プロローグ
プロローグ
男は列車を降りた。
すっかり履き潰されてボロボロになった靴がぬかるみの地面を踏む。
噎せ返るような熱気と泥の匂い。忌々しくも懐かしい水の匂い。
容赦なく照りつける太陽に思わず手庇を作る。サングラスをかけているのに、この国の日差しは薄いグラス一枚ものともせず瞳に突き刺さる。目もくらむような眩しさ。止まった列車の向こうには輝く水面。季節外れの雨が河を氾濫させ、地上の海を作りだしていた。線路はその中に続いている。
列車からは続々と人が降り、尽きることがない。男は超過密の車内を思い出す。座る場所もない車内に人と荷物が犇めいていた。人いきれ、薬草を煎じたような匂いと、まさか車内で料理はすまいが焼いた肉の匂い。どこからともなく動物の――おそらく牛だろう、と男は思う――匂いも漂ってきて、同じ車両の中でさえ何が乗り込んでいるのか分からない。それが一気に外に吐き出されたのだった。
中には荷物を頭に載せて線路づたいに水の中を進む者もいるが、大部分が乾いた地面を探してのんびりと腰を下ろしていた。先の戦争で、この国の人間達は何もない場所に放り出されることに慣れてしまったものか、そもそもは民族性かもしれない。先祖代々この滴るような緑の森に居住してきた民である。
早速水煙草を吹かす男たちの一団、泣き出した赤ん坊に乳をやる母親は胸を隠しもせず、煙草をふかす夫と喋っている。大きな水飛沫が上がったのは、早速子どもが遊び始めたのだ。のんびりとしたものだ。
だが男は立ち止まる訳にはいかなかった。トランクを頭に載せて次の村まで辿り着けばいいという訳にはいかない。
目指すリーリャン・シティに辿り着くためには、この線路の尽きるまで行かねばならないのだ。
背後から牛の鳴き声が聞こえた。振り返ると、貨車から降りた水牛に人夫が車を繋いでいる。もしや、と思っていると人夫と目が合った。人夫は男に近づくと訛りの強いフランス語で話しかけた。
「旦那、どこまで行きたい?」
「リーリャン・シティ」
にやりと笑った人夫が要求したのは、先に出発した駅からリーリャン・シティの往復も余裕な値段で、男はポケットの中の切符をくしゃりと潰す。
人夫の目には白い肌をした男への複雑な気持ちが入り混じっていた。
金は持っているに違いない、たっぷりふんだくってやろう。奴らのチップは俺たちみたいな日に焼けた肌の人間に払われるものじゃないんだから。しかもこの男はリーリャン・シティへ行くのだ。水晶でできたかのようなきらきらした街へ、あの都市へ。
羨望、卑屈な劣等感、根源的な憎悪の混じった視線が、しかし表向きは客商売の笑顔に細められた目から発せられる。男はそれを浴びながら、しかしまるで表情を変えなかった。
びしゃり、と。
ぬかるみに音を立ててトランクを置き、その上に腰掛ける。余裕のある仕草で懐から煙草を取り出し、自分を見下ろして笑う人夫にも勧める。人夫はそれを断らない。
二人はのんびりと煙草を吸った。
列車が立ち往生したこともまるで気にしない機関士の煙草。赤ん坊に乳をやり終え昼寝をする妻にもたれかかられた夫の水煙草。地上の海の縁で早い煙草に味をしめた少年の口から立ち昇る煙。
正午を過ぎたばかり、まだ日は長い。
男は短くなった煙草を指先につまんだ。
「半分だ」
現地の言葉で離すと、人夫がきょろりと目を蠢かせる。
「こちとら女房と腹を空かせた子どもが一ダースはいるんでね、旦那」
「嫌なら別の牛を探す」
「旦那、こうしましょう三分の二」
「半分だ」
不意に男は立ち上がり、短い煙草を人夫の目の前に突きつける。人夫の唇から煙草がぽろりと落ちてぬかるみの泥水を吸った。じゅっ、と火の消える音。
「旦那、すまねえ旦那、冗談はなしだ」
「半分」
男は背後に向けて煙草を弾き、人夫の肩を叩いた。
「なに、いい仕事をしてくれればチップは弾むさ。俺は今日中にリーリャン・シティに着きたいんだ」
新しい煙草を人夫はふかす。男は座り心地は悪いものの、改めて車上の人となる。
水牛が地上の海に波を立てる。ドレスの襞のように広がる波の向こうを男は眺める。
奥地で生まれた小さな水流は半島を下る間に大河となり幾つにも枝分かれしながら海へと至る。線路は一番太い奔流に沿って半島を南下している。
水牛の歩みは列車には劣るが勤勉に一歩一歩男を目的地へ運んだ。地上の海を渡りきり、滴る緑の森を抜け、大河が滝となって流れ落ちる地に辿り着く頃、日は傾いていた。男は荷台から降り、人夫に並んで滝の流れ落ちる先の景色を眺めた。
赤い西日を反射して輝く水晶の都。
赤い西日に照らされ燃え上がるような色に染まった古い王宮。
河に隔てられた二つの街を一本の白い橋が繋ぐ。
リーリャン・シティ。
男は感謝の数だけ紙入れから紙幣を取り出し、煙草を添えて人夫に渡した。
長時間男の尻を苦しめたガタピシいう音を響かせて水牛の車が去っても、彼はしばらくその場に佇み見下ろせる景色に目を細めていた。
街の真ん中を流れる河。夕景の中で黄金の輝きを放つそれに、男はそっと呟く。
「ジャック…」
お前はどこにいる。




