ある自画像の話
高校にはアリバイ作りの為に通っていた。
一応は学校に行っていないと、世間的には少数派に分類されてしまうので、その後の人生において不利になる可能性があったからだ。
いわゆるDQN達は、“不良”であることそれ自体が、立派にアリバイのようなものだったので、おそらくは中退しようが落第しようが関係ないのだろうが、俺のように比較的『おとなしい』『真面目な』、そしてこれといって目立った取り柄のない人間が学校に通わないとなると、それは不登校とか引きこもりとかのレッテルを張られても仕方がない行為に当たるので、それで仕方なく学校に通っているのだ。
ミュージシャンとしての才能があるとか、ずば抜けて運動能力が高いとか、なにかそういう大義名分があれば、堂々と高校なんかやめてやるのに。
そんなことを考えても虚しくなるだけなので、今日も俺は平均的な成績の学生として、それなりの真面目さで、昼休みを過ごしていた。
午後の授業科目は美術ということになっていた。
音楽の授業で笛を吹かされるよりはマシかなと思って、消去法で選択した科目だった。
しかし、これが結構面白かった。
今月から皆、自画像を描かされているのだが、周囲が苦戦して、てんでトンチンカンな絵を描いている中、俺の絵は今の所、自分でも意外なほど上手くいっていた。
こういう系の授業で教師に褒められたのは初めてのことだった。
まあ、実際のところは、教師が何気なく出した自画像という課題の『地雷性』と、思春期特有の自意識過剰さとが相乗して、生徒の大半が真面目にやらない中、他の授業と同様に淡々と、それなりの真面目さで描いている俺の絵が、相対的に上手くいっているだけに過ぎなかった。
そのことを自覚していながらも、尚俺は、このところ美術の授業が楽しみになってきていた。
それで俺は今日、よせばいいのに柄にもなく、昼休みの半ばから一番乗りするつもりで美術室にやってきたのだった。
結論から言えば、一番乗りではなかった。
教室には既に美術の元川先生が来ていたのだ。
「あれ、大井君、もう来たのかい。さすが、やる気満々だねぇ」
「あはは。……先生こそ、今日は早いですね」
いつも授業開始ギリギリか、ちょっと遅れ気味に教室に来ることが多い先生が、何やらもう作業を始めているようなので、俺は少し意外に思った。
「何をしていらっしゃるんですか?」
「いやね、次の授業で君たちに、卒業生の置いて行った絵をお手本として見せてあげようと思ってさ。倉庫から何点か引っ張り出してきたところなんだ」
「お手本ですか」
「ああ。美術部のOB達が、描いたはいいけど、もって帰るのが面倒で置いて行ったような作品が、向こうにたくさん埋もれていてね。その中でも出来のいい奴をチョイスしたんだよ」
元川先生は定年を迎える直前のベテラン教員であらせられ、長年あちこちの学校で教師を務めていたが、教員として最後の1年を、最初に赴任したこの学校で過ごしたいという希望が叶い、非常勤で我々に美術を教えているのだ。
変わったところがあるが、結構いい先生だと思う。
「ちょうどいいや。暇なら、ちょっとそこの辺りに絵を並べるのを手伝ってよ。レイアウトは君のセンスに任せるから」
「え、任せるといわれましても。……この三脚みたいなやつに立てかければいいんですか?」
「三脚?……ああ、それはイーゼルというんだよ。画架ともいうがね」
「へぇ。見たことはあるけど名称は初めて知りました」
「まあ、授業じゃ普通、油絵は扱わないもんなぁ。授業用のスケッチブックは薄いから、こいつで固定するにはあまり向かないし……」
「へえ、絵を置くだけじゃなくて固定できるんですか?」
「絵をかいてる時にふらふらとキャンバスが動くんじゃあ話にならないだろ。外で描くときなんか、風が吹いたらキャンバスが落っこちかねないし。……もっとも、風がひどいとイーゼルごと吹っ飛ぶ時もあるが」
「そういう時はどうするんですか?」
そんな話をしながら、俺は先生からイーゼルの扱いについてかるく教わると、彼が倉庫から持ってきた絵を受け取っては、それを適当に並べていくという作業をした。
程なくしてその単純な仕事は終わった。
一息つくと、俺は自分が絵を並べている間、その内容をほとんど意識していなかったことに気が付いた。ただ機械的に、絵を並べることしか考えていなかったのだ。
そこで、今度は意識的に、目の前に並べられた絵を見渡してみた。
すると、その中の一枚に目がとまった。
「あれ、この絵……なんかすごく……」
素人で門外漢の俺には、正確な絵の『良し悪し』なんてものは分からなかった。
しかし、それでも俺は、その一枚の画だけは理屈抜きに、他と比べて格段に上手いと思った。
いや、上手いばかりではない。俺は何となくその絵に、心惹かれていた。そう言ってしまってもいいような気がした。
俺の目の前に並べられているのは、その全てが人物画だった。まあ、自画像を描いている生徒達に手本として見せる為のものだから、当然と言えば当然か。
しかし、一口に人物画といっても、それらは構図や色調など、全てが一様ではない、個性的な作品ばかりであった。
鉛筆だけで描かれたものや、水彩で着色されているものが混在しており、中には油彩らしきものも何点かあった。
それらの絵の内の、とある一枚に、俺は不意に心を奪われてしまったのだった。
それは、なんとも言えない、気怠い雰囲気の画であった。
どうやら女生徒であるらしい、長い黒髪の人物の姿が、そこに描かれていた。
パッと見の印象としては、あまり色彩豊かではない、どちらかというと暗い絵だと思った。しかし、どことなく郷愁を感じさせるような、心を揺さぶるものを感じた。
わずかに赤みがかった、黒いぼやっとした線で、髪の質感や陰影が表現されている。
その絵は、この学校の制服を着て、背筋を伸ばして椅子に座っている女生徒らしき人物の姿を描いたものであった。
「……先生、この絵は……」
「……。……ああ、これか。……これはだね、」
その絵を見た俺の、少し大げさなほどの反応に気が付いた先生が、そうして何か言いかけた時、
キーン、コーン---
と、昼休み終了の鐘が鳴った。あと五分で午後の授業が始まるらしい。
「……まあ、これについて話すと少々長くなるから、放課後になってもまだ興味があったなら、その時は聴きに来るといい。話してあげよう。この絵についてね。……まあ、その場合、今度は君に、並べた絵の片付けを手伝ってもらうことになるがね」
先生はそう言って冗談ぽく笑うと、この話をあっさりと切り上げてしまった。
やがて、美術室に他の生徒達も続々と集まりだしたので、それでこの話は、ひとまず打ち止めになったのだった。
美術の授業の間、俺は何度か自分の絵を描く手を止めて、あの絵を見ていたが、俺の他には、その絵に特別注目している生徒はいないようだった。
放課後、俺は真っ直ぐに美術室へと向かった。
とはいえ、さほど熱心な気構えで、というわけではなかった筈だ。
これでもホームルームの間は、本当に行くかどうかを迷っていたのだ。
実際、あんな絵のことは忘れて、とっとと家に帰ってもよさそうな気はした。
だが結局、あの画がどういうものなのかを知りたいという好奇心が、ほんの少しだけ勝ったというだけの話だ。
よって俺は、並べられた画とイーゼルの片付けを手伝わされるのも覚悟の上で、元川先生の所を訊ねたのだった。
「なんだ、本当に来たのか。……君がそんなに熱心な生徒だったとはね……」
美術室を訊ねるなり元川先生がそう言って苦笑したものだから、俺はこのまま誤魔化され、話を有耶無耶にされないか心配になった。
だが、先生はすぐに、
「……冗談だよ。約束通り、あの絵について話してあげよう。…おっと、その前に、そこに3つばかり残っているイーゼルを、こっちの倉庫まで運ぶのを手伝ってくれるかな?」
といって、また笑い出したので、どうやらあの絵の由来のような話は聴かせてもらえるらしかった。
ニスや絵具のにおいがする美術準備室の倉庫の片隅にイーゼルを片付け終えると、先生はその近くの棚を、何やらごそごそと漁り始めた。
「ええと、あれ、さっきはたしかここいらに置いたと思うんだが……ああ、あったあった。これだ」
先生がそう言って棚から引っ張り出してきたのは、俺が興味を持ったあの絵だった。
長い黒髪の人物画。
その絵は暗い色調ではあるが、誤魔化しのない力強さを感じさせるタッチで描かれている。
改めてじっくりと眺めてみると、その絵ははじめに観た際の印象よりも、一層異彩を放って見えた。
「君がただならない興味を持ったとみえるこの絵は、……昔この学校にいた生徒が描いた、自画像なんだ。私が最初にこの学校に赴任した頃のことだから、もう30年以上も昔のことだな」
「ああ、やっぱり自画像でしたか」
「わかるのかね」
「ああ、いえ、なんとなくですがそんな気がしたんです。こういう顔の人なら、こういう絵を描きそうだなって」
「ほう。“顔”かね。……けっこうな美人だとは思うがね」
「……」
確かに、そこに描かれている彼女は、美人だと思った。
正直、俺は絵の良し悪し云々よりも、この描かれた作者に興味を持ったのかも知れなかった。
先生は言った。
「……私も絵描きの端くれだから、この絵について細かいことを言おうと思えば、いくつかの難点はあがるんだ。だけど、その分を減点したとしても、この絵は間違いなく上手いよ。相当に上手いし、それでいて、いい絵だ」
「はい。上手な絵だと思います。……でも先生、素人の俺がこういっては変ですけど、俺にはこの絵が、上手いとか下手とか、そういうことに関係のないところで、特別な絵に思えるんです」
「……ほう、そうかね?」
「はい。この絵って、別に写真のように精巧という訳ではないし、色彩なんかは割と嘘っぽいというか、結構アートしちゃってますよね。でも、その辺が逆に、作り物っぽくないリアルさをだしてるというか……。まるで、絵の中の彼女の息づかいすら感じられるみたいな」
「ほう、面白い批評だね。自画像の息づかい、か」
「…………先生、彼女は一体、どんな生徒だったんですか?」
俺は思い切って先生に訊ねた。
すると先生はこう答えたのだった。
「この生徒は、……彼女はいつも、学校から逃れようとしていた。丁度、若い時分の私のように。……そしておそらく、今の君のように」
しばしの間、俺と先生との間には、沈黙が流れた。
やがて、先生はこの絵が描かれたころにこの学校で起きた、とある出来事について語り始めたのだった。
「---私は、美術教員としてこの学校に赴任した頃、複雑な心境だった。……というのも、私は画家になりたかったんだ。美大を出て3年ほど粘ってみたりもした。だが、なりたくてもなれるものじゃないから、諦めてこの仕事を始めたんだ。最近ではこの仕事も、悪くはないと思えるようになってきたところだがね」
そういって先生は笑ったが、俺は笑わなかった。何となく、笑ってはいけない気がしたのだ。
「そんな折、私は面白い絵を描く生徒に出会った。……それが、この絵の中の、彼女だった」
「この絵の中の……?」
俺がその表現に引っ掛かって口を挟みかけたが、先生は話を続けた。
「……私は、それなりに絵を描いてきた経歴を買われて、美術部の顧問をやらされていた。……今でこそ、この学校の美術部は、漫画研究部ともイラストレーション部とも区別のつかないことをやっているが、---それはそれで時代の流れだし、結構だとも思うんだが---当時の美術部部員には、本格的に絵を描きたい、という生徒が多かったんだ。だから、油彩についてひと通りのことを教えられる私は、なんとなく居場所を得た、というかんじだった」
「“居場所”、ですか」
「ああ。“アリバイ”と言ってもいい。大学を出てからしばらくの間、先の見えない宙ぶらりんの生活をしていた私にとって、教師として得たこの居場所は、『自分が何者なのか』を他人に問われた際に提示する為の“アリバイ”として機能した。そう思うことで、なんとなく安心できたんだ」
「……“アリバイ”」
俺は、先生が自分と似たようなことを考えていたことに驚いた。そして、なんとなく安堵したのだった。
「そんなお世辞にも模範的とは言えない新任教師だった私が、美術部の活動中に、彼女の描く絵を初めてみた時の高揚感---。あれはもう、感動したといっても大げさでは無いくらいだった」
「---そんなにすごい絵だったんですか?」
「ああ。未熟な部分もあったが、言うなれば、大いなる可能性を感じた。……たしかに技術的にも、高校生にしては上手かったのだが、---彼女の絵は、上手いとか下手とか、そういうことに関係の無い次元で、とにかく『この絵には何かがある』と思わせるような、そういう絵だったんだ。こういうのを才能というのだろうと、当時の私は思った」
「……才能、ですか」
「ああ。僕などが努力しても、ああいう絵は一生描けないだろうと、痛感させられた。それで当時の私は、すっかりと自分が、『いつか絵描きになる』という夢を諦めてしまったんだ」
相変わらず、本気なのか冗談なのかわからない調子で、先生は笑いながら、そんなことを話す。だが俺はやはり、それに合わせて笑うことが出来なかった。
「そのかわり私は、彼女の才能を伸ばそうと考えたのさ。……今思えばあれも、自分の夢を他人に押しつけて叶えさせようという、不毛な代償行為でしかなかったのかもしれない。でも、当時の私は、彼女の才能を開花させるのが、自分の教師としての使命であるというような、馬鹿げた情熱に支配されてしまっていたんだ。今思えば若気の至りだったね」
「……それで、彼女は先生から絵を教わり始めたんですね」
「ああ。幸か不幸か、彼女もかなり熱心に絵に取り組んでいたので、私の情熱は、ひとまず上滑りをせずに済んだ。彼女は私の助言をみるみるうちに吸収し、自分のものにしていった。私は自分の持てる技巧のすべてを、彼女に余さず伝えようとした。---そしてそれは、ある程度うまくいった」
“ある程度”という引っ掛かる言い方を先生がしたので、俺は話の続きが尚のこと気になった。
「それで、その生徒は、……彼女の絵は、大成したんですか?コンクールに入賞したとか、美大に進んだりとか……」
先走った俺のその質問は、しかし、かなり上滑りすることとなった。
「いいや、彼女はある日、絵を描くのをやめてしまったんだ。まだまだ伸びしろがあったのにもかかわらずね。……そして、彼女は卒業を待たずに、この学校を去ってしまったんだ」
「え……」
意外な話の展開に、俺はそれ以上の言葉をとっさに紡げなかった。
「何故、彼女は去ってしまったのか。今となっては誰にもわからない。私にできるのは、せいぜい残されたこの絵から、勝手な推察を述べること程度さ」
「“勝手な推察”、ですか」
大きな才能を持っていながら、描くことをやめてしまった女生徒。はるか昔にこの学校を去った人物のその胸中など、残された一枚の自画像を見た程度の俺には到底計り知れない。
だが、当時彼女に直接絵を教えていた元川先生ならば、彼女の心境の、真実に近い部分にまで迫ることが、或いはできるのかもしれないと俺は思った。
先生にも、どうやらその自負があるらしく、“勝手な推察”などと一応断ってはいるのもの、紛れもない事実としての彼女の物語を、俺に聞かせようとしているようであった。
「まず、彼女がこの学校を去った当日の出来事から話すとしよう。……ちょうど季節は今と同じ6月末頃、もうじき梅雨があけ、夏が来る、という時期だった。その日の放課後も、彼女はいつも通り、熱心に絵を描いていた。私は部活動の開始時に、当時の部員達それぞれに2,3の簡単なアドバイスをして、後は好きに描かせることにしていた」
「開始時に指導するだけ、ですか?」
「ああ。技巧や道具の使い方に関してはアドバイスできても、結局絵を描くのは生徒自身だからね」
「はあ、なるほど」
確かに、そのとおりだと思った。いくら教師が的確にアドバイスしようとも、絵を描く生徒自身が真剣に取り組んでいなくては、いい絵ができるはずもない。
「その点、彼女は完璧だった。アドバイスの内容をきちんと理解し、着実に、時にはそれ以上の完成度で、絵を描き進めていった」
「そうですか……」
それほど熱心に絵を描いていた人物が、急に絵をやめてしまうとは、いったいどういう訳だったのだろうか。
「……その日、この絵は完成目前だった。だが部活動終了の時刻になり、ほかの生徒が帰ってからも、彼女はこれを、もうひとつのところで描き切ることが出来ないでいたんだ。それで彼女は、どうしても今日のうちに絵を完成させたいからと、もう少しだけ美術室に残って絵を描きたいと願い出てきたんだ。……私は、私が職員室で事務を片付けている間に限って、という条件つきでそれを許可した。……もちろん、彼女の親御さんにも、娘さんの帰りが遅くなるという連絡を入れておいた」
「それじゃあ、彼女は下校時刻後の校舎内で、一人で絵を描いていたんですね」
「ああ。……そして、もし私の仕事が終わるまでに絵を描き終えたのなら、職員室に寄ってから帰るように言っておいた。もともとその日、私は職員室でたまった雑務を片付けていく予定だったからね」
元川先生は、そこまで話したのちに、ややうつむき加減になった。
その後、再び顔を上げた先生の顔は、先程と比べてやや暗い表情をしているように、俺には思えた。
「……想えば、絵を描く彼女の姿を見たのは、あの時が最後だった。俺はあの時、彼女を美術室に一人で置いておくべきではなかったのかもしれない。……いや、あの日すぐに彼女を家に帰していたところで、いつかは同じ結果が待っていたのかもしれないが……」
「……どういうことですか?彼女は、まさか……」
俺はその先の展開にうすうす勘付いてはいたが、それを確かめたいという欲求から、先生の気持ちを鑑みずに、話の続きを促していた。
「……私は1時間ほどで仕事に区切りをつけることにした。完全に片付いたわけではなかったが、残りは翌日以降に片付ければいいと思った。……それで、今度こそは彼女を家に帰し、ついでに戸締りをするために、美術室に向かった」
「……」
俺は、自身の予想した結末に身をこわばらせながら、先生の言葉を待った。
「美術室の明かりは、灯ったままだった。私はそこの引き戸をノックして『おーい、今日はもうおしまいだ。帰りなさい』というようなことを言って、この美術室に入った。すると―――」
「……」
ゴクリ。
自分が唾を飲み込む音が、緊張のあまり、わざとらしく感じられるほどに大きくなってしまったが、しかしこの緊張は本物であった。
先生は言った。
「---そこに、彼女の姿は、無かった」
「…………」
「……はじめは、トイレにでも行っているのかもしれないと思い、私は教室内の片づけをしながら、待つことにした。だが、20分が経ち、更にもう10分が経っても、一向に彼女が戻ってくる気配は無かった」
「……」
どうやら、俺の予想通りの展開にはならないらしい。
俺はてっきり、彼女がこの部屋で自殺でもしていたのかと思っていた。
安直にそんな発想をしたあたり、テレビの観すぎなのかもしれない。加えて、このことを語る先生のただならない真剣な表情が、そういう不吉なことを連想させたのだから、仕方がないだろう。
しかし、当初の予想が裏切られたとはいえ、この話は俺にとって尚も、……否、ひょっとするとこれまで以上に、聴くに値する興味深い話であるようだった。
美術室から、突如消えた女生徒。
彼女は一体、どこに行ってしまったというのか?
先生は語り続けた。
「私は最初、彼女が片付けもせずに、さっさと帰ってしまったのだと思った。だから、職員用の玄関に居た事務員さんに、女生徒が帰らなかったかどうかを訊いてみた。生徒用の昇降口は下校時刻を過ぎたら施錠してしまうから、彼女がもう帰ったのだとしたら、必ずそこを通ったはずだからね。だが、事務員は彼女の姿を見なかったと答えた。その事務員さんには、あらかじめ彼女が残って絵を描いていることを伝えておいたし、彼はまじめな男だったから、持ち場を離れたりはしなかった筈なのにね」
「……じゃあ、やっぱり学校内にいた訳ですか?」
「理屈の上では、そうなるね。……だから、私はその時点で、まだ残っていた職員数名に、思い切って事情を説明し、全員で手分けして校内を探し回ってもらうことにしたんだ」
「……なんだか、大ごとになっちゃいましたね」
俺が思わずそのように間の抜けたことを言ったものだから、先生はそこで、フッと表情を緩めた。
まあ、この先も先生の表情は、だんだんとこわばっていく一方であろうことが目に見えていたわけだから、かえって丁度良かったのかもしれない。
先生は、やや肩の力が抜けた状態で、話を続けた。
「結局、その晩彼女はどこを探しても見つからなかった。……もちろん、警察沙汰になった。関係者で校舎内外を探し回ったし、私は警官にも教頭にも再三事情を説明する羽目になった」
「…………」
再び、俺は何も言えなくなった。
先生はそれに気づいてか、逆に無理にでも、口元に笑顔を浮かべようとしているようだった。
不器用なやりとりを交えながら、ある自画像の物語は、いよいよ佳境へと差し掛かった。
「それからの一週間は、それこそもう、大ごとだった。私は事情聴取まで受けたし、そのことで教師としての立場も、一時は危うくなった。……ただ、そんな風に四方八方から攻撃される最悪の日々の中で、不可解なまでに静かな一角があった。……それは彼女の両親だった。まったくどういう訳か、彼女の両親はこの件に関して、そっけない淡白な反応しか示さなかったんだ。自分らの娘が行方不明になったというのにね」
「え、……それは、どういう……?」
俺はその点にいささかの不穏な気配を感じ取った。
「……うーん、ハッキリとはわからない。ただ、当時の私としては、私の首を飛ばすことに一番熱心になりそうな勢力が包囲網に参戦してこなかったことにかなり拍子抜けした反面、正直、安堵していた」
「全く何も言ってこなかったんですか?」
「ああ。それどころか、事情を説明しようと思って、彼女が消えた翌日にこちらから訊ねて行った時も、まるでそっけない対応だった。自分達の娘のことだというのに、まるで関心が無いというような……。……そう言えば、彼女が絵を描いていることすら、私が話すまで両親は知らなかったようだ」
「……」
それは妙だ、と俺は思った。
「ひょっとしたら、複雑な家庭事情があったのかもしれないね。例えば彼女がどちらかの連れ子だったとか、さ。……まあ、何にしても私は、そのいい加減な両親のおかげで、あまり痛い追及を受けることなく済んだわけで、だからこそ教師としての道を閉ざされずに済んだ、ともいえそうなわけなんだ」
「はあ……」
俺はここで、何か少しでも気の利いたことを言いたいと思ったけど、やっぱり何も言えなかった。だから、代りに相槌とも唸り声ともため息ともつかない声を一つ出した。それで精一杯だったのだ。
しかし、そんな間抜けな一声すらも出せなくなるような、さらに奇妙な話がこの後語られようとは、俺は思いもしなかった。
「……さて、結局のところ、消えた彼女の行方についてはただ一つの手がかりすらも見つからないままに、一週間が過ぎた。だが、同時に学校周辺で不審者が目撃されたというようなこともなかったし、加えて彼女の両親も全然騒がない訳だから、結局この事件は、再発防止の警戒態勢を取る意味が薄いと結論付けられた。そんなわけだから彼女が消えてからわずか一週間後には、放課後の部活動も解禁されたんだ」
そこで先生は、何かにはっとしたように顔を上げ、一旦言葉を切った。
「……どうかしたんですか?」
そのことに対し俺は訊ねたが、先生は、「いや、いいんだ」と言って話を続けた。
「……今思えば、この“一週間”という期間も、出来過ぎている気がするんだが……まあ、とにかく私はその日の朝、美術部の活動再開に向けて、今一度この美術室の点検を行おうと思い、朝一でここを訪れた。……そこで私は、突如、彼女の姿を見つけたんだ」
「……ええ?!」
一瞬、訳が分からなかった。
でも、すぐにその言葉の意味する所が分かって、俺はこう言った。
「……ああ、この絵のことですよね?!ビックリした」
「……そう、絵だよ。彼女の自画像だ」
そう言ってまた、先生は口元だけで笑った。
……しかし俺は、その笑みの質が、今までのそれと少し違うように感じた。
「……私はその日の朝、彼女が消えた時からイーゼルに固定されたままだった、この自画像を見た瞬間に、全てを理解したんだ」
「……」
俺はこの時、なんだかこのまま話を聞くのはヤバい、というような気がしていた。聞いたら後に引けなくなるような、妙な予感……。だが、俺自身の好奇心が、退却を許してくれない。
「……大井君、真剣に自画像を描くってことはね、ある種の人間にとっては非常に危険な行為なんだよ」
「……」
「モデルとしての、鏡の中の自分と向き合う。この行為によって人は、嫌が応にも内省的な思索に耽ることになってしまうんだ」
「……」
「いま、真剣に自画像に取り組んでいる君ならば、私の言っていることが少しはわかるだろう?……彼女はおそらく、絵を仕上げていたあの日、そういう領域の最端に達したんだ。---そこは言うなれば、自他の境界すらもみとめない、客観視の極地にして、よりどころの無い空虚な自我を晒す場所。そんな領域に、鋭い感性を持った彼女のような人間が到達し、常人の何十倍もの深さで潜ったのだとすれば……」
「……」
その話、止めて下さい。
俺はそう言おうと思ったが、言えなかった。
「窮屈な学校をさっさと去りたいとか、無理解な大人たちから逃げ出したいとか……」
「……やめて、下さい……」
「自分が何者なのかを模索し、“アリバイ”を求めて手探りで進んでいく孤独とか……」
「……やめて下さい」
「自身の才能に対する仄かな期待とか、それを信じきれないが故の不安とか、……絵を描いているわずかの間にさえ変化していく、自分自身の在り方への不安とか……そういうまとまりのない思念に、自己が絡め取られて、霧散していくわけだ」
「やめてください!」
とうとう、耐えかねて俺は叫んでいた。
そうだ。俺は、その苦しみを、わずかながらも知っている。
そして俺にとっての救いは、幸いにして、この感覚が適度に鈍いことなのだ。
だが、そういう曖昧なものを見出し、色として描き出すことができるほどに鋭い、天性の感覚を持つ彼女のような者が、そこに至った場合には……。
どうなるのか考えたくもないと、俺は思った。
先生は話を続けた。
「……彼女は、この自画像を描きながら、おそらく私や君とは比べ物にならないレベルで、絶えずあの感覚の世界を味わっていたのだ。にもかかわらず、彼女はこれを描くことをやめなかった。……よく、鋭い人間ほど、自身を追いつめやすいとはいうが……。だからこそなのだろう、彼女には結局、こうなるより他に道はなかったんだ」
そう言って先生は、再び絵の方へと視線を移すと、その中の彼女に向かってこう言ったのだった。
「そうなんだろ?だから君は、そっちに行ってしまったんだよな」
絵の中の彼女は、少し笑っているように見えた。
終