月は沈みて
茜色だった空がすっかり群青に染まる頃、皆さんは水無瀬の宮へとお戻りになられました。
まあ、戻ってからも宴会ですけどね。
この日はよほど興が乗っていたのか、夜がふけるまで飲み、語らっていらっしゃいました。皆さんの感覚で言うと「宅飲み三次会突入」といったところでしょうか。
夜もふけるにつれ、この宴席の主である惟喬の親王も、眠くなっていらっしゃったと見えます。
「したたか酔ってしまった……。今日はこのへんで部屋に戻ろうか……」
空には十一日の月が、山の端に隠れようとしています。
立ち上がりかけた親王にぼっちゃんが一首読みました。
『まだ十分に満ち足りていないのに、早くも月は隠れてしまうのか……。山の稜線が逃げて月が山の影に隠れることが出来なくなってしまえばよいのに』
(飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ)
名残惜しいという気持ちを最後のお開きの歌として読んだわけですね。本来ならここで、親王が最後にお返しの歌を読むわけですけど、すっかり酔ってしまった親王は、寝室に入ってしまわれました。
最後にはぼっちゃんと、紀有常様の二人が座敷に残っていらっしゃいました。
『おしなべて峰も平らになりななむ山の端なくは月も入らじを……』
本来なら、ぼっちゃんの歌に最後の締めの返歌をなされるのは惟喬の親王でしたが、もう寝てしまわれたのでは仕方ありません。有恒様が親王の代わりに返歌をなさいました。
山なんて、稜線なんて、なくなってしまえば月も沈まなくて済むのに! と言うような意味の歌です。
静かな口調とは相反して、かなり強い意味の言葉を選んでいらっしゃる様子です。
「やはり、あの噂はほんとうなのかもしれませんね……」
小さな声で、舎人其の二さんが言いました。
「噂?」
「ええ、惟喬の親王は実は体調がこのところよろしくないというのです。それで、出家なさるというお噂が流れています」
ああ!
僕の中にあった、もやっとしたものがなんであったのか、今はっきりと形を取りました。
なんだか今日の惟喬の親王は、とても楽しんではいらっしゃるようだったけれど、どこか心あらずな感じがして、なんでだろうと不思議に思っていたのです。
歌を詠うのも、もっぱら親王以外のお供の貴族たち。
その貴族たちの歌も、満開の桜を見ながらも、散っていく事を惜しむような歌だったり、親王を楽しませようとした歌だったり……。
それに最後にぼっちゃんと有恒様の詠んだ歌。沈んでほしくない月は、惟喬の親王のことだったのではないか。今日の宴会のことを歌いながら、実は親王のこれからの身を案じての歌ではなかったのか。
はっとして見れば、有恒様は涙を流し、その涙を袖で拭っておいででした。なにしろ有恒様は惟喬親王の母方の叔父上に当たられます。
「良房めが……!」
そう、絞り出すように涙にかすれた声で吐き捨てると、手にしていた杯をぐいっと煽られました。
有恒様の隣で、ぼっちゃんは山の端にその身を沈めていく月を見ていらっしゃいました。
「義父上」
目は月の明かりを追いながら、ぼっちゃんが有恒様に声をかけます。
「今日は良い日でございました。桜も、月も、この世は美しいもので満ちております。桜は散り、月は沈む。終わりというものは、遅かれ早かれ誰にも平等に訪れるものにございます。であればこそ、美しく生きたいものです……」
そうしてゆっくりと有恒様を振り返り、誰をも魅了してやまない、あの笑顔を見せたのでした。
その後、惟喬の親王はお噂のとおり出家なさることになりました。ただ、ぼっちゃんとの交流はその後も続きましたよ。
いろいろやんちゃをしていたぼっちゃんの出世は遅いものでしたが、それでも晩年には蔵人頭にまで上り詰められ、皇太后となられた高子様とも再会を果たしていらっしゃいます。
遅れてやってきた春。しかしながら、蔵人頭に任命されたその翌年、ぼっちゃんはあっけなく彼岸へと旅立たれてしまうのです。
僕たちの語るぼっちゃんのお話はこれで終わりです。
でもこうして皆様に僕たちの生きた時代を少しでもお伝えすることが出来て、楽しい時間を過ごすことができました。
ぼっちゃんの生き様を振り返る時、僕はこの水無瀬の宮で見た、桜の花が頭のなかに浮かびます。
力の限り咲き誇り、時が来たなら淡い紅色のまま風に流され、散っていく。
ぼっちゃんの生き方は、そんな桜にも似ていたように思うのです。
だからこそ、人々の心に深く刻まれたのではないかと思うのです。
つたない僕たちの話に、最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。
あ、最後に其の二さんからも一言いただきましたよ。
『皆様が素晴らしい人生を送られますよう、祈っております。舎人其の二』
まったく、其の二さんたら、最後まで硬いんだから。
ではではみなさん!
皆さんの世にもぼっちゃんのことを描いた本はたくさんあるようですよ!
よかったら読んでみてくださいね。
そしてその影に、僕たち舎人たちの姿を、ちらっとでも思い出してくださったらうれしいなと思います。
伊勢物語第八十二段「渚の院」より
本編はこちらで終了になりますが、最後に一話、お付き合いくださいませ。