酷く甘ったれな微温湯に浸かる関係
基本的に、どんなに疲れていても眠くても、お風呂にだけは入ってから眠る。
例え、ご飯を食べなくてもお風呂には入る。
お湯で温めたタオルを瞼に乗せて、浴槽の縁に後頭部を乗せながら船を漕ぐ。
熱過ぎなくて、冷た過ぎない、微温湯とも言えるお湯に浸かりながら、微睡むのは気持ちが良い。
船を漕ぐ、とは言ったが、入浴中に起きるこのような現象は睡眠ではなく、失神、気絶と言う。
温かいお湯で血管が拡張し、血圧が下がる。
当然、脳への血流も下がり、立ちくらみのような状況に陥り、気を失う、というメカニズムだ。
メカニズムが分かったところで、眠いものは眠くて、瞼が重いものは重い。
細く長い息を吐き出しながら、指を組んでお腹の辺に置いた。
年間でも、優に一万を超える人が入浴中に亡くなるらしい。
その原因がこれかと思うと、何とも言えない気分になるのだが、自分がそれで死ぬと情けない気分になるだろう。
しかし、そんなことは、それこそ死んだって起きないのだと、自信を持って言える。
うつらうつら、既に微睡みの沼へと足を突っ込み、天井を見上げる形のせいで口まで半開きになった所で、ノックも声掛けもなしに、浴室と脱衣所を繋ぐ扉が開かれた。
「湯船の中で寝るなって何回言えば分かんだ!!」
ガチャリという扉が開く音を掻き消すような怒鳴り声が、浴室に響き渡る。
本当に良く響き、鼓膜が揺れて、キーンッとした。
痛い、煩い、ほんの少し眠気が飛んだ。
しかし、これがあるからこそ、入浴中に溺れ死ぬことがないのだと思う。
瞼の上に乗せてあったタオルを、自分の手で取り除き、重い瞼をこじ開ける。
首を起こして、扉の方を見れば顔を歪めた幼馴染みがいて、今日はちょっと来るのが早い。
「寝てないよ」
「寝てただろ、目が半開きだ」
フルフルと首を横に振ってみたが、当然納得してくれるはずもない。
常習犯だろ、と言わんばかりに目を眇めている。
靴下を脱ぎ、浴室まで入ってくる当たり、酷く過保護に思えるのだが、世の幼馴染みは皆こんなもののんだろうか。
瞼に乗せていたタオルを奪われながら考える。
濡れた前髪を掻き上げるように撫で付ける幼馴染みの手は、骨張っていて大きい。
つい頭を擦り寄せてしまう心地良さだ。
先日にも、こうして撫でられた気がするのは気のせいではない。
別の、女の子の幼馴染みが、そうして撫でてくれたのだが、あの日は、お風呂に入っていたと言うよりは、お風呂に沈んでいたのだが。
その話は割愛だ。
「兎に角、上がっとけ。と言うか、眠い時には湯船に入るなって何回言わせんだ」
タオルを浴室から脱衣カゴへと投げ入れながら言われて、うーん、と生返事を返す。
お風呂に入ることは、湯船に浸かることなので、なかなかシャワーのみで済ませられない。
一応、湯船には入ったので、今日は早めに上がることにして、浴槽の縁に手を掛ける。
よっこいしょ、と呟きながら立ったところで、ぎょっと目を剥いた幼馴染みが視界の端に映った。
「……これもいつも言ってるけど、俺がいるのに上がろうとするの止めろ」
中腰状態のままそんな言葉を聞くが、問答無用で立ち上がる。
溜息を吐き、更には頭を抱えた幼馴染みは「この前は、ちゃんと出た後に上がったんだろうが……」と呟いているが、まぁ、そうだ。
この前とは、先日の湯船に沈んでいた日を指すのだと思う。
寧ろ、それしか思い当たるものがない。
女の子の幼馴染みだったが、彼女が浴室から出て行った後に、のんびりと上がり、のんびりと髪を乾かしたりしたものだ。
しかし、今は、男の子の幼馴染みの目の前で、湯船から立ち上がっている。
「痴女かよ」なんて突っ込みが聞こえるが、非常に心外であるし、風評被害もいいところだ。
「別に、オミくんに見られるくらい平気」
ぺったりと背中に張り付く髪の毛を手に取り、ぎゅうっと絞ってみる。
バタタタッと音を立てて湯船の中に沈んでいく。
男の子の幼馴染み――オミくんは、心底嫌そうな顔をして、こちらを見ようともしない。
そのくせ口を開き「逆だろ、普通」と言う。
「いやいや。文ちゃんみたいな、ナイスバディーにこんな貧相な体は見せられませんって」
ケタケタと笑い声を上げながら言ってみるが、返答は溜息一つである。
気持ちは分かるが、理解はしてやらない。
実際、冗談抜きでそう思っているのだから、訂正なんて絶対にしてやらないのだ。
先日は女の子の幼馴染み――文ちゃんで、同い年の幼馴染みなのに、これまた酷く発育が良い。
身長も高めで、細くて、それなのに程良く筋肉を身にまとっており、メリハリの付いた体付き。
同性でも、あの胸は魅力的である。
過去に「夢が詰まってるね!」とハンズアップで言ったら、今年稀に見る本気の力で殴られたのを忘れていない。
「それに、オミくんってボクの全裸見て、興奮とかするの?欲情とかしちゃうの?勃つ?」
再度、よっこいしょ、と呟きながら、浴槽から出て、濡れた手のままオミくんの背中を押す。
早く出て行ってくれ、と言う意味で、オミくんが動き出せば、それに合わせてこちらも動く。
「……罪悪感だな」
「罪悪感」
二人揃って浴室から出れば、先にオミくんが用意してあったバスタオルで足を拭う。
それ、ボクのバスタオル、なんて思っても言わない。
オミくんが足を拭ったバスタオルは、そのまま脱衣カゴに投げ入れられ、新しくタオルが用意されるのだが、大して濡れてないだろう、勿体無い。
「あれだな。成長した妹の体を偶然見たっていう、ラブコメっぽい罪悪感」
「ラブコメっぽいは要らないんじゃない?罪悪感が薄れてるよ」
新しいタオルで体を包まれて、もう一枚のタオルは頭に引っ掛けられた。
因みに、本当に罪悪感があるのかないのか、ボクの顔から視線を外さない。
体を見られることよりも、顔を見られることの方が恥ずかしいのだが。
仕方なく、タオルを手繰り寄せて体に巻き付けると、わしわしと髪の毛の水気を吸い取られる。
その間にも、顔をじっと見詰めて、穴が開くんじゃないかと言うくらい見詰めて「後、肋骨浮いてるから」と言う。
肋骨、罪悪感の時と同じようにオウム返しをして、眉を僅かに動かす。
眉間にシワが出来ない程度の、ほんの数ミリの動きだ。
「罪悪感とか言って、見てる。えっち」
真っ直ぐにオミくんを見れば、嫌そうに、それこそ、浴室に突入して来た時と同じように顔を歪めて見せる。
わしわしと動いていた手に力が込められて、頭皮が削られる勢いで動く。
「巫山戯なこと言ってるなよ、痴女」
「痴女じゃないよ」
「……前は肋骨浮いてなかったろ」
ボクの言葉はガン無視された。
軽く肩を竦めて、タオルの下の自分の体に触れてみれば、胸のサイドの下、肋骨のある部分がボコボコと存在感を示している。
確かに、浮いている、貧相な体だ。
一日に必ず一回はお風呂に入るが、食事は摂らないこともあった。
別に食べたくないわけでもなく、単純に部屋に引き篭もっていると食べるのを忘れるのだ。
作業に没頭した結果に忘れる、なんて良くある話だろう。
そのせいで、肋骨が浮き始めたことは、自分の体なので良く良く理解はしているが、食べるのを忘れてしまうのだから、仕方がない。
「オミくん、今度一緒にお風呂入ろっか」
「マジで痴女か」
髪を吹き終わったらしいオミくんは、ボクの頭の上からタオルを取り除き、やはり脱衣カゴに投げ入れる。
ジト目で見られるので、肩を竦めてみるが効果は全くと言って良い程になかった。
「沈める」なんて物騒な言葉が聞こえてきたが、それも先日聞いたような、聞いていないような。
いや、沈められそうになったんだ、確か。
「じゃあ、着替えたらご飯食べよう」
ね、とタオルから手を伸ばして、オミくんの手首を掴む。
思いの外しっかりとしており、指が周り切らなかったが、ゆるゆると上下に振る。
睡魔はすっかり消え失せているが、湯船から出ればそんなもの、あってないものなのかも知れない。
へらり、ぎこちなく笑って見せれば、オミくんも眉を下げて、同じような笑顔を作る。
「早く着替えろ、痴女」
キッチンへ向かうために背を向けたオミくんが、最後に余計な一言を付け足すので「痴女じゃないよ」とボクが言う。
それから、体を拭いて、着替えて、ドライヤーで更に髪を乾かして、ぐぅぐぅ鳴るお腹を引き連れてダイニングへ向かおうと思う。