それは嵐の夜でした
皆さまごきげんよう。舎人其の二でございます。
ここまで藤原高子さまと坊ちゃまのことをお話したのなら、その結末もお伝えしなければなりませんね。
思い出すと、思わず深い溜め息が出てしまいます。
私の舎人人生の中でも、あの一件は、忘れることの出来ない傷なのでございます。
では、お話いたしましょう。
あれは、低い空に重い雲が垂れ込めた、そんな日のことでございました。
いつもは牛車でお出かけになる坊っちゃんなのですが、その日はどうしたことか自ら馬に乗ってお出かけになります。従者は私一人です。
天は雲に閉ざされ、月どころか星一つ見えない夜でございました。
今にも泣き出しそうな雲行きだからでしょうか、通りを歩く者もおりません。
「今日は一体どういった趣向なのです?」
とお聞きしても、ぼっちゃんはただ哂うだけ。
ええ、この時すでに私はいやーな予感がしておりました。
それにしてもぼっちゃん、なぜこういうときに指名するのは私なんでしょうか?
「其の二さんってば、ぼっちゃんに信頼されててうらやましいなあ」
などと、舎人一号は申しますが、いえね、私、信頼など欲しいと思ったことはないのでございます。自分のなすべきことを果たしたい。それだけなのでございます。
信頼して下さるというのなら、私の忠告にも耳を傾けて欲しいものです。雅など、求めなくともいい、おとなしくしていて欲しい……。私の心の叫びでございます。
なのになぜこの私が、ぼっちゃんと一緒に馬を並べて、五条のお屋敷に向かわなければならないのでしょうか。
五条にあるお屋敷に住んでいらっしゃるのは、藤原順子さま。そしてそこに身を寄せてらっしゃるのは、もう皆さんおわかりですね。ええ、ぼっちゃんの想い人、藤原高子様です。
あああ、嫌な予感しかありません。
ぼっちゃんはいつものごとく、塀の崩れたところからお屋敷の中に姿を消します。
私達舎人は、外で待ちぼうけなわけですが、この日はなんとしたことか、瞬く間にぼっちゃんが戻ってきたのでございます。その手に小柄な女性をだいて。
はっきり言って、私はパニックに陥りました。
「は? ぼっちゃん。えっと、こちらはどなたでしょう?」
聞かずともわかっているのに、聞かずにいられない!
ぼっちゃんもそれをわかっておいでなのか、私の質問には答えずに、抱いてきた少女を馬に乗せてやっております。
答えてくださらぬぼっちゃんの代わりに、馬の上にちょこんとおさまった少女が、可愛らしく私に向かって頭を垂れました。
「はじめまして。藤原高子と申します」
ふじわら……たかい……こ?
「ぬぬぬぬぬ……!!!!!」
「ぼやぼやしているのなら、置いていくぞ!」
言葉が出ないということを、私、初めて経験いたしましたよ。
「ぼっちゃん! 何ていうことを! 早く高子様をお屋敷へ……ぼ……ぼっちゃん!!!」
いっそ大きな声で叫んでしまいたい。でも、家のものに知られては困ります。私はかすれた声で叫びますが、ぼっちゃんは馬に乗るとさっさと走り出していってしまいました。
遅れてはなりません。このまま、あのお二人を放っておける訳もありません。
私は大慌てで騎乗するとと、馬の脇腹を蹴り上げ、必死にお二人の後を追ったのでございます。
なにしろ、ぼっちゃんは高子様を連れていらっしゃるのです、すぐに追いつきました。
後ろからついていきますと、お二人は何やらのんびり楽しげに話などしているご様子。
いつにない優しげなぼっちゃんの横顔と、まるで童女のような笑顔の高子様を眺めるにつけ、私は何も申し上げることができなくなってしまったのでした。
しかし、風が強まってきたかと思うと、ついに雨がぽとりぽとりと落ちてまいります。雷までとても激しく鳴り始めてしまいました。
ちょうど都合よく、そこに蔵が建っておりましたので、ぼっちゃんと高子様を蔵の中へとご案内いたしました。私は見張りとして、戸口に立ちます。緊急事態ですから、少し場所をお借りするくらい、構いませんでしょう。
ぼっちゃんも、私も、弓矢を背負っております。高子様お一人ぐらい一晩守り通すことができる。
その時はそんなふうに考えていたのでございます。
後から思うと、あそこで雨宿りなどしなければよかったのにと……。
いえ、いえ、そうではない。
あの時、雨宿りしたのは、間違いではない。
きっと、ぼっちゃんと高子様にとっては、ああなることが最良だったのやも知れぬ。
いや……。
あの日のことを、思い返す度に、私の心は千々に乱れるのでございます。
伊勢物語第六段「芥川」より 前編