Stage.1 はじめての握手会
ピンクの壁には花模様、家具はどれも揃いのアイボリーホワイト。床には毛足の長いじゅうたんが敷き詰められ、天井からはシャンデリアが下がっている。レースのカーテン越しにやわらかい光が射し込むその部屋の中では、数十人の人間――八割ほどが男性だ――が、あるイベントの始まりを待っていた。
「……けっこう多いな」
『あはは、大人気じゃない!』
呟いた僕の耳元で、友人である雪姫の声がする。
ぽーん、と電子音が鳴ると同時に、このファンシーな電脳空間に新たな参加者が現れた。ぽんぽーん、と音がして、また二人。いったい、どこまで増えるのだろう。
『ほら、もう時間よ!』
分かってる。今さら逃げたりしたら、「彼女」の名前に傷をつけることになってしまう。
視点を切り替える。部屋の中を映していたカメラから、部屋の外に立つ、僕のアバターの視覚へ。
見下ろせば目に入る、ふんわりと裾の広がった赤いミニドレス。控えめにウェーブを描きながら、肩から豊かな胸元へ流れる長い髪。低いヒールの赤い靴。すらりとした体型に、きめの細かい白い肌。もちろんこれはアバター、電脳世界に作られたデジタルデータの身体だから、肌がキレイなのは当たり前だけど。
右手を動かすと、視界に入る白い腕も動く。あめんぼあかいなあいうえお、と小さく声に出してみる。女の子にしてはやや低めの声が聞こえる。自分からは見えないが、僕が動かしているこの美少女アバターも、僕と同じように唇を動かしたはずだ。
ひとつ深呼吸。落ち着け。ここにいる僕は、男子高校生の赤羽根聡じゃない。近ごろ動画サイトで人気のネットアイドル、その名も「ぽいずんリンゴ」なのだ。
「ぽいずんリンゴ」、通称リンゴは日本のどこかに住む女子高生。親の仕事の都合で見知らぬ土地に引っ越してから、なかなか友達が作れずにいる女の子。ウェブ上で歌い始めたのは、そんな自分を変えたかったから。趣味は歌うことと、お菓子を作ること。将来の夢は、みんなを笑顔にできるような歌手になること。
そんな基本設定を頭の中で復唱してから、とびきりの笑顔を作ってドアを開ける。
ドアの先には小さなステージがしつらえられている。参加者たちは、ぐるりとその周囲を囲むように立っていた。この短時間で、また人数が増えている。驚きが思わず顔に出てしまったのが分かった。慌てて嬉しそうな笑顔を作り直し、息を吸う。
「こんにちは! 今日は集まってくれてありがとう!」
大きく手を振る。現実世界で被っているヘルメット状のヘッドマウントディスプレイが、僕の脳から送信される電気信号を読み取って、その動きをアバターに伝えている。
家庭用の機器だから、信号の読み取り精度は決して高くない。よって、動きの細かい部分は自動的に補完されている。ちょっとした指先の動きが妙に女の子っぽいのは、アバターがそう設定されているからだ。僕に女装趣味があるわけじゃない。いや、ホントに。
「こんなにたくさんの人が来てくれるなんて、リンゴすっごく嬉しい! 今日はみんなと一緒に、楽しい時間を過ごせたらいいなって思います。よろしくね!」
……こんな台詞を吐きながらじゃ、まるで説得力がないかもしれないが。
数人の参加者がリンゴの名前を呼ぶ。そちらに顔を向けて笑顔を振りまく。ひとりひとりの顔を見ながら、ゆっくりと会場全体を見回す。目が合った、と皆が思ってくれれば成功だ。雪姫曰く、目指すべき境地は「みんなを平等に特別扱いすること」らしい。
「もう気付いてる人もいるかもしれないけど、今すっごく緊張してるんです。リンゴ、こういうイベント初めてだから……」
胸元に手を当ててそう言いながら、左足でトントンと床を叩いて合図を送る。曲のイントロが流れ出す。「ぽいずんリンゴ」が、初めて動画サイトにその歌声を投稿した曲。
「まずは聞いてね。『赤ずきんちゃんと王子様』!」
これから行われるのは、その「ぽいずんリンゴ」のバーチャル握手会である。
*
――いっそ殺してくれ。
内心のそんな気分が顔に出ていないことを祈りながら、僕はやって来た男性にとびきりの笑顔を向ける。慣れないことをしているせいか、顔の筋肉が吊りそうだ。
現実世界の僕の表情は、ヘルメットのディスプレイ部分に隠れて外からは見えないはずなのだが、もし見えていたとすれば相当キモいことは間違いない。
「リンゴちゃん、今度のダンスもすごく良かったよ!」
「ありがと、そんな風に言ってくれるとすごく嬉しい! がんばって練習して良かったぁ」
歌は口パクだし、ダンスは無理やり練習させられた代物だが、ファンが満足してくれたのなら上出来だ。ぎゅっ、と両手で男性の手を握る。顔はなかなかのイケメンだ。もちろんアバターなので、現実世界の彼がどんな顔をしているのかは分からない。彼の正体が小学生でもご老人でも不思議はないし、ひょっとしたら、中身が女性ということだってあり得る。
だが、いちいちそんなことは気にしないのがお約束だ。彼らだって、リンゴの顔が本物そのままだとは思っていないだろう。さすがに男だとは思われていないことを祈るが。
「これからも頑張ってね!」
「うん、ありがと! またね、キヨさん!」
目を見て名前を呼び、去り際を見送る。それから次の参加者に視線を向け、これまた目を見て、あなたに会えて心底嬉しい、という顔で声をかける。
……この仕草が、だんだん板に付いてきてしまった自分が悲しい。
「こないだリンゴが書いてたクッキー、作ってみたけど美味しかったよ!」
「ホントに! 良かったぁ。あれ、ミルクジャム入れても美味しいんですよ」
次の男性にそう言われ、思わず作り物でない笑顔が浮かぶ。
僕の周りの人間――両親を含めて――は、お菓子だの料理だのにてんで興味のない奴ばかりだ。ゆえに、リンゴの「お菓子を作ったよ」という日記に書いてあるレシピや写真は、ほとんどが僕のものである。そもそも、「お菓子作りが趣味」という設定を考えた時点で、僕がアテにされていたのは間違いない。
『サトル、あと9分で撤収開始よ。今のペースでよろしく』
うっかり話が盛り上がりそうになったところに、雪姫がすかさず声をかけてくる。僕だけに聞こえるように設定されている雪姫の声には、パリパリとスナック菓子を食べる音が混じっていた。よく聞けば、雑音かと思ったのは友人の直矢が笑い転げている声だ。アイツはいつか殺す。
あと9分。いや8分か。次の参加者である女の子に目を向けるついでに、視界の端に表示した時計を確認する。
「リンゴさんの動画、いっつも見てます! 今日はお会いできて嬉しいです!」
「ホントですか! リンゴも嬉しいなぁ、ありがとう」
こんなイベントに来るのは男ばかりだと思っていたのに、意外にこういう女性参加者も混じっている。明らかなネカマだと分かれば気が楽なのだが、そうでないと、自分の正体を見抜かれそうで少し緊張する。
「あの、リンゴさんって、AR(拡張現実)データの配信はしないんですか?」
「え? うーん……欲しい人、いるのかなぁ?」
「あたし、欲しいです! アイドルのAR配信って、憧れの人が自分の部屋に遊びに来てくれたみたいで、すごく楽しくて……よかったら考えてください。今日はそれが言いたくて来ました!」
それでは、と頭を下げて去っていく女の子に、「来てくれてありがとう!」と手を振る。
『AR配信か……けっこう面白そうね。どんなデータがいるのかしら』
雪姫がつぶやく。
次の参加者に気を取られていた僕は、その発言が後にどんな事態を引き起こすのか、考えてみることさえしなかった。
*
起き上がってヘルメットを外し、僕は深いため息をつく。僕の部屋で我が物顔にくつろいでいた雪姫と直矢は、脳天気に「おつかれー」だの何だのとほざいている。
「もうお嫁に行けない……」
「まあまあ、いざとなったら私が貰ってあげるから」
スナック菓子の袋に箸を突っ込みながら、雪姫がけらけらと笑う。油っこい菓子を箸で食べるのは、雪姫の昔からの習慣だ。その習慣に異を唱えるつもりはないが、そもそもこいつは、少しは間食を控えた方がいい。「秋だから何でも美味しいのよ」だの何だのと言っていたが、それはそれ、これはこれだ。スナック菓子に旬も何もないだろう。
……だいたい、雪姫があと10キロか20キロ痩せていれば、僕がアイドルとして握手会をするハメになんかならなかったはずなのだ。
眼鏡をかけ直し、軽く身体を動かしてみる。身体中に、まだ全没入型マシンに特有の疲労感が残っているのが分かる。
人間の脳にアクセスして、リアルな五感を再現できるようになったバーチャルリアリティ(仮想現実)技術。去年の秋にはついに全没入型、要するに頭で考えるだけでアバターを動かせるという夢の機械が家庭用に発売された。頭に被ってスイッチを入れたら、あとは普通に身体を動かせば、リアルの身体の代わりに電脳世界のアバターが動いてくれるという寸法だ。
ちなみにその間、リアルの身体への命令は最低限までカットされている。バーチャル世界を自分の足で動き回るためには、どうしてもその機能が必要なのだ。さんざん仮想世界を歩き回ったあと、ログアウトしてみたら家の外でした、なんてことになったら困る。その機能の代償としてなら、多少の疲労感と、連続で使えるのは一時間という制限くらい、何ということもない。いや、むしろ、握手会をたった一時間で終わらせる口実ができて有り難かった。
「ちょっと、サトル? 聞いてる?」
……いけない。放っておくとつい自分の思考の中に沈んでしまうのは、僕の悪いクセだ。さっきの握手会の最中だって、何度か上の空になりかけた。雪姫がすぐに気付いて声をかけてくれたから事なきを得たが。
「いやー、しかし科学の力ってすげえよな! 俺、マジでリンゴたんに惚れそうになったわ! サトル、お前マジで才能あるよ! ネカマの!」
「黙れ。そもそも誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ」
「えーと……正直すんませんでした」
抱え込んでいたタブレットを脇に置いて、直矢が深々と土下座する。誠意のかけらも感じられない土下座は逆にすごい。その頭にカカトを落としてやろうかと真剣に考えたが、雪姫に怒られそうなのでやめておくことにした。
「あと、お前が読んでるそのマンガ、僕もまだ読んでない」
「マジで!?」
どうせ母が買い込んだ電子書籍なので、僕自身が読む予定はないのだが、だからといって他人に、いや今の直矢に先に読まれるのは妙に腹が立つ。
もっとも、僕の母親は直矢のことを気に入っているから、こんなことを考えていると知れたら、叱られるのは僕のほうだろうけれど。
真白雪姫と黒葉直矢は、僕の親友にして幼なじみだ。腐れ縁、と言った方が正確かもしれない。家が近所で、学年が同じだったことから、気がつくと何だかんだでいつも一緒にいた。何の因果か高校まで同じなものだから、小学校に上がる前から、高校一年生になる今まで、実に十年ばかりの付き合いになる計算だ。もしかすると、一緒に過ごした時間は、遠方に単身赴任している母親よりも長いのかもしれない。
「それにしても、親友が死にそうになりながら握手会やってる時に、お前はマンガなんか読んでたのか……余裕だねぇ、黒葉君?」
「あ、あの、でも、これマジで面白いから! サトルも読んだ方がいいって」
「よし分かった、次のイベントはお前が出ろ。僕はその間にマンガを読む」
「無理よ、直矢にあんな器用な対応ができるわけないでしょ。アイドルが大好きなのと、アイドルを演じられるのは別」
僕の発言をばっさりと切り捨てた雪姫は、空になったスナック菓子の袋を丁寧に畳んでゴミ箱に捨てる。
「ま、けっこうウケたみたいで良かったじゃない。ところで、アイドルのARデータって、どんなのを配布すればいいの?」
「ちょっと待って」
直矢がタブレットを拾い上げる。ウェブブラウザを立ち上げ、開いたのは動画サイト「ねこねこ動画」だ。その名の通り、元は猫動画の投稿サイトだったのだが、近ごろは何でもありの動画サイトになっている。さっき僕が使っていたのも、同じサイトにある「ねこねこ生放送」という機能で、簡単に言うと、配信者が他のユーザーを仮想空間に招いて交流できるというものだ。
「ネットアイドルでAR配信してる子は、まだ少ないんだけど……あ、例えばこの子」
開いたページにいたのは、ピンク色の髪の女の子だ。不自然なまでにきちんと切りそろえられた髪は、おそらくウィッグだろう。
「これがまず、普通の実写動画」
自分の部屋らしき場所で、女の子が画面のこちらに向かって語りかけている。明らかに昼間なのにカーテンを閉めているのは、窓の外の風景がよっぽどイケてないか、景色から住所が特定できてしまうからか、どちらかだろう。
「で、この子が作ったVR動画のプレビューがこれ」
白い空間にカラフルなクッションが積まれた、ビビッドな空間。どことなく、アイドル歌手のPVを思わせる――というか、実際それをイメージしているのだろう。身体でリズムを取りながら歌っている女の子は、さっきの実写映像と比べると、明らかに3Dスキャンしたモデルらしい外見になっていた。周囲をくるくるとキャンディやフルーツが飛んでいる。
「ARは……試しに見てみるといいよ」
ほい、と直矢が僕にヘルメットを被せた。言われた通りに操作すると、目の前に広がる僕の部屋の中に、ピンクの髪の女の子が出現する。今のヘルメットは全没入モードではなく拡張現実モード。目の前の風景に、この子のデータが重ね合わされる。
『こんにちは! シオンだよ。会えて嬉しいなぁ♪』
「へぇ、けっこうカワイイわね」
「だろ?」
直矢と雪姫がのぞき込んでいるタブレットには、僕が見ている映像がそのまま映っているはずだ。
『ね、歌ってもいい?』
そんな言葉のあと、シオンはその場で一曲歌ってくれた。キャンディやフルーツが飛んだりはしない。歌声がいかにも素人っぽいのは惜しいが、こういうものに、あまり高望みはすべきでないのかもしれない。試しに立ち上がって部屋の中を一周してみると、シオンの姿が360度、どのアングルからでも自然に映し出される。
「やっぱり、雪姫のほうが歌は上手いな」
「おだてても逃がさないわよ」
「だから、あれは直矢の……」
「連帯責任!」
立ち上がった雪姫は、シオンより頭ひとつ背が高い。ついでに横幅も、たぶん二倍くらい太い。
「だいたい、サトルのネカマの才能は眠らせておくにはもったいないし」
いや、眠らせておいていただいて結構なんですが。
「まあいいわ。サトルばっかりに色々やらせるのは確かに不公平だしね、AR配信用のトークとモーションはあんたがやりなさい、直矢」
「い……いや、俺よりもサトルのほうが適任……」
「ダンスはあんたの方が上手いわよ」
にこにこと立っているシオンに負けず劣らずの笑顔で、雪姫が直矢の目の前にずいっと顔を近づける。
「もちろん、今さらイヤだなんて言わないわよね?」
「……申しません」
「よろしい」
肩を落とす直矢と、満足げに頷く雪姫。こうしていると、なんだか直矢が小さく、雪姫が大きく見えるが、身長は直矢のほうが十五センチほど高かったはずだ。とはいえ、体重はおそらく雪姫のほうが重いだろう。
――この雪姫が、ただ痩せるだけであの美少女・ぽいずんリンゴになるというのだから、まったく世の中は分からない。