真っ赤な彫刻刀
長い長い、夏休みが明けた。
我が家の中は相変わらずなのに、朝の風は少しずつ冷たくなり、夜には秋の虫が鳴き始めていた。
まさか 夏休み明けまで学校に通うとは思っていなかったが、私も萌も、それを言葉にはしなかった。もう、現実に疲れきってしまっていたが、開き直って笑える程には割り切れていない。迷いこんだ先で、途方に暮れているのだ。
二学期というのは 一番長い学期であり、その分 やることや行事が詰め込まれている。
学校に行くと すぐにやるべきことが山積みに用意されていた。
そんな忙しい毎日が過ぎる中、諦めの先に、その時はやってきたのだった。
その日は 午後の二時間が図工で、子供たちは午前中さえ乗り切れば 給食と図工のみとなり、気持ちは浮き足立っていた。
今取りかかっているのは版画である。
各家庭から持参した手鏡で自画像を描き、彫刻刀で彫るのである。
「絶対に、ふざけないこと!」
担任は神経質に 教室を歩き回り、危なげな持ち方をした子はいないか、遊んでいる子はいないか、監視を続けていた。
今時は 授業で怪我などすれば 保護者になんと言われるか、教師もビクビクしているのである。
懐かしいな。
私も小学生の頃、版画をやった。
隣の席の子と向かい合って、お互いの似顔絵を描いて彫った。吉田くんて男の子。
何年生の時だろう?
玲央は新学期から学校に来ていたが、人が変わったように静かで、萌に攻撃してくることもなかった。
家で焦っている萌には申し訳ないが、正直言って、小学生は楽しかった。
11歳って本当に素晴らしい。
まず1日が長い。
30歳を過ぎてから どんどん早くなった主婦の毎日に比べて、朝起きてから、夜眠るまで、たくさんの時間があり、たくさんのことができる。
体も軽い。
鉄棒で何度も何度も気が済むまで回った。
跳び箱で何段跳べるかチャレンジし、20年前に習ったはずの漢字をおさらいし、ドキドキしながらテストを受けた。
若いっていいなぁ。
そして、もれなくこの版画も楽しい。
大人なんだし、小学生には負けないと意気込んで自画像を描いた。彫刻刀の使い方だって、周りより上手なはず。
活き活きと版画に励む私のその耳に、突然、クラスの女子の悲鳴が刺さり込んできた。
玲央の周りの子たちが、立ち上がって騒いでいる。
「何やってんだ おまえ!」
男子が大声で言った。
何が起こったのか見えない私は立ち上がり、玲央の席へ駆けつけた。
手元を覗き込んだ瞬間、心臓がドンッと縮んだ。
息が苦しい。
口が渇いて言葉が出ない。
玲央の手元は血まみれだった。
玲央の左の腕には、小さな傷が無数にあり、二の腕の内側はかなり深く長く、切りつけられている。
彫刻刀で彫られた版画の溝を 玲央の血液が流れていった。




