第二十七話 明日は今日より、心が響き合う
暗い雨が降る夜の日のことだった。
それはまだ、あかりが入院したばかりで、春斗が中学に入学する前の幼い頃の想い出。
春斗の母親とともに、あかりが入院している総合病院から帰った後、自分の部屋に入った春斗は、直後に鳴ったインターホンの音に意識を傾ける。
春斗の母親の代わりに、部屋のドアを開けて、インターホンがある部屋へと向かうと、春斗は不思議そうに問いかけた。
「はい」
「…‥…‥春斗さん」
インターホンから、優香と思われる少女の声が聞こえてきた。
慌てて春斗は玄関へと向かうと、ドアを開けて優香を出迎える。
しかし、玄関先にいたのは、何故か泣きじゃくっている優香の姿だった。
「ど、どうしたんだ、ゆうーー…‥…‥」
「春斗さん」
驚きににじむ表情のまま、発せられた春斗の言葉は、同時に開いた優香に先んじられて掻き消える。
「お父さんとお母さんが、離婚するかもしれないんです。もう、お父さんとお母さんは、一緒にいることができないと」
言葉の意味を一瞬にして悟ると、春斗は驚きの表情を浮かべ、すぐにみるみる眉を下げて哀しそうな顔をした。
「…‥…‥でも、私は、両親に離婚してほしくないです」
「…‥…‥優香」
流れ出る涙は止まらない。
雨に打たれ、透きとおった涙をぽろぽろとこぼす優香の姿に、春斗の顔が目に見えて強張る。
目の前で泣き続けている優香に向かって、春斗は足を踏み出し、手を伸ばし、優香をがむしゃらに抱き寄せていた。
「…‥…‥優香、一緒に家に行こう。…‥…‥そして、一緒に伝えよう。優香の気持ちを」
春斗のゆっくりと落ち着いた声が、優香の耳元に心地よく届いた。
胸の中で目を見開いた優香は、春斗の強い言葉に嬉しそうに顔を歪めて力なくうなだれた。
春斗とともに優香が自分の気持ちを全部、話したことにより、結果として、優香の両親は離婚を踏み止まってくれた。
今も相変わらず、優香の両親は共働きで度々、ケンカをすることがあるらしい。
だけど、あかりのお見舞いや退院祝いの時に、優香と一緒に、優香の両親が顔を見せてくれるようになったりと、前よりは一歩だけ関係が良くなってきているように春斗は感じていた。
「…‥…‥ちゃん、お兄ちゃん」
不意に、あかりから名前を呼ばれて、春斗は突っ伏していた机から勢いよく顔を上げた。
視界に映るのは、見慣れた自分の部屋だ。
優香が帰った後、春斗は、オンラインバトルゲーム『チェイン・リンケージ』の第三回公式トーナメント大会のチーム戦が開催されるまでの間のゲームの特訓スケジュールを考えていたのだが、なかなか良いアイデアが思いつかず、そのまま、机で眠ってしまっていた。
そして、その間に、琴音からあかりに戻ったようだった。
ーー懐かしい夢を見たな。
あの時は、優香に泣いてほしくなくて、幼いながらに必死だった。
春斗はうつろな目をこすると、微睡みを邪魔してきた妹のあかりの部屋に行くため、ドアの方へとゆっくりと立ち上がった。そして、ノックした後、あかりの部屋へと入る。
「あっ、お兄ちゃん」
琴音から戻ったばかりなのか、オーバーオール姿のあかりはベットから起き上がると、持っていた琴音との交換ノートを掲げてみせた。
「どうした、あかり」
「あ、あのね」
春斗のその問いに、あかりは交換ノートを膝に置くと、ベットのシーツをぎゅっと握りしめたまま、恥ずかしそうに顔を俯かせる。
しかし、このままでは話が先に進まないと思ったのだろう。
あかりは顔を上げて交換ノートを握りしめると、意を決して話し始めた。
「宮迫さんとの交換ノートに書かれていたんだけど、今日から大会まで、みんなでゲームの特訓をするんだよね」
「ああ」
春斗が眠気を噛み殺しながら頷くと、あかりは信じられないと言わんばかりに両手を広げて目を見開いた。
「すごいの。宮迫さんだけじゃなくて、あの、布施尚之さんとも対戦できるかもしれない」
「まだ、宮迫さんの返事待ちだけどな」
子供のように無邪気に笑いかけるあかりに、春斗は困ったように眉をひそめる。
「でも、これなら、あかりが病院に通院しながらでも、チームを確実に強化することができると思うんだ 」
「…‥…‥ありがとう、お兄ちゃん」
必死に言い繕う春斗を見て、あかりは嬉しそうにはにかむように微笑んでそっと俯いてみせる。
春斗達が他愛のない会話をしていると、不意に、あかりの部屋のドアが開いた。
「春斗、あかり、ちょっといいかしら?」
部屋に入ってきた春斗の母親から言葉を投げかけられて、あかりは交換ノートを膝に置き、春斗から春斗の母親へと視線を向ける。
エプロンを締め直すと、春斗の母親は穏やかな表情であかりに声をかけてきた。
「あかり、夕食ができたから、リビングまで行きましょう」
「うん」
あかりがてらいもなくそう答えると、春斗の母親はきゅっと目を細めて頬に手を当てた。
「あら、今は本当にあかりなのね」
「お母さん、どっちも私だよ」
「そうだったわね」
吹っ切れたような言葉とともに、春斗の母親はまっすぐにあかりを見つめる。
「あかり、まずは、リビングまで行きましょう。春斗、手伝ってくれる?」
「ああ」
目をぱちくりと瞬いたあかりをよそに、春斗はあかりを抱きかかえると、そのまま春斗の母親のもとへと歩いていった。
春斗の母親も頬をゆるめて、ゆっくりとあかりの方へと歩み寄り、お互いの距離を縮める。
そして、二人に支えられながら、あかりは夕食を食べるため、リビングへと向かったのだった。
「あれ…‥…‥?」
春斗は春斗の母親とともに、あかりをリビングのソファーに降ろすと、真っ先に疑問に思ったことを口にした。
「優香、今日は、家で一緒に夕食を食べるんだな」
エプロン姿で、夕食の料理をいそいそと並べている優香の姿を目の当たりにして、春斗は知らずそうつぶやいていた。
「はい。今日は、お父さんとお母さんの帰りが遅いみたいなんです」
「そうなんだな」
静かにーーそして、どこか悲しそうにつぶやいた優香の言葉に、春斗はわずかに目を見開いた後、神妙な表情で言う。
優香の両親は共働きをしているため、仕事で両親の帰りが遅い時は、親戚の春斗の家で、優香は一緒に夕食をとるようにしていた。
「春斗さん、あかりさん、見て下さい。ラビラビさんのオムライスです」
優香はオムライスを掲げると、誇らしげに笑みを浮かべてみせた。
「今日は、ラビラビのオムライスがあるんだな」
「ラビラビさんのオムライス、可愛いね」
「あかりさん、そうですよね。ラビラビさんのオムライスは可愛いです」
呆れた大胆さに嘆息する春斗をよそに、あかりと優香はラビラビのオムライスを見つめて歓声を上げる。
テーブルには、所狭しと夕食の料理が置かれていた。
スープにサラダ。麦茶が入ったポットとコップ。そして、メインディッシュとして、ラビラビのオムライスが置かれてある。
だが、メインデニッシュとはいっても、普通のオムライスに、ケチャップでラビラビのイラストを描いたものだ。
何でも、優香が夕食を食べに来ることを知った春斗の母親が、慌てて作ったものらしい。
春斗は優香を横目に見ながら、少し照れくさそうに頬を撫でる。
「優香、明日から大会まで、いろいろと大変かもしれないけれどよろしくな」
「はい。春斗さん、よろしくお願いします」
いつもどおりの優香の反応に、春斗はほっと安心したように、優しげに目を細めて優香を見遣る。
そんな中、あかりは膝の上に置いた手を握りしめると、うずうずとした顔で春斗に声をかけた。
「ねえ、お兄ちゃん。明日から、私が宮迫さんに変わるまで、私と優香さんの二人とお兄ちゃんで、二対一の対戦をしたらどうかな?」
「ちょ、ちょっと待て!なんで、そうなるんだ?」
何気ない口調で告げられたあかりの言葉に、春斗は頭を抱えたくなった。
「だって、お兄ちゃん達、すごく強いから、私一人じゃ、お兄ちゃん達に勝てないもの」
春斗に指摘されて、あかりは俯くと不満そうに頬を膨らませてみせる。
「お願い、お兄ちゃん。宮迫さんに変わるまで、私もお兄ちゃん達の特訓のお手伝いをしたいの」
「はあっ…‥…‥」
あかりの懇願に、春斗はしばらく考えた後、俯いていた顔を上げるとあかりに言った。
「…‥…‥分かった」
その言葉に、あかりは驚いたように目を見開いてこちらを見た。
春斗はあかりの手を取ると、淡々としかし、はっきりと言葉を続ける。
「だけど、絶対に無理はするな。宮迫さんの時もだけど、あかりの体調が無理だと判断した時点で、俺達はすぐに病院に行くからな」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
苦虫を噛み潰したような顔でしぶしぶ応じる春斗に、あかりはきょとんとしてから弾けるように手を合わせて笑った。
そんな二人の様子を、しばらく見守っていた優香は穏やかな口調でこう言った。
「春斗さん、あかりさん、相変わらずですね」
「優香」
「優香さん」
呆気に取られる二人をよそに、優香は噛みしめるようにくすくすと笑うと、付け加えるようにとつとつと語る。
「私は、春斗さんとあかりさん、そして、宮迫さんと一緒なら、きっとどんな夢でも実現できると信じています」
「ああ。一緒に実現しような」
「はい」
春斗の言葉にそう答えた優香の笑顔は、野原に咲くリナリアの花のように、いつもより眩しく見えた。




