第三十八話 落ちていく砂時計
翌朝、あかりと春斗の母親と差し障りのない会話をした後、朝食を先に終えた春斗は自分の部屋へと入っていった。
あかりはまだ、春斗の母親とリビングで話している。
家族の前での虚勢は限界だった。
春斗は一度だけ部屋のドアをちらりと見てから、まるで顔を覆い隠すかのように机に突っ伏した。そして、ほのかに頬を赤く染めて、昨日の優香とのやり取りを連想する。
『でしたら、半分だけ、許してもらえませんでしょうか?』
その言葉を言い終えると、優香は春斗の唇にさらりと口づけをした。
あれから、春斗の頭の中は、いまだに真っ白に塗りつぶされ、思考は少しもまとまらなかった。
何もかも現実味が欠けた世界で、新幹線のホームで触れた、優香の唇の柔らかい感触だけが確かだった。
フラッシュバックのように、春斗の脳裏に映像が流れていく。
『私、このまま、死んじゃうのかな』
真っ白なベットに横たわるあかりが涙を潤ませて、小刻みに震えながらささやくような声で言う姿。
『…‥…‥でも、私は、両親に離婚してほしくないです』
雨に打たれ、透きとおった涙をぽろぽろとこぼす幼い優香の姿。
『俺、こうして、春斗達に会えてよかった』
夏祭りの際、目元を拭い、前を見つめながら言葉をこぼす琴音バージョンのあかりの姿。
夏祭りの時から、ずっと抱えていた春斗の疑問が頭をもたげた。
ーー俺は誰が好きなんだろう。
今日は、あかりとの約束で、玄達、『ラグナロック』と、オンライン対戦を申し込まないといけない日のはずなのに思考がまるで追いつかない。
夢ではない。
夢ではないのだ。
唇に残る甘い痺れも、優香の告白も。
ーーだけど、半分って、どういう意味なんだろうか?
春斗が目を細め、更なる思考に耽ろうとした矢先、不意に、あかりの声が聞こえた。
「…‥…‥ちゃん、お兄ちゃん」
「ーーっ!?」
あかりから名前を呼ばれて、春斗は突っ伏していた机から勢いよく顔を上げた。
春斗はうつろな目をこすると、思考を邪魔してきた妹のあかりがいるリビングに行くため、ドアの方へとゆっくりと立ち上がった。そして、階段を降りた後、リビングへと入る。
「あっ、お兄ちゃん」
春斗の母親はキッチンにいるのか、桜色のワンピース姿のあかりはソファーから起き上がると、読んでいた琴音との交換ノートを掲げてみせた。
「…‥…‥どうした、あかり」
「あ、あのね」
春斗のその問いに、あかりは交換ノートを膝に置くと、ワンピースの袖をぎゅっと握りしめたまま、恥ずかしそうに顔を俯かせる。
しかし、このままでは話が先に進まないと思ったのだろう。
あかりは顔を上げて交換ノートを握りしめると、意を決して話し始めた。
「優香さんが、お兄ちゃんに話したいことがあるみたいなの」
「…‥…‥優香が?」
あかりの意味深な言葉に、春斗はキッチンに視線を向けると、真っ先に疑問に思ったことを口にした。
「優香、来ていたんだな」
エプロン姿で、春斗の母親とともに朝食を片付けをしている優香の姿を目の当たりにして、春斗は知らずそうつぶやいていた。
「はい。昨日の件について、春斗さんとお話したかったので、少し早めに来てしまいました」
「そうなんだな」
静かにーーそして、どこか悲しそうにつぶやいた優香の言葉に、春斗はわずかに目を見開いた後、神妙な表情で言う。
「春斗さん、昨日は大会が終わった後だったというのに、驚かせてしまって申し訳ありませんでした 」
「…‥…‥いや、優香。俺の方こそ、何も言えなくなってしまってごめん」
優香の謝罪を受けて、春斗は少しばつが悪そうにゆっくりと首を横に振る。
昨日のこともあってか、春斗と優香は互いに少し気まずさを感じてしまう。
やがて、春斗は躊躇うように口を開いた。
「正直、分からないんだ。俺は、宮迫さんが好きなんだと思う。だけど、あかりも優香も、同じくらい大切で大好きなんだ」
優香にそう吐露する春斗の表情は、どこか苦しげで悲しげだった。
「優香。俺は少しずつ、優香との距離を埋めていきたい。今までみたいな従姉妹の関係じゃなくて、一人の男として優香のことを知っていきたいんだ」
しばしの間、沈黙が続いた。
あくまでも真剣な表情でこちらを見つめてくる春斗に、優香は無言でその春斗の視線を受け止めていた。
そんな時間がどれほど続いたことだろうか。
優香がふっと息を吐き出した。そして引き締めていた口元を少し緩めると、さもありなんといった表情で言った。
「春斗さん、ありがとうございます。嬉しいです」
「…‥…‥優香」
優香の意外な言葉に、春斗は不思議そうに首を傾げる。
優香は居住まいを正して、真剣な表情で続けた。
「春斗さんの答えがどうであっても、昨日、そして、夏祭りの時に告げた私の気持ちはこれからも変わりません」
優香は真剣な表情を収めると、頬を緩め、春斗に笑みを向ける。
「何より、私自身が、春斗さんとあかりさん、そして宮迫さんとずっと一緒にいたいと願っていますから」
「…‥…‥優香、ありがとうな」
きっぱりと告げられた優香の言葉に、春斗は嬉しそうに頷いてみせた。
そんな二人の様子を、しばらく見守っていたあかりは穏やかな口調でこう言った。
「お兄ちゃん、優香さん、宮迫さん、頑張って!」
「ーーっ!あ、あかり、いたのか!」
「あかりさん!」
呆気に取られる二人をよそに、ソファーに座っていたあかりは信じられないと言わんばかりに両手を広げて目を見開いた。
「さっきから、ずっといるよ!ねえ、お母さん!」
「そうね」
「ーーっ」
キッチンにいる春斗の母親の声を聞いた瞬間、思わず心臓が跳ねるのを春斗は感じた。驚きのあまり、知らず知らずのうちに優香と顔を見合わせてしまう。
どうやら、先程までの優香とのやり取りは、あかりと春斗の母親に筒抜けだったらしい。
春斗達のいるリビングへとひょっこりと顔を覗かせた春斗の母親は、目を輝かせて春斗に言った。
「春斗、また、昔みたいに、あかりと半分こで好きはだめですからね」
「ーーは、半分って、そういう意味だったのか!」
「はい。春斗さんは幼い頃、私とあかりさんに、半分こで好きだと言って下さいました」
振り返った春斗が目にしたのは、いつもどおりの彼の様子を見て、くすりと笑みをこぼす優香の姿だった。
「ーーっ!」
不意打ちを食らった春斗はただうろたえるしかなくて、あまりにも唐突で想像だにしなかった不甲斐ない幼い頃の自分の言葉に、顔が赤くなるのを押さえることができなかった。
俺とあかりと優香。
もう、あの頃のような幼い頃の関係のままではいられないのかもしれない。
だけど、同時に俺は思う。
また、新たな明日が始まる。
大切な妹と従姉妹の笑顔は、そんなことを予感させた。
どこまでも夢をまっすぐに追いかけている妹は、一途に俺を支えてくれる従姉妹の少女は、自分らしく駆け抜ける憧れの少女は、今も変わらずに俺の隣で笑ってくれているのだから。




