つないだ手の温度
その後、私は担任に付き添われて保健室に行った。幸い、手の平の傷は浅く、消毒して、大きな絆創膏を貼って終わった。
問題は玲央だ。
彫刻刀を刺した傷は、ぐちゃぐちゃにえぐれ、中から肉がみえていた。
すぐに病院へ行くことになり、教頭先生が車を出しに行く。
玲央は、何を聞かれても、何も、一言も話さなかった。
さっきの暴走が嘘のように、黙りこみ、動かない。
誰の言葉も耳に入っていないようだ。目は虚ろに宙を見つめている。
いや、きっと、何も見ていないのだ。
惰性のままに見開かれた目には、もう、何も、映っていない。
私は玲央について病院に行きたかったが、もちろんそれは、許されなかった。
病院どころか、私はスクールカウンセラーであるという女性に、3階の空き教室に連れて行かれた。
カウンセリングを受けろというわけだ。
その空き教室は、廊下の一番奥まった所にあり、普通の教室の、4分の1程度の広さしかなかった。
テーブルにはピンクのチェックのクロスがかけられ、花が生けてある。黄色いチューリップに、かすみ草。その脇には折り紙やクレヨンが置かれ、とってつけたような、その場しのぎの癒やしが、そこには並んでいた。
カウンセリングの教科書に、『スクールカウンセリングルームの見本』とでも載っていそうな部屋だ。
全く癒やされない。
カウンセラーが何を質問しても、私も上の空だった。
玲央は病院に着いただろうか?
玲央のお母さんは?
傷は縫っただろうか?
まさか…
あの男が保護者として病院に向かったりしてないだろうか?
質問を無視し、窓の外を睨みつけたまま動かない私は、さっきの玲央同様に、カウンセラーの目には、かなり病的に映ったようだ。
そこへ、担任と一緒に萌母さんが入ってきた。
玲央との話を聞いたのだろう、不安いっぱいの顔をしている。
『今日のところは、おうちに帰って、親子でゆっくり話し合ってくださいね』
カウンセラーは萌母さんにそう言って、
『ねっ、萌ちゃん。またお話、しにきてね?』
と、私に笑顔を向けた。
私はカウンセラーの言葉は無視して、教室を出ると萌の手をギュッと握った。
萌が無反応なので、私はまた、ギュッ、ギュッと2回、手を握る。萌が、ギュッ、ギュッと、2回、握り返してくる。
これは、私たち親子が昔からしている、コミュニケーションだった。
公園の帰り道、幼稚園の入園式、コンビニへの散歩中。
いつも私たちは手をつなぎ、私が『ぎゅう~』と言って手を握ると、萌も同じように『ぎゅう!』と言って、小さな手で握り返してきた。
何も話さない時でも、ギュッと握り返してくるその温度で、私は安心することができた。
しかし今日、安心していたのは私だけだった。
母親のくせに、娘の気持ちを何もわかっていなかった。
萌は、傷ついていた。
傷つけたのは、他でもない、私だった。
家に着くと萌は無言で2階へ上がり、自室に入ろうとした。いつもなら、ほとんどの時間をリビングで過ごし、夜ですら、私と一緒に寝たがる子だ。
萌の異変を感じ、萌を追いかける。
『萌ー!?』
萌は無視して自室に入り、カチリ、と鍵を閉めてしまった。
私は動揺した。動揺したと同時に、腹立たしかった。私が追いかけてきたのをわかっていて、呼んだのも聞こえているくせに、無視して鍵を閉めるなんて。
私は急いで1階へ降り、財布から十円玉を取り出すと、また萌の部屋へ階段を駆け上がった。
我が家の各ドアにつけた鍵は、外側からも、コインなどがあれば簡単に開けることができる。
私は十円玉を鍵に差し込んだ。
萌もそれを察してドアノブを押さえいるのが音でわかる。
中から『開けないで!!』と萌が怒鳴った。
私は無視して鍵を開けようとしたが、中から萌が押さえるのでうまく開かない。
『萌っ!手ぇ離しなさいっ!』
『萌っ!聞こえないのッッ!!』
私はドア越しに怒鳴る。
すると、中から萌の、ズッ、と鼻をすする音がかすかに聞こえてハッと手が止まる。
『萌…泣いてるの?』




