藍色の空、弓張り月
ドアの向こうで、萌が泣いている。
『ママの…』
萌が涙と一緒に、声を絞り出す。
『ママの嘘つき!』
『萌…』
私は、ドアにへばりついて、でも、それ以上の言葉が出てこない。
それとは対照的に、萌の口からは、ダムが崩壊したように、萌の心の中に溜まっていた、どす黒い、鋭利な言葉が溢れ出す。
『ママは、萌より玲央が大事なんでしょ!?』
『玲央が心配なんだよね!萌より!!』
そんな訳ない、違う。
絶対違う。
でも、ここ最近、玲央の心配ばかりしていたのは事実で、言い返すことができなかった。
そのことが萌を傷つけるとまで、考えが及ばなかった。
萌の笑顔に、安心しきって、甘えていたのだった。
『萌…玲央に、いじめられてたんだよ!?ずっとずっと、いじめられてたんだよ!?だから彩芽にも、無視されるようになったし、クラスのみんなから、外されてたんだよ!ずっと1人でいたんだよ?ママ、何にも、わかってくれてないっ!』
萌が息つく間もないくらいに、まくしたてる。
『毎日毎日、靴に手紙…死ねとか、キモイとか書いた手紙!入ってたしっ!靴っ!一回トイレに捨てられて!でもママに言えないからっ!萌1人で学校の水道で洗ったんだからね!?汚い靴っ!みんなから、ジロジロ見られて恥ずかしかったっ!いっつも!!恥ずかしくてっ!!』
『絶対萌の味方なんて、嘘つきっ!!』
萌、違う!口を開こうとするが、それより速い萌の言葉が止まらない。
『それにっ!萌のマイメロの巾着!無くなったでしょ!?ママそれも気付いてないよねっ!?バカじゃないの!?なんも、萌のこと、見てないじゃん!!放課後、玲央が、みんなを集めて、順番に、蹴ったり!踏んだり、させたんだよ!彩芽も、苺も、愛梨も、珠理も、桜も真央も朋夏も仁子もっ!みんなに踏まれて…詩織なんか喜んで…掃除用具入れからゴミいっぱいついたほうき持ってきて、巾着ぐいぐいやって…そしたら玲央とか美雨、超笑ってて…』
踏み絵かよ。
涙で、萌の言葉が詰まる。
私も、憤りと涙で苦しかった。
『あと…』
萌は、鼻声で、それでも続けた。
『萌が、机に落書きされた時… 放課後男子たちが、残ってキレイに拭いてくれたみたいで…
そしたら、次の日から男好きって言われるようになって…』
鼻をすする音がする。
『萌が、男子の前では、態度違うとか、男子ばっかり見てるとかっ、調子乗ってんじゃねーよとか、玲央たちが、言って…』
『男好きなんだから、男子トイレに入れって押されたり、女子トイレに入れてもらえなくて…』
『それでいつも、体育館とこの、トイレまでこっそり行ってて』
『給食のご飯に、“ふりかけ”って…消しゴムのカス、かけられたし…』
萌は、途切れ途切れに、泣きながら、記憶を辿るようにして、一つ一つ、話した。
私は、止めなかった。
ただ黙って、最後まで、聞こうと思った。
しかし、話は、黙って聞けない展開になってきた。
『でも、ママは、こんなにこんなに萌がやられてても、玲央の味方だもんね』
!!!!!
『違うって萌!ママは…』
『ママは玲央が好きなんだよね!』
萌が私の言葉にかぶせてくる。
『人の話、聞きなって!!!』
私は怒鳴った。
『ママは、萌の代わりに学校に行って、すぐに、いじめられてるって気づいたよ?この1ヶ月、クラスの女子と、闘ってきた。特に、玲央とね。でもママは、ただ意地悪をやり返しただけじゃ、何も解決しないと思ったの。もちろん、最初はムカついて、玲央を蹴って鼻血出させたりね、香音の髪つかんでさ、廊下の壁にガンってやったりね、したけどさ。
だんだん、わかってきたの。
彩芽とか苺とかはね、ただ玲央が怖くて、言いなりになってるだけだって。萌も、彩芽のこと、嫌いになってないよね?戻りたいよね?だからママは、このクラスの空気を変える鍵は、やっぱり玲央だって思ったんだ。
そう思い始めた頃、コンビニで玲央を見たの。
萌にも話したでしょう?
玲央ね、虐待、されてたみたい。虐待、わかるよね?ママね、その後、何度か見たの、玲央ね、青たん、できてた。男の人に、殴られたり、してたみたいなんだよね。火傷もしてたよ。タバコ…ヤスさんも吸うでしょ?あれを腕にジュッて、やられてたんだよ。』
萌はドアの向こうで黙っている。
『玲央はね、お母さんが看護士さんで、泊まりの日も多いんだって。そういう日は、お酒を飲んで暴力を振るうその男と、2人きりで家にいなきゃいけないでしょう?殴られても、ひどいこと言われても、誰も助けてくれないの。どこにも逃げられないんだよ。それがどんなに怖いことか、わかる?お母さんも、それを知ってて、でも、逆らえなかったのかな。ママには、玲央のお母さんの気持ちは分からないけど、玲央が、ずっと辛かったのは、事実だと思うんだ。』
『萌だって辛かった』
萌が呟く。
『うん。萌も、辛かったよね。ずっとずっと、1人でよく頑張ったよね。』
ドアの向こうで、また萌が、しゃくりあげて泣いた。抱きしめて思い切り泣かせてあげたいけど、鍵は閉まったままだった。
『玲央はね、きっと、ずっと、ひどいことをいっぱいいっぱいされて、嫌な気持ちになって、悲しくて、悔しくって… そういう辛いことが多すぎて、楽しいことや嬉しいことよりも、苦しいことばっかりになっちゃて、少しずつね、心が壊れていっちゃったんだと思うんだ。そういうの、萌も、少し、わかる?』
『わかる…。でも、萌、家では、大丈夫だった。ママと、パパといる時は、大丈夫だったから…』
『でも、だからって……』
萌は、納得できない、と言いたいのだろう。
当然だ。
『もちろん。ママだって、玲央は辛かったから、いじめをしたことも、仕方ないとか、許せるとか、絶対に思わない。』
『でも、玲央の気持ちが穏やかになって、クラスの空気が元に戻ったら、また萌も学校で楽しく過ごせるかなって思ったんだよね。前みたいにさ。つまり、ママがこの1ヶ月してきたことは、結局は全て、萌の為ってこと。玲央を助けることは、萌を助けることになるって信じてた。』
『ママが大切なのは、玲央じゃない。萌だよ。萌が宝物だよ。萌はずいぶん大きくなったけど、ママのは気持ちは、萌が赤ちゃんの頃から、なんにも変わってない。これからも、変わらないからね?でも…ずっと萌の気持ちわかんないで、傷つけてて、ごめんなさい』
萌がやっと、鍵を開けた。
『やっと顔見れたよ~』
私は笑って、萌を抱きしめた。
萌はまだしゃくりあげて泣いている。
『萌…ごめんね?』
萌の背中をゆっくりと撫でながら、もう一度謝った。
『いいよ』
萌が涙まじりに応える。
この、“いいよ”の言い方が、小さい頃を思い出させる。
小さい頃のように萌を膝に抱いて、私たちは、2人で、しばらく、泣いた。
知らないうちに空は太陽にしばしの別れを告げて、弓張り月が、高く登ろうとしていた。
灯りをつけないままの家は、深い藍色に染まっていった。




