壊れた女の子
学校に着いて、教室に入ると、玲央が怖い顔で近づいてきた。
怒っている顔なんて本当にお母さんにそっくりだ。
つい、32歳のおばちゃんに戻って、『いや~お母さんそっくりだね!!』なんて言いそうになる。
ダメダメ、私は今11歳、しかも相手とは険悪な仲だ。
余計なことを考えていた私の腕を玲央はグイッと引っ張り、
『ちょっときて』
と言った。
それまで玲央と一緒にいた玲央の子分の詩織と美雨も、小走りに近づいてくる。
3人で取り囲むつもりか?
それなら行かないよ。
しかし玲央は2人に向かって
『ついてこないで』
と言い放った。
子分2人は驚いて、戸惑いながらもわかった、と答えて、離れていった。
陰で大人数に囲まれるのは不利なので、呼び出しはいつも無視してきた。でも、2人きりなら、むしろ私の方こそ、玲央と本音で話してみたかった。
私は玲央についていった。
玲央は階段を黙々と上り、屋上へ出る入り口がある広場まで来て、やっと私へ振り返る。
振り返ったその、ギョロリした視線と、高圧的な態度に、既視感を覚える。
昨日の事で、文句を言われるのだろうことは予想がついた。
虐待を疑って勝手に親に会いに行き、色々と言ってしまったのだから、怒って当たり前だろう。
『なにウチの親んとこ、行ってんの』
案の定、玲央は昨日の事を咎めてきた。
『ごめん。』
私はすぐに謝った。
悪かったとは思っている。本心だ。
『ごめんじゃねぇし!!』
間髪入れず、玲央がキレる。
ふと、玲央の長袖の服が目に入る。
もう6月なのに。
また、心臓がドクンと大きく鳴った。
窓から入る朝日で屋上前の階段は暑く、玲央はその広い額にうっすら汗を滲ませている。
『ちょっとっ!聞いてんのっ!』
玲央がさらにたたみかける。
『玲央… 暑くない?』
心臓が苦しい。
ドク、ドク、ドク、ドク、ドク…
自分の心臓の音が耳元で鳴っているみたいに大きい。
『暑くないし。なにいってんの』
玲央は私から目を逸らし、服の裾を執拗に触る。
その仕草は、あの日コンビニで見た、怯え、萎縮している玲央の、それだった。
玲央が唇を噛む。
私は確信と同時に、落胆した。
『玲央、また怪我、したんじゃない?』
私は聞いた。
涙声になる。
聞いたと同時に、始業のチャイムが鳴り響いた。
玲央はハッと顔を上げ、私に背を向けて立ち去ろうと一歩踏み出した。
私は咄嗟に玲央の腕を掴んだ。
玲央は、その腕を振り払おうと、必死に抵抗する。私も必死だった。
左手で玲央の手首を掴み、右手でその袖をめくろうと手を伸ばす。その伸ばした右手を今度は玲央に掴まれる。そのまま取っ組み合いになった。
私は掴まれた右手を左手によせ、玲央の両手を左手一本で掴み、思い切り、その袖をめくった。
左腕に、大きな青あざと、小さな丸い、火傷があった。
『イヤァァァァァァァ!!!!!!!』
玲央が悲鳴を上げた。
玲央はすごい速さで袖を戻し、小さな小さな声を絞り出した。
『………』
そのまま 玲央は、壊れた。
屋上広場の隅に一組の机と椅子が置かれていたのだが、玲央は、その椅子を持ち上げたかと思うと、勢いよく、私に向かって振り下ろしてきた。
『危ないっ』
私が避けると、椅子は床を強く打って跳ね上がり、玲央の手を離れて階段を転がり落ちていった。
耳をつんざくような激しい音が鳴り響き、これから朝の会を始めようという学校全体に響き渡った。
それでも玲央の衝動は止まらない。
次は机を持ち上げて、私に向かって投げつけようとしている。
私は反対側から机を押さえ、『玲央、ごめん、もうやめて』と言ったが、玲央の耳には入らない。
玲央が思い切り机を私のお腹に押し付けたので、私は苦しくて、後ろに倒れてしまう。
もう一度机を頭の上まで持ち上げた玲央は今度は窓ガラスに向かってそれを力いっぱい投げつけた。
投げられた机は弧を描き、窓ガラスを突き破って、裏庭の地面に落ちた。
土に当たって、グワン、ゴン、と鈍い音が響く。
そこへ、騒ぎを聞きつけて、先生方が階段を駆け上がってきた。
『何してるのっ』
担任が階段の途中から叫ぶ。
担任を一瞥し、玲央が、ポケットから、彫刻刀を出す。
つい先日、図工で木彫りを習った時に用意したものだ。
その彫刻刀のキャップをはずし、玲央は近寄るなとばかりに振り回した。
彫刻刀を振る度に、『ウァッ』と獣のような、痛々しい声を上げる。私はどうにか止めようと近づいて、右手の平を切った。私が手を伸ばしても、玲央は怯むどころか思い切り切りかかってきたのだ。
あまりの痛さに私が離れると、今度は落ちずに残った窓枠のガラスに彫刻刀ごと手を突っ込んで砕き、目に映るものを手当たり次第に破壊しようとした。その小さな手はもはや血だらけである。
全てを否定し、自分までもを否定し、世界中の全てが壊れてなくなってしまえばいいと、彫刻刀や窓ガラスが玲央の代わりに破壊の音を鳴らした。充血した玲央の目には、もう何も、映っていなかった。
その目からは、涙すら、出ていない。
玲央の心は、踏みつけにされ、辱められ、ほったらかしにされ、石のように、固く、冷たくなってしまっていた。その、石の心から、もう涙は出ない。
山林などで遭った、言葉も通じない野生の獣のようだった。そして、学校で一番力強い男の先生が玲央を押さえようと近づいたその時、とうとう、玲央は右手に掴んだ彫刻刀で自らの左腕を刺した。
さっきの痣のところだ。玲央は痣の上に、何度も彫刻刀を刺した。教師たちが悲鳴をあげる。
結果3人がかりで玲央は押さえられ、先生の腕の中で、力尽きた玲央はぐにゃりと倒れた。そのまま気を失い、抱えられて保健室に運ばれていったのだった。
私はその背中をグチャグチャの顔で見ていた。
玲央の瞳の代わりに、私の瞳から、次から次へと、涙が出て、止まらなかった。
あたりは、飛び散った玲央と私の血液が、点々と滲みを作り、状況の悲惨さを物語っていた。
『もう、どーでもいい…』
さっきの玲央の小さなかすれた声が戻ってくる。
玲央が、もう限界まで追い込まれていたことに、その時私は、やっと気づいたのだった。




