちにリンゴのアバターデータを提供してくれた――というか、有無を言わせず押し付けてきた。いつの間に作ったのか、そのデータは、直矢と僕の動きにぴったり追随するようにカスタマイズされた代物だった。身長や性別が異なるアバターを動かすときには、それなりに上手く設定をしなければ動きが不自然になってしまうものなのだが、雪姫のカスタマイズは悲しいほどに完璧だった。
「あ、あの、雪姫……なんで、こんなデータを?」
「二人とも、見てるだけじゃつまらないんじゃないかと思って。そのデータがあれば、直矢とサトルにもリンゴのモーションデータが作れるはずよ。VRチャットだってできるしね。……ここまでやっておいて、今さらやめるなんて言わないわよね?」
「待って、なんで僕のデータまであるの!?」
「連帯責任」
……理不尽だ。
とにかく、そんなこんなの紆余曲折を経て、僕たちは、ただの歌い手からネットアイドルに進化してしまったリンゴを、あの手この手で演じることになってしまった。
別に、リンゴが嫌いなわけじゃない。直矢が演じるリンゴはけっこう可愛い。何というか、雪姫と違って、ちゃんとツボをわきまえているのだ。ちなみに、僕が演じるリンゴはもっと可愛い、とは雪姫の談だ。それはきっと何かの勘違いだろう。
それはそうと、ここで手を引けば、歌い手としての「ぽいずんリンゴ」だって今後の活動がやりづらくなってしまう。ネットアイドルと化してから、リンゴへの賞賛コメントはずっと増えた。かつては動画をアップしても大した反応が得られなかったそうだが、今や動画の再生数は桁違いに増え、最近は何の縁もないサイトで紹介されることも多くなってきた。
そうなれば、自然と周囲からの期待値も上がる。雪姫が、かつてと同じようにただ歌っただけでは、きっとファンは不満に思うだろう。可愛い動画を作り、コメントに返信し、ある時は作詞作曲をし、そして歌う。その全てを当たり前に求められるようになってしまった以上、リンゴはもはや、雪姫ひとりの手に負えるものではなくなってしまったのだ。
――そして、そうしてしまったのは、明らかに僕たちだ。
だからこそ、今さらあとには引けない。
*
「イベント大成功じゃん! ほら、こんなに喜んでもらえてるし」
直矢がタブレットで開いているのは、握手会の参加者の一人が書いた日記だ。「平日の夕方っていうのが、高校生のリンゴちゃんらしい」という話から始まって、内装を褒め、歌を褒め、ダンスを褒め、リンゴの「神対応」に感激している。
「次もまた行くよ!」と書かれると、不覚にも少し嬉しく感じてしまう。いや、またあんなイベントをやるのかと思うと、気が滅入るのも確かだが。
「……リンゴの中身が男だって知ったら、この人どう思うんだろうな」
「なあに、知らなきゃいいんだよ。中身はどうあれ、夢を与えられればアイドルとしては勝ちだろ。……いやマジで、年齢のサバ読みとか、スリーサイズのサバ読みとか、写真加工とか、知るとショックなんだぜ、ああいうの……」
直矢が遠い目をする。安藤もこいつもそうだが、過去によほどショッキングな真実でも知ってしまったんだろうか。
「とにかく! ドッキリじゃないんだから、ネタばらしなんか要らないんだ。正体がバレるようなことはするなよ。それだけは肝に銘じとけ!」
「なんでお前が僕に命令するんだよ! お前こそしっかりやれよ!」
「当たり前だろ! 『今週の注目ネットアイドル』にだって載ったんだ、ここで攻めに行かなくてどうする!」
タブレットを叩き、直矢はネットアイドル関係の大手サイトを表示する。トップページの片隅に、確かにリンゴの画像が載っている。
「なるほどね、動画再生数が伸びるはずだわ」
携帯端末をいじっていた雪姫が、やれやれ、と肩をすくめる。
「私の歌が上手くなったわけでもないのに、これだけ反応が変わると、なんか複雑ね」
「え? いや、雪姫の歌は上手くなっただろ? イベントで歌ってた『赤ずきん』、かなりいい感じだったし」
「あのね。おだてても逃がさないわよ」
雪姫はそう言っているが、僕も直矢の意見に同意する。それが雪姫の努力の成果なのか、それともたくさんの人の目を気にするようになったせいなのか、あるいは「ぽいずんリンゴ」が自分だけのものでなくなって、一緒に活動している僕たちの目を気にするようになったせいなのか……そこまでは分からないけれど。
*
その後、「攻め」とやらの一環として直矢が作った配信用のARデータは、マイナーなネットアイドルとしてはそれなりのダウンロード数を記録した。僕も試しに使ってみたが、直矢の渾身の一作だけあって、確かになかなか良い出来だった。リンゴが自分の部屋に遊びに来た、あるいは一緒にデートに来た、という設定で、ボイスも色々と収録されている。ダンスと歌は直矢の自作曲を使ったものだ。曲の元データがあるから、配信用データも作りやすい。
気がつけば、「めっちゃカワイイ」「なによりダンスのキレが抜群」「ネットアイドルのAR配信としてはイチオシ!」「リンゴたんがいつでもどこでも歌って踊ってくれる幸せ」、だのという好意的なレビューも増え、直矢はしばらく上機嫌だった。
その作成現場にさえ居合わせなければ、僕だって、もう少しあのARデータを楽しめたのではないかと思う。
*
――それから数日後。
「サトル、やばい、今すぐ『ねこ動』見てくれ!」
朝早くにかかってきた直矢からの電話は、妙に切羽詰まった口調だった。こいつがこんなに焦っている時は、大概ろくでもないことが起きたときだと相場が決まっている。
「なにを見ればいいんだ?」
「こないだアップしたリンゴの動画、開けるか」
タブレットを操作し、「ぽいずんリンゴ」が投稿した最新の動画を選択する。
「……え」
「ねこねこ動画」では、ある動画に関連があると思われる動画や、この動画を好む人間が好みそうな他の動画を、自動でおすすめしてくれる機能がある。
そこに、奇妙な動画が上がっていた。