徒夢
初めて塗ったマニキュアは、マニキュアと言っていいものだったかわからない。
というのも、ただ透明なベースコートを塗っただけの、よく見ないとなにかが塗られていることに気づかないようなものだったからだ。
今はもうマニキュアを塗ることにどきどきなんてしないし、最近では塗ることすらなくなった。そんな、なにもかかっていないただの氷みたいな自分の爪を見るたび思い出すのだ。
ただの氷にただのシロップをかけただけだったあの爪のこと。大人になりきれていなかったあの頃のこと。そして、
そんな爪をしていた、十八歳、夏。
わたしが人生でいちばん輝いていた、高校三年生のこと。
その日はいつもの休日よりおしゃれな服を着て出かけた。
雨がやんだつぎの日が気化熱によって寒くなる、と授業で習ったとおり、気温は十度ちょうどだった。
お気に入りだったパーカーをしまうのが一日伸びて、嬉しくなる。だけどその下はノースリーブだから、総合した暖かさとしてはいまいちだ。
鏡の前で悩んで、スカートだけ替えてまた悩んで…を繰り返したけれど結局、やっと決まったのはさいしょにえらんだものだった。
すこし暗い、住宅街からはずれた場所。
目つきの悪い長身の男。
目線の先にある無造作に立てかけられた金属バット。
…と並べれば不吉な字面だけれど、ここはバッティングセンターだ。合法的にバットを振り回せる場所。彼いわく、すくない資金でストレスを解消できる場所。…だ。
その彼がいつものとおり不機嫌そうに歩いてくる。だけど、外にいるせいで目が細いのだということを知っているから怖くない。乱視、なのだ。
待ってたよ、と手を振ると、彼は何も言わずに片手だけあげた。
「おはよ」
「ん」
短く返事をした後、やるぞ、と目で合図してくる。
一枚二百円のコインを機械に入れると、わたしも立てかけておいた金属バットを手に取った。構える。
すうっと息を吸い込めば、白い球がものすごい力にひっぱられるようにこちらに向かってきた。
小学校のときにした、強力電磁石の実験を思い出した。はっと気づいた時には、ぼすっ、と記憶のそれとはだいぶ違う音がして、
「余所見すんな、下手くそ」
「う、うるっさいなあ」
二球目を見据える。
恋しらぬ猫、のふりなり、球遊び。
二十五球ひとセットで、わたしは一回、彼は二回やった。
自分の分を打ち終わっていそいそと彼のネットの後ろに回る。
「あっお前、だーからあ、撮んなっつってんだ、ろ!」
「…バレた」
バットの音にちょうどよくかき消されたはずのシャッター音は、それでも彼に咎められた。
彼はまっすぐピッチングマシーンを見つめて、バットを構える。
わたしはそんな彼だけを見つめて、そうっとため息を落とした。
…恋しらぬ、猫のふりなり。
「あっ」
「どうした?」
ありがとうございましたー、というすこし無愛想なおばさんの声を聞きながら、外に貼ってあるポスターを見つける。
「今日、夏祭りなんだね」
「…行きたいの?」
渾身の上目遣いで彼を見つめる。
「すっごく行きたい!」
三回連続で頷けば、彼はそれを一回のため息であしらって、七時に駅、と言った。
夏祭り、ときたら浴衣だ。
家に戻って押し入れの奥から浴衣をひっぱりだす。
去年、英検に合格したのち、ごほうびとして買ってもらった、やつ。
ももいろの地にしろくておおきな牡丹が咲いている。帯はあか。帯締めはきいろ。みずいろのとんぼ玉がついている。髪飾りはしろい花のかんざしを選んだ。
浴衣に腕を通したときの、独特のつめたさ。
ひんやりとした布につつまれて、気持ちいいような、ぞっとするような…。
あかい小さながまぐちにお金を移して時計を見る。
時計はちょうど一時間前を指していた。
部屋をざあっと見渡して、パソコンの上に乱雑に置かれたそれを見つけた。
誕生日に友だちからもらったそれは小さな小瓶に入っていて、色とりどりに光っている。
ちょっぴり悩んで、透明のものを手に取った。裏を見る。
『ベースコート』の文字が目に飛び込んできた。
ベース、といえば、さっきまでいたバッティングセンターの。そんなわけはないだろうってわかってはいるけれど、連想してしまうのは彼と見たものばかりだ。
「まあいっか。わからなくても。マニキュアはマニキュアだし…」
ひとりごちて、くろい蓋を二回まわすとツンとしたにおいが部屋に広がった。
七時五分前に駅に着いた。
花火大会だからかわたしの他にも浴衣を着たひとはたくさんいた。
さっきまで一緒にいたのに、待ち合わせをするのはこれが初めてではないのに、やけにそわそわしてしまう。
落ち着かないのは、着慣れない浴衣のせいか、ぴかぴかの爪のせいか、それとも。
「お前さあ…ちゃんと周り見ろ」
とんっ、軽く肩を叩かれて振り向くと、Tシャツにジーンズ姿の彼がいた。
「ええっ、浴衣じゃないの?」
「ねーよ。そんなの」
なんだか出鼻をくじかれたような気がする。
「…わ、人いっぱいだね…」
「そりゃそうだろ」
周りを見回しても、人、人、人。
いちばん多いのは紛れもなく男女の組だ。
明らかな恋人というふたりもいれば、すこし距離があるふたりもいる。
わたしたちは、ほかの人たちの目にどう映っているのだろうか。
「恋人!」
「は?なんだよ、いきなり」
「っぽく見えないかなーって思って」
何気なく言いながら彼を見上げる。
「は、おま、何言って、」
「お?照れてる?」
「待て、近づくな馬鹿、だーから近いっつーの!」
いいから行くぞ、と手を引っ張る彼に、もう歩いてるじゃん、と返す。
いつもより歩くのが遅いのは、浴衣なのを気遣ってくれているからなのだろう。
余所見すんな、方向音痴。
声の聞こえた方を見上げれば、すこし赤い耳が見えた。いちごのかき氷がたべたくなった。
「……あれ、お前爪に何かつけてる?」
「え?」
「あっいや…反射してて。何これ、マニキュア?」
「…すごいね、気づいたんだ」
ぱっと手を離して爪を見てみる。彼の手が触れていたところにつめたい空気が触れた。
ふっと寂しそうになる彼。
きらっ、確かに爪は光を反射する。
「まあ、あんまり得意じゃないからね、もうつけないかもー」
言いつつ彼の手を取った。
「かき氷、食べたいっ!」
「…あー、単価三十円のやつな」
「太っ腹だから、それを十倍の値で買ってやろう」
「ものは言いようだな」
そろそろ花火が始まる。
しゃりしゃりとかき氷をたべながら、花火が上がるのを待つ。
なるほど確かに周りには恋人だらけで、わたしたちも周りからそう見えているのかもしれなかった。
「…わたしさあ」
「あ?」
しゃり、ストローを切って作られたスプーンでかき氷を一度かきまぜる。
「県外、行くよ。大学」
瞬間、地面から空気に伝わった大きな音が鼓膜を揺らした。
「花火、」
「俺は県内に残るよ」
二発目がまた鼓膜を揺らした。
「じゃあ一緒に見れるの、これが最後かもしれないね」
「…おう」
三発目、鼓膜だけではなくて目も揺らした。
「…最初っから最後まで、わたしばっかり遊びに誘ってるの、なんだか悔しかったな」
「…じゃあ、さ」
四発目、今度は彼の声を揺らして、
「お前の二十歳の誕生日に、酒、飲もうぜ」
花火の下で震えた彼の声は今の時期に不似合いな季節の約束を生み出した、しかも、ずっと先の。
「何それ!」
「この前、先にお前が言ったんだからな、俺の二十歳の誕生日に一緒に酒飲むって」
「だからって何のお誘いなのそれ…」
「…俺と恋人同士になりませんかって、お誘い」
「…二十歳まで彼女作らないでよ?」
「は、お前こそな」
まだ飲んだこともないアルコールに思いを馳せながら、このひとと付き合ったらしあわせだろうなあ、と思いながら、最後まで花火を見ていた。
「…………すきだったよ…」
花火の音のかわりに聞こえる規則的な電子音。
冷たい空気と彼の温度のかわりに肌に触れる快適な室温。
言えなかった告白は結局夢の中でも自分からは言えなくて、わたしを現実に引き戻すだけだった。
白いベッドの上。
酸素マスク越しの呼吸。
これがいまのわたしの全てだ。
バッティングセンターで振りかぶる彼のことを思い出す。
結局いちどだって、爪に塗られたベースコートに気づいてはくれなかった。
彼に送るためのインディゴ・ブルーの封筒なんて持っていないし、そもそも住所すらしらない。
だから。
あれもこれも全部、わたしの白昼夢。