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 幾重にも重なる分厚い雲に覆われた空。真っ黒な空から叩きつけるように降る雨。そして目の覚めるような光の軌跡を描きながら轟く雷。

 建物に身を寄せ、軒下で少しでも雨をしのいでいた私は、その時ふっと異変を感じたのでございます。

 雷鳴と雨音にかき消されて蔵の中の様子はよくわかりません。しかし何やら大きな物音がしたような気がして、私は耳を澄ませました。

 目を閉じ、感覚を耳に集中させます。すると聞こえてきたのです。ドタバタという物音と、何かを取り落としでもしたようなバタンという大きな音。それに交じる悲鳴。

 これは何やら、よくないことが起こっている。

 はっとした私は、慌てて蔵の扉を開けました。素早く蔵の中を確認すると、薄暗い灯の中で、大きな男二人に取り押さえられているぼっちゃんと、狂ったように泣き喚く高子様(たかいこ)が目に飛び込んでまいります。


「業平様!」


 私は叫ぶと、お二人を助けるために蔵の中へと踏み込んだのでございます。

 ところが、入口近くにも賊が潜んでいたのでしょう。足を踏み入れた途端、ガツンと頭を棒のようなもので殴られてしまいました。何たる不覚でしょうか。

 蔵の裏口から賊が侵入したのに違いありません。

 ああ、もっと早くに気がついていたなら。しかし、ぼっちゃんをお守りするのも私の務めにございます。

「ぐおぉぉぉ!」

 雄叫びを上げ、腰に佩いていた太刀に手をかけました。 

「光雅! 反撃するでない! 殺されはせぬ」

 ぼっちゃんの声が聞こえました。

 ええ……お恥ずかしながら、私の名は、大江光雅朝臣(おおえみつまさあそん)と申します。いえ、そんなことは、どうでもよろしい。なにしろぼっちゃんの一大事なのですから。

 私に声をかけた直後、ぼっちゃんは賊どもにしたたか蹴り上げられ、グッ、と呻き声をあげていらっしゃいます。

 うちのぼっちゃんになんという乱暴狼藉! 許せません。

「業平様!」

 けれども、反撃するなというぼっちゃんの声に、一瞬の躊躇が生まれてしまいました。あっという間もなく、私の手はねじりあげられ、床に腹ばいにされ、上からは沓で踏みつけられているしまつ。これではもう、お助けすることも叶いません。

「いやあああぁぁぁぁ」

 雷鳴とともに、高子様の悲鳴が蔵の中に響き渡りました。

 ああ、高子様の麗しさが賊どもの目に止まったら……どんなひどい目にあわされてしまうことでしょう。

 無駄なあがきとわかっていても、満身の力を込めて押さえつけている男どもを振り払おうともがきます。

「やめて! お願い! お兄様!」

 その時、私の耳に、そうはっきりと高子様の声が聞こえました。


 え? お・に・い・さ・ま?


 そういえば藤原高子様には国経様と基経様というお二人の兄者がいらっしゃるはずでございます。しかも基経様は藤原北家の長、良房殿の養子となられており、次代の支配者となられる道を歩んでいるお方……。

 まさか。この場にいらっしゃるのが、その二人のお兄様方だと?

 すっかり反撃の力の抜けてしまった私は、そこにいる方々を見回しました。

 そう言われれば確かに、その辺の賊にしては身なりが良いように見受けられます。

 けれども薄暗がりな上に、殴られたときに頭が切れたらしく、流れる血が目に入って、しかと見ることが出来ないのでございます。

 泣き疲れたのか哀願する高子様の声も、少しずつ小さくなっていきます。そのご様子が、ますます哀れでございました。

「なれば高子」

 高子様とぼっちゃんの間に立っている御仁が口を開きました。

 おそらく、あの方が基経様なのでしょう。すべての者の目と耳が、基経様に向けられているのを感じます。

 霹靂とともに隙間から差し込んだ白い光の中に、基経様の姿が浮かび上がります。

 基経様は殿方にしてはほっそりとしていらっしゃるようで、高子様のお兄様と言うだけあって、美しい面立ちをしていらっしゃるようでした。ああ、もちろんぼっちゃんには遠く及びませんけれどもね。つり上がった目が、とても冷たく光っていて、なかなかにお傍に寄りがたい雰囲気をお持ちのようです。おそらく女性に好かれるタイプではございませんでしょう。

 基経様の隣に、がしっとした大柄な男が立っています。もしかするとあちらが国経様かもしれません。

「なれば高子。お前の心がけ次第で、この男を許してやろうではないか?」

 ぱり、ぱりぱりぱりぱり……。

 遠くから響く雷鳴とともに聴こえた基経様のお声は、驚くほどに静かなものでした。

「わたくしの?」

「そうだ高子。ここでこの二人の兄に誓え。この男と二度と会わぬと」

「そんなっ……」

「出来ぬのか? 高子?」

 途端に、ぼっちゃんの口からうめき声が漏れます。取り押さえられ、身動きの取れない坊っちゃんの頭を、藤原基経が踏みつけているのです。

 この! 藤原だろうが摂関家だろうが知ったこっちゃございません! ぼっちゃんに何ていうことを!

 ジタバタとあがいてみますが、悲しいことに、私も動きが取れません。

「いやあ! やめてお兄様! 誓う、誓うわ。誓います!」

 基経は、ぼっちゃんの頭に乗せた足をゆるりとおろされました。

「私は、二度と……業平様と……」

 高子様の声が涙に詰まっておいでです。

「業平様と……」

 大きく引きつるように息をお吸いになる高子様。痛々しくて、私はそれ以上高子様を見ていることができませんでした。

「会いませんっ!」

 その途端に、私を押さえつけていた者が立ち上がり、身体がふっと軽くなりました。自由になったのです。ですがもう、私に立ち上がる元気はございませんでした。大勢の人間が、蔵から出ていく物音がして、しばらくすると、雨音と遠雷の音しか聞こえなくなりました。




 白々と、夜が明けます。

 雨音もついに消え、辺りは静寂の中にあります。

「白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを……」

 ぼっちゃんの声が聞こえて、私はようやく正気に返ったのでございます。

 ぼんやりしている場合ではございません。ぼっちゃんの無事を確認しなくては。

 きしむ身体を起こします。

 ぼっちゃんは蔵の冷たい床の上に大の字になって、涙を拭いもせずに、茫と宙を見つめていらっしゃいました。



「ねえ、業平、あの草の上の光るものは何? 白玉(真珠)かしら?」

「ふふ、高子は露を見たことがないのですか?」

「そうよ。だってわたくし、ずっとお屋敷の奥に押し込まれていたのですもの。露? あれが露なの?」

「そうですよ」

「知らなかったわ業平。きれいね。とてもきれいね……」


 私の脳裏には昨晩の、芥川の(ほと)りを優しげに見つめ合いながら行く、お二人の様子がはっきりと浮かんでいたのでした。

 


伊勢物語第六段「芥川」より 後編

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