真っ赤に重なった。
五時間目。
玲央は静かに図工の授業を受けていた。
自画像の版画は全く進んでいない。新品の彫刻刀を手にすると、心臓がドキドキして、何度となく、手のひらや 腕の内側に押し付けてしまうのだ。
でも今まで学校では どこかを切ったり、傷付けたりなどはしていなかった。
クラスの頂点だったプライドが、今でも自分を慕ってくれる何人かの友達が、玲央の最後の一点を支えてくれていた。
学校では 普通の女の子でいたい。
虐待なんかされてない。
お母さんに無視なんかされてない。
職員室前に貼ってある虐待のポスターからは目を逸らしたし、時々配られる 子供110番のカードは真っ先に棄てた。
私はかわいそうなんかじゃないから。
だから、萌が大嫌い。
私を、かわいそう、って目つきで見てくる。
私の一番知られたくない秘密を探ろうとしてくる。
なにより 幸せそうだから嫌い。
自信がありそうで、ニコニコしてるのが嫌だ。
前に参観日の時なんか、お母さんの腕なんか組んじゃって 甘ったれだと思う。どうせ、お母さんがいなきゃ、なんにもできないくせに。
萌のお母さんだって、暇だから参観日とか学級レクとかいっつも来てて、なんかやだ。
いっつも家にいる暇人って感じ。
うちのママみたいに 外でバリバリ働いているママの方が、ずっとずっとカッコいい。
いつも しっかりお化粧してて、うちのママの方が……
ママの顔が心に浮かんだ途端、胸がザワザワし始めた。どうしよう ザワザワが、全身に広がっていく。
肩のあたりから、生ぬるいスライムが這ってくるようだ。
なにげなく腕に押し付けていた彫刻刀を握った手のひらが汗ばんだ。
汗が出るのに、背中から、ザワザワ寒くなる。
優しかった昔のママのことを思い出した。
あの男をお父さんって呼びなさいって言い出す前のママ。
いつも私の隣で眠ってくれていたママ。
視界がぼやけてきた。
ぼやけた視界の端が赤い。
優しかった昔のママのことだけ思い出していたいのに、あの男といるママが どんどん浮かんでくる。
私のお気に入りのTシャツがあの男に引っ張られて破れた時、家にいなかったママ。
あの男と一緒にお風呂に入ればと言ったママ。
夜勤に行かないでと泣いた私を玄関で突き飛ばしたママ。
ヌルヌルのスライムが足元からも纏わりついてくる。
何も考えられなくなった玲央が、左腕に押し付けていた彫刻刀を滑らせる。
どこかで悲鳴が聞こえたが、関係ない。
息がうまく出来ないし、もう、本当に死ぬんだ。
やっと。
やっと。ってそう思ったのに、後ろから肩を掴まれた。萌だ。
「何やってんの!」
萌が叫ぶと同時に、玲央は彫刻刀を握ったまま右手を萌に向かって振り払った。
萌の顎に刃が当たった。
自分の肌とは違う、他人のからだの、やわらかい手応え。
玲央も萌も、版画も床も、真っ赤に重なった。




