『婚約破棄ですね。では殿下、まずは初診を始めます』
王城の大広間、夜会のざわめきを一瞬で引き裂く怒号が響き渡った。
「セリア・フォン・アルトハイム公爵令嬢! 貴様との婚約を破棄する!」
金糸の刺繍が施された豪奢な礼装に身を包んだ第二王子、カイル・フォン・ルクスフェルトが、大仰な身振りで私を指さしている。その隣には、か弱い小鹿のように身を縮こまらせ、上目遣いにこちらを伺う男爵令嬢のマリアの姿があった。
「貴様は己の血統に驕り、身分の低いマリアを冷酷に見下し、数々の嫌がらせを行ってきた! その氷のように冷たく傲慢な女が、我が国の王妃にふさわしいはずがない!」
シャンデリアの煌めきの下、貴族たちの好奇に満ちた視線が一斉に突き刺さる。
普通なら青ざめて膝を突くか、怒りに声を震わせるところだろう。だが、私――前世で精神科医として十数年間、数多の患者と向き合ってきた臨床医にとって、目の前の光景は別のものにしか見えなかった。
私は扇を静かに閉じ、胸ポケットから羽ペンと小さな羊皮紙の帳面を取り出した。
「セリア……? 何をボケッとしている! 言い訳があるなら聞いてやるぞ!」
「いえ、殿下。言い訳などとんでもございません。ただいま、初診のインテーク面接シートを作成しておりますので、少々お待ちいただけますでしょうか」
「は……? し、しょしん?」
王子の怒鳴り声のトーンが半音上がった。
声帯の過緊張、瞳孔のわずかな散大、呼吸促迫。怒りに任せてまくし立てているように見えて、明らかに交感神経が優位になりすぎている。
「まずは基本情報の確認です。主訴は『婚約破棄の要求および精神的苦痛の訴え』。発症時期は、およそ三ヶ月前、こちらのマリア様との接触が契機と考えられますね」
「な、何を訳のわからぬことを! 私は正気だ!」
「ええ、ご自身の現実検討能力が保たれていると信じたいお気持ちは重々承知しております。しかし殿下、先ほど『冷酷に見下された』『嫌がらせをされた』とおっしゃいましたが、具体的にどのような行動が、いつ、どこで行われたか、客観的証拠はお持ちですか?」
カイル王子はぐっと言葉を詰まらせ、隣のマリアの肩を抱き寄せた。
「そ、そんなものはマリアの涙を見れば明白だ! 彼女の傷ついた心が何よりの証拠だ!」
私は帳面にさらさらと羽ペンを走らせる。
「なるほど。『感情的推論』の典型的なパターンですね。『自分がそう感じるから、それは事実に違いない』という認知の歪みが生じている可能性があります。主観的な被害感情を客観的事実と混同しておられる。あわせて、ご自身を絶対的な救済者と位置づけ、他者を悪と善に極端に二分するスプリッティングの傾向も強く見られます」
「き、貴様……私を侮辱する気か!」
「とんでもございません。これは診断ではなく、現時点で観察される言語・行動パターンに基づいた『作業仮説』に過ぎません。確定診断には数回にわたる詳細な成育歴の聴取と心理検査が不可欠ですから」
私は一歩、王子へと歩み寄った。
逃げ場をなくすためではない。臨床において、不安を抱える相手のパーソナルスペースを適切に見極める距離だ。私の穏やかで平熱の視線に、王子は反射的に半歩後ずさった。
「殿下、参考までに生い立ちをお伺いします。優秀無比な第一王子である兄君と常に比較され、王妃様からは過度な期待をかけられ、一方で国王陛下からはあまり目を向けられない環境で育ちましたね?」
王子の顔から、怒りの色がさっと引いた。
「な、なぜそれを……」
「あくまで推論ですが、自己愛の傷つきと、それに伴う未解決の承認欲求が存在していると仮定すると、現状の辻褄が合います。殿下は、誰かに『無条件で肯定されたい』『頼られたい』と強く飢えていらした。そこに現れたのが、身分が低く、殿下を絶対的な庇護者として見上げてくれるマリア様だった。彼女を救うことで、殿下は初めて有能感を実感できた――いわば、共依存的な力動が働いている可能性が高いと考えられます」
「ち、違う! 私は、真実の愛を……!」
「愛というラベルを用いた代償行為である疑いがあります。ご自身の空虚感や劣等感を埋めるために他者の無力感を利用し、私という共通の『悪者』を作り上げて二人で団結することで、一時的な万能感を得ている……という見立てです」
「ひっ……!」
隣にいたマリアが、小さな悲鳴を上げて身をすくめた。
視線が合わないよう素早く伏せられた瞳、口元の強張り、そして周囲の反応を推し量るような視線の微小な揺らぎ。演出された悲愴感の背後に、強い防衛機制と警戒反応が働いているように私には観察された。
「マリア様についても、自己愛の充足や他者操作を示唆する行動パターンがいくつか散見されますが、今日のところは主訴を持ち込まれた殿下の初回評価を優先いたしますね。……さて、カイル殿下」
私は羊皮紙を王子に向け、ペン先でトントンと軽く叩いた。
「治療方針についての提案です。まずはご自身の認知の歪みに気づいていただく認知行動療法の導入。そして何より、王位継承権や権力闘争といった強いストレッサーから物理的に距離を置いた、静かな療養環境での十分な休養を強く推奨いたします」
「りょ、療養……? 私が病気だと言うのか……!?」
「病気というよりは、環境に対する適応不全ですね。まずはご自身の状態に病識を持つことが、回復への第一歩ですよ」
大広間は、もはや水を打ったような静けさに包まれていた。
周囲の貴族たちは、スキャンダルを嘲笑う空気から一変し、「なるほど、第二王子殿下は昔から兄君へのコンプレックスが強かった」「確かに最近の言動は情緒不安定だった」と、納得の眼差しで王子を見つめ始めている。
「あ、ああ……違う、私はただ、正しいことを……」
拠り所であったはずの「正義の告発」を完全に心理学的な症例検討として解体され、王子はその場に崩れ落ちるように膝をついた。周囲の憐れむような視線が、かつて彼が恐れていた「無能な次男を見る目」と重なり、そのプライドを音を立てて粉砕していく。
「セリア嬢」
背後から、低くよく通る声がかけられた。
振り返ると、人混みを割って現れたのは第一王子――カイルの兄であるレナート王太子だった。その端正な顔立ちには、苦笑と、深い興味の色が浮かんでいる。
「弟の醜態、深く詫びる。……しかし見事な見立てだったな。宮廷医たちも匙を投げていたあいつの歪みを、そこまで冷静に言語化するとは」
「恐れ入ります、殿下。ですがカイル殿下のご意思は固いようですので、婚約破棄の件は謹んでお受けいたします。これ以上の関係継続は、双方のメンタルヘルスにとって明白に有害ですので」
私が優雅にカーテシーを披露すると、レナート殿下は片眉を上げ、楽しげに目を細めた。
「婚約破棄は認めよう。だが、アルトハイム公爵令嬢。我が国には、病んだ王室の空気を換気し、愚者を正気に戻す名医が必要なようだ。――近いうちに、私の相談室にも来てもらえないだろうか? もちろん、患者としてではなく、私の隣に立つ相談役として」
会場に小さなざわめきが広がる。
私は内心で深くため息をつきながら、手元の羊皮紙をめくった。
「……殿下。初対面の相手に対して距離感を急激に詰め、公私混同を迫るようなアプローチは、軽躁状態、あるいは境界性の特徴を示唆する場合がございます。まずは、正式な手続きを経て面談予約をお取りいただけますでしょうか」
「ははっ、これは厳しいな!」
王太子の快活な笑い声が広間に響き渡る中、私は帳面を閉じ、静かに一礼した。
どうやらこの異世界でも、私のカウンセリング業務は当分終わりそうにない。




