レモンとトマトソース
玄関のドアを開けると、トマトソースの香ばしい匂いが出迎えてくれた。
今日はパスタかな。
『ママ、遅~い!!』
萌が玄関まで出てきたので、私はすかさず萌に抱きついた。
萌もくっついてくる。
私は、ぎゅうぎゅうと、いつもより力を込めて、萌を抱きしめる。
『いたぁい』
萌がけらけらと笑うと、私の体にもその振動が伝わってきた。
きっと、お腹の中にいた時は、毎日こうして笑ったり、泣いたり、怒ったりを本当の意味で、共有していたのだろう。
私の分身、私の体の一部分のように思っていた小さな女の子は、今 私と変わらないくらい背がのびて、しっかりと自分だけの道を歩き出している。
萌はもう、私の分身ではない。
でも、私の体の一部分のように、萌が辛いと私も辛いし、萌の痛みは私の痛みになった。
萌が笑っていると、家の中は明るく、萌の部屋からリコーダーの練習が聞こえてくると、春に新芽が伸びていくような希望が湧き立つのを感じた。
家族って、そういうものだ。
みんなが色んな空気を作って、嬉しい色や楽しい色、くつろぎの温かさ、時には悲しみの雨や怒りの激しい色に覆われる日もある。
それでも、夜になってヤスさんが帰ってくると、家は安心の色に包まれる。
ヤスさんは、私と萌が雨に濡れないように傘になり、波にさらわれないように、高い高い防波堤になってくれる。
一番辛かったり、一番頑張るのは自分でいい、みんなに暖かい寝床を与えてあげたい、そんなヤスさんだったから、私たちは安心して、その空気に甘えることができた。
もちろん普段は、『俺の分のアイスが無い』とか怒ったり、夜御飯のおかずが気に入らなくて、むっつりしたりするんだけど、それでもヤスさんは、おおもとのところで、私たちを守ってくれていた。
今夜のパスタは、ベーコンとポテトのトマトソースだった。
上にかかっているトマトソースが、パスタに対して少ない。ソースを標準より多めにかけたい私にとって、それは不満だ。
トマトソースが、余っていたら、足してもらおうかな、と思いながら一口目を食べた時、その酸味に驚いた。
レモンだ。
『萌、これ、レモン!?』
私の驚いた顔に、萌は満足気だ。
『ソース、足りないと思ったでしょ』
『なんで?そんな顔してた!??』
『ママ、すぐ顔に出るからわかるよー』
バレてたか。
少し、醤油も入っている。
これなら、トマトソースは少しでいい、絶妙だ。
『萌~ 美味しいよ~』
しあわせだ。
ベーコンをフォークにさして、パスタを巻いて、食べる。最高。
『萌って料理の才能あるんじゃない?こないだのハンバーグソースも美味しかったし!』
萌は、フフンと笑って、パスタを口に運んだ。
萌は最近、もとのように、よく笑う萌に戻っていた。お風呂からは鼻歌が聞こえてくるし、ご飯も、よく食べた。
1ヶ月学校を休めたのが、萌の心を緩めてくれたのだ。
あのまま萌自身が、死の手紙を読んだり、上靴マヨネーズを味わったら、もう萌の小さな心は、壊れていたかもしれない。
この入れ替わりは、神様がくれたプレゼントだと、私には思えた。
『私たち、ずっとこのままなのかな?』
萌か不意に尋ねた。
『それ、ママも思ってた。』
どうしたら、戻れるのだろう?
でも、玲央の件を解決するまでは、このままでいたいというのが、私の本音だ。
『また事故ればいいのかな?』
『トラックに?突っ込む?』
『死ぬって~絶対死ぬ!!』
私たちはまた、ゲラゲラと笑い合った。
家の中はキラキラした楽しい黄色に満ちている。
もうすぐヤスさんも帰ってきて、ほんのり温かい、オレンジ色に満ちるだろう。




