梨の園
活動報告へ載せた掌編です。
「ここになるのは、林檎ですよね? 青い林檎がなるのでしょう? 花が、きれいですね」
梨棚の下で戯れる少女はそう言った。
――莫迦な娘だ。
そう、思った。梨の花が、一斉に風にざわめいた。
妃殿下なら先ほど、伯爵閣下と城館の散策へお出掛けになりましたが。
最後まで聞き終わらぬうちに男は馬を駆った。風がそよぐ草を分け、馬上から探した男を目掛け剣を降り下ろした。
「妃から離れろ」
娘の悲鳴が聴こえた。
「御前に触れてよいのは私だけだ。他の何人も、触れることは許さぬ」
娘は斬られそうになった男の傍らにかがみ、蒼白な顔で視線を返す。
「なぜ、このようなことをなさるのです」
「私が御前を苦しめているとでも?」
苦しんでいるのは自分に他ならないと男は思う。
「恐れながら陛下。何か誤解をなさっておいでです」
娘の肩に手を掛けた男が立ち上がって割り入る。
「クロウ……!」
娘がその青年の名を叫んだ。
「私とオルシィは従兄妹です。私は彼女を家族同然に思っています。それ以上のことはありません。それにオルシィは――」
「クロウやめて!」
「黙れ。その名を呼ぶな」
娘の叫びと男の遮りが重なった。娘は怯えたように肩を震わせた。
男の苛立ちが向かう先は、もう娘以外になかった。
「御前は――なぜ私を見ない。なぜ私に笑わない、なぜ私を求めない。なぜ私だけが御前を――」
「へい、か?」
気づけば男の頬には熱い雫が流れていた。その感触に愕然としたように、男は焦点を失い馬上からくずれ落ちた。
恐る恐る近寄った娘の手を力任せに引いた。腕の中の柔らかいぬくもりに、途方もない距離を感じる。やるせない喪失感が避けようもなく男を襲う。娘を掻き抱く。
「私はただ、愛しているのだ御前だけを――」
華奢な背中が折れるのではないかと思うほどに娘を抱く腕に力がこもった。
「いま、なんと……」驚きににじんだ声が、頼りなく発せられた。
「あの梨棚で出会ったときからずっと。オルシィ御前だけを――」
莫迦な娘だと思った。梨と林檎を間違えるなど。けれど抗えないほどの急速な力にのまれたのは自分のほうだった。梨の花が一斉に風に巻かれたとき、己の命は定まったのだ。
この、娘のもとに。
「私――私は、信じてよいのですね。私のこの想いを。あなたにずっと、捧げられると」
男は驚きに、娘を放した。
私もずっと、求めていました――泣きそうにも見える目で、娘は微笑んだ。
――梨棚の光のもとで、花はゆれるだろう。
今このときもなお美しく咲くこの、娘のように。