2.「表の世界と芽衣」
聞き慣れた騒音が耳に入る。
ゆっくりと顔を上げて目を開ければ、見覚えがある小豆色が辺り一面に広がっていた。
覚えがあるのは当然である。自分も同じ色のセーラー服を着ているのだから。どこかズレた考え方を展開し、勝手に納得した。
(・・・どうやら寝てしまっていたようね)
周りを見ると既に帰り支度を始めている。一体何時間こうして机に伏せていたのか、と考えると記憶にある限りでは一時限目の現代文では授業をウトウトして受けていた気がするが。枕にしていた腕もビリビリと痺れてしまって痛いくらいだ。
こうなった原因を探すと頭の中に彼女の敵である「歪み」とかいう奴等の姿が思い浮かぶ。少し前までは「歪み」が生じてしまうのは稀な事であり、週にニ、三度の頻度で彼女が処理していたが最近、芽衣は引っ切り無しに現れる「歪み」の対処に振り回されて疲れが溜まっていた。
そして昨日は深夜遅くに奴が現れてしまい、一瞬で方を着けたのはいいがすっかり睡眠時間を削られてしまった。あれが敵対する彼女への攻撃作戦だと言うのなら、見事その策は嵌ったと言わざるおえまい。
寝惚け眼を摩りながら一頻り考えを巡らせると何時までも一つの事に囚われていても仕方ないと思考を中断し、寝てしまった事実は取り返しつかないのだからと開き直る。
持って帰る物を勉強机の中から一通り机の上に出し、横に付いているフックに掛けていた鞄を持ち上げ丁寧に詰め込んで椅子から腰を上げた。
若干の足腰にかかる気怠さを感じながら歩き出す。仲良さげなクラスメイト達を尻目にして教室から出た。
教室が二階にあるから下駄箱前に出る階段を降りていき、彼女に宛がわれている靴箱の所へ進む。
部活動が盛んな学校だから授業終了後直ぐに下駄箱へ来る生徒は少なく、男女それぞれ疎らに存在していて小豆色のセーラー服と群青色のブレザーがちらほらと見える。暇そうだな、と真勝手な感想を胸に抱きながら玄関先で遠めに見える校庭を走り回り部活動に励む生徒達。
これも彼女の勝手な感想だが、部活動する生徒達はとても楽しそうに放課後を友人達と過しているが、そそくさと自分達には関係無いとばかりに帰ってしまう帰宅部は貴重な青春の時間を無為に過している気がしてならない気分になる。集団心理というやつだろうか。
そんな気分になっても彼女は頑なに学校で部活動をする気には到底なれなかった。
スイッチを切り替えるかのように思考を変えて先程まで思っていた事を忘れる。彼女には他にやるべき事があるのだ。
部活やら友達に構っている時間などありやしない。
学校の門を越え、決まった帰宅路に入るといつも通りの順路に歩く。直ぐに人通りの少ない脇道へと行くと足を止めた。
「王子。着いて来ている事は分かっているのよ。出てきなさい」
車一台しか入りそうにない狭い道の真ん中、彼女が振り返ると其処には四つ足でテトテトと彼女の前へ近付いて来る一匹の動物が居た。犬と猫両方の特徴を持つどちらともとれる生物。王子と呼ばれたそれは彼女を見上げる位置まで近付くと地べたに座り込んだ。
「勉学お疲れ様。芽衣」
「それは勉強そっちのけで寝ていた私への嫌味かしら? アンタの事だからずっと見ていたのでしょう? この暇生物!」
「睡眠学習というのもあるみたいだよ」
「へー、それは永眠でも出来るのかしらね」
嫌味に嫌味で返した芽衣に対して王子は笑いを堪えきれず噴き出し、何処にあるかわからない口からくっくっくっ、と笑い声を出す。芽衣はその姿を見下し、冷たい瞳を向けた。
「それで、そんな嫌味を言いに来たのでは無いのでしょう? 早く用件を簡潔に述べろ。3文字以内にな」
「くっくっくっ、それは無理な話。まったく、君とする掛け合いはどうも面白くて止められない」
王子は笑うのを止めると姿勢を正して座り直す。何時もどこかふざけた雰囲気を漂わせている王子なのだが、今はその雰囲気をどこかにやってしまい、真剣さだけが残る。芽衣はその王子が放つ空気を感じてこれから王子がいう言葉の重要性を悟り、意識した。
「魔王が復活した可能性がある」
その時、芽衣は王子の言わんとする言葉の意味を察した。
魔王。この漢字二文字が表す単語はこの世の全ての邪悪を煮詰めて固まらせたものに違いない。何時も飄々とした王子ですらこの言葉を口にすれば胸焼けが起きた様な苦痛の表情を顕わにする。
それだけ魔王の名は禁忌であった。
その口にしてはならない言葉を王子自ら口にする。その意味。
芽衣は事態の重さを瞬時に悟らざる負えなかった。
思えば出だしの軽口は少しでも言葉の重さを緩和するものであったのかもしれない。気負うなよ、と王子なりの気遣いかもしれなかった。
しかし、芽衣に対するその行為は彼女にとって邪魔でしかない。彼女にとって大事なのはそんな事ではないからだ。
「で?」
「・・・君にとってそんな事はどうでもいい話だったね。忘れていたよ。君にとってその先が寛容なのだね」
理解はしている。恐怖はある。魔王についての話は十分に聞いている。
あの芽衣が憧れて止まない祖母が命辛々やっと封印したという化け物。そんな存在が復活を遂げて人類ひいては魔法少女である自分を殺しに来るかもしれない。そう考えると今すぐ全てを放ってこの星から逃げ出したい衝動すらあった。
が、芽衣には一切関係ない。
どんな感情が生まれ出ようとも、殺されるかもしれなくとも関係無い。
むしろ彼女にとって好都合だ。
芽衣の祖母に封印される前に魔王がこの星に来た際に残したやつの残滓である「歪み」。そんなものを表の世界で生活しながらちまちま狩っていたのでは埒が明かない。実に好都合だった。
芽衣は、にやりと笑う。
「いいんじゃない? 魔王復活。王子がそう考えた根拠はまるで分からないし、本当にそうなっているかなんて知らないけれど、いいじゃない。魔王復活」
「よくはないよ。芽衣」
「いいえ。実に素晴らしい事だわ。現在こうして最高最強の魔法少女が王子の相棒でいる。私はヤツを倒せばおばあちゃんを越せた証明になる。ふふっ。どうかしら、一石二鳥だと思わない?」
魔法少女はケタケタと笑う。
あまり女の子らしくは無い笑い方だが芽衣にはしっくりくる笑い方だった。