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刺繍師エミルウ

3時間だけ、武器を置いてくださいまし。~婚約破棄の夜、元紛争調停人の男爵令嬢が『白の使者』として降臨する――「戦争を終わらせるのが、私の仕事でした」~

作者: 姫松チミノ
掲載日:2026/07/05

「私は真実の愛に目覚めたのだ!」


 大邸宅(タウンハウス)舞踏室(ボールルーム)が静まり返った。

 そのひと言は、愛の終わりではなく、戦争の始まりだった。


 侯爵家嫡男・ロキオは、高らかに宣言した。


「辺境伯令嬢・ヤスミナレザ! おまえとの婚約を破棄する! 私はこの――愛するリリャンと結ばれる!」


 貴族たちは、たがいに顔を見合わせた。

 政略結婚の一方的破棄の現場を目撃させられてしまった。

 『辺境伯家の令嬢は、早晩、捨てられるのではないか』という噂が、今日、現実になった。


 ロキオにしがみつくように震えている愛らしい少女――富商の令嬢・リリャン。

 貴族令嬢にはない心やすさと愛くるしさに、ロキオが完全に逆上(のぼ)せあがっている、と評判だった。


 ヤスミナレザは小さく息を吐いた。


(……予想通り。そして、予定通り)


 辺境伯家は何か月も前から、この事態に備えていた。

 ロキオの愚行は止まらないだろう、という読みは正しかったのだ。

 悔しくないわけではない。

 しかし、ヤスミナレザは、淑女としての訓練を受けている。

 社交用の微笑みで。

 思慮深く、静かな声を置いていく。


「どうぞ、お心のままに」


 それだけ言って踵を返す。


(見ていらっしゃい)


 心の中では、なすべきことが、次々と溢れてくる。


(まずはお父様に報告を。それから、皇室に。それから。それから――)


 そのときだった。


「お待ちになって!」


 甲高い声が響く。

 舞踏室(ボールルーム)にいた全員が振り返る。


 赤毛の令嬢が、食べかけのケーキが載った皿を持ったまま立っていた。


「パンタ=レイ……!」


 社交界の名物令嬢。


 夜会の厨房へ忍び込んではパティシエに新作の菓子を作らせ。

 廊下で他家の使用人と、世間話で笑い合い。

 壁の花の令嬢たちと、流行の恋愛小説を語り合う。


 男爵令嬢としては規格から外れた『変人』と、評判の少女。


 いまも、左の頬に生クリームが付いたままである。


 居合わせた貴族たちの、クスクス笑い。

 それが、こわばるように止まった。

 パンタ=レイの肩に掛かっている、純白のケープに気がついたからだ。

 白い鳩を思わせる、立体的な透かし模様の異国風刺繍が施されたケープ。

 誰かが息を呑む。


「あれは……」


「『白の使者』の(しるし)じゃないか!」


「まだ存在していたのか」


 ざわめきが広がる。


 『白の使者』。

 帝国の古い伝承。

 覚えている者も少なくなった、不文律。


 『白い鳩』の(しるし)を身につけた者が、調停を申し出たならば――。

 争っている者たちは、3時間だけ武器を置き、その話を聞かなければならない。


 『白の使者』は命令しない。

 説得もしない。

 『白の使者』に従わなければならない、という義務もない。

 まことにもって頼りないことである。

 だが、その3時間を拒めば、その後のあらゆる争いで、世論を敵に回す。

 『これほどまでに(ゆる)い調停を拒むような者は、言葉も損得勘定も通じない者である』、と見做(みな)されてしまうのだ。

 だから、誰も逆らわない。

 とりあえず、3時間、話だけは聞く。


「パンタ=レイと申します。みなさま。3時間だけ、武器を置いてくださいまし」


 優雅にカーテシーを示した。


「ロキオ様。ヤスミナレザ様。リリャン様。『武装』の解除をお願いしますわ」


 首を傾げて微笑む。


「家格も、立場も、世論も、大声も、面子も、扇子も。本日は全部お預かりいたします」


 ヤスミナレザがため息をつく。


「扇子も『武装』なのですか」


 パンタがにっこりと笑って扇子を受け取る。


「はい。だって、扇子(コレ)だけで、人を殺せますものね!」


(ど、ど、どうやって?!)


 ヤスミナレザは、赤毛の令嬢に恐怖を感じた。


 ロキオが鼻で笑った。


「3時間だけだぞ」


「ええ。それで十分ですわ」


 ◇


 舞踏室(ボールルーム)の隣の、カードルーム。

 緑のラシャが張られたテーブル。

 四隅に置かれた蠟燭の炎だけが、テーブルの上を照らしていた。


 分厚い絨毯。

 重厚なカーテン。

 マホガニーの扉。

 カードルームの中の会話の音も、吸われて消える。

 廊下で聞き耳を立てている貴族たちには、まず届かないだろう。


 パンタは手元の白紙の束の中から、数枚を抜いて、テーブルに並べる。


「本日の議題は婚約ではありません。これは、恋愛の仲裁ではありません」


 他の3人の前に、白紙と鉛筆を配る。


「『未来の棚卸し』です」


「棚卸し? 何だ? それは」


「この婚約破棄で発生する支払い義務について――『10年後に、みなさまのお手元へ届く請求書』を書いていただきます」


「はんッ」


 ロキオがせせら笑う。


「何を言ってるのかしら?」


 リリャンも笑う。


 ヤスミナレザだけが黙っていた。


 パンタは考えている。


(政略結婚の一方的破棄。ということは。二国間の和平条約、および、通商条約が破られたことに等しいですわ)


 『前世』で渡り合ってきた交渉相手の顔を思い出していた。


 子どもたちを(さら)って少年兵に仕立て上げていた司令官。

 虐殺を扇動した軍閥の将軍。

 戦争犯罪に問われるのを怖れて、終戦に踏み切れない政治家。


 彼らと同じテーブルに座り、武器を取り上げることに合意させて、部隊を解散させる。


 武装解除。

 動員解除。

 社会復帰。


 DDRの専門家。

 それが、パンタの『前世』での仕事だった。


(『彼ら』に比べれば、目の前の貴族たちは、まだ大丈夫。じゅうぶんに引き返せる)


 21世紀の世界で、国連職員として、NGOスタッフとして、数十年活動してきた記憶。

 その記憶が、今世で、パンタをただの男爵令嬢にしておかなかった。


 この世界にも、戦争で勝利する方法を知っている『英雄』はたくさんいる。

 しかし、『戦争を終わらせる方法』を知っている人間は、この世界にはパンタしかいなかった。


(まだ戦争じゃない。だから止められる)


 パンタは、呼吸を整える。


(戦争の火種が大きくなる前に、なんとかしてみせますわ)


 ◇


 1時間目。


「まずは、持参金」


 パンタは淡々と読み上げる。


「これはおいくらほどかしら?」


 ヤスミナレザは、じつに(いや)そうな顔で答える。


「……金貨1,000枚ほどを予定していました」


「把握しましたわ!」


 白紙1枚ごとに『費用項目』をひとつずつ。

 そして、金額を書きつけながら。


「両家で予定されていた共同事業計画。辺境伯家の鉱山。侯爵家の工場。二つを合わせた新規事業。これらがすべて中止になりますわね」


 ヤスミナレザは、驚いた。


「パンタ=レイ様。あなたがなぜ、そんなことをご存じなのかしら」


 パンタは困ったような微笑を浮かべる。


「う~ん。そういう仕事をしていたもので」


「どういう仕事なのよ……」


「ふふふ。内緒ですわ!」


 笑いで誤魔化して、パンタは続ける。


「お2人のために建設されるはずだった新居。募集に応じていた使用人候補。新しい取り引きを開拓した御用商人。婚礼職人」


 言葉を区切るたびに1枚。

 また1枚、と。

 『費用項目』が書かれた紙を積み上げていく。


「失業への補償。契約解除の違約金支払い。融資の見直し、凍結。などなどが発生しますわ」


 ロキオは肩をすくめた。


「そんなもの。父上が何とかする」


「納得ですわ!」


 パンタは頷く。


「ところで。商人は契約を守らない相手を嫌うものです。少なくとも、保険料率や決済条件の見直しがあるでしょう。それとも、侯爵家はこれからも、商人たちと変わらない取引を続けられるとお思いかしら?」


 ロキオは目をぱちくりとさせた。


 リリャンが口を尖らせて割り込んでくる。


「我が家の商会が取り引きいたしますわ! 侯爵家は永遠に安泰です」


「合点がいきましたわ!」


 パンタが微笑む。


「では、銀行のお話をしましょう。今回の婚約破棄でいくつかの融資話が消し飛びますわね。今後、侯爵家への貸し出し金利は、何%ほど上がると思いますか?」


「……」


 誰も答えられない。

 また一枚、紙が積まれた。


「ちなみに」


 パンタはさらりと言う。


「侯爵家と辺境伯家との間に存在していた取り引き。そして予定されていた取り引き。これらの取引枠が、みごとに宙に浮きましたわね。これらは今後、どこかの誰かが持っていくことでしょう。はて。さて。『どこ』へ流れると計算していますか? みなさま」


 考えたが、誰も答えられない。


「ふん、ふむ」


 パンタは、新しい紙になにごとかを書きとめる。


 チリチリチリ!


 ここで、カードゲームテーブルの上に置いてあった懐中時計が鐘を打った。

 最初の1時間が経過したのだ。


「この紙は、あとでみなさまにお見せしますわね」


 そう言って、その紙を裏返して手元に置いた。


 ◇


 2時間目。


 パンタは、緑のラシャの上に地図を広げて、北を指差す。


「辺境伯家はこちらです。北にある『王国』との国境線がここですわ」


 ヤスミナレザが頷く。


 今度は、地図の中央を指す。


「侯爵家はこちらです。ちなみに、ご当主はいまの戦争大臣でいらっしゃる」


 赤鉛筆で、2つの領地の間に線を結ぶ。


「お2人の婚姻は、人ではなく、中央と国境を結ぶ『橋』だったのですわ!」


 ヤスミナレザの細い眉が、ヒクリ、と動いた。

 ロキオが不貞腐(ふてくさ)れた顔をする。

 リリャンが少しだけ、ばつの悪そうな顔をする。

 パンタは続ける。


「2つの領地を結ぶ街道を整備するための合同道路計画は、当然、中止になりますわね」


 紙に書いて、積む。


「今まで存在していた輸送。警備。兵站。両家が争えば、すべてが止まりますわ」


 たまらず、ヤスミナレザが口を開いた。


「パンタ様。我が家が担当してきた北の国境線の警備事業のことまでご存じなのですか」


「もちろんですわ!」


「どうしてそこまで」


「そこまで考えるのが、私の仕事でしたのよ」


 パンタの微笑に、ヤスミナレザは混乱してきた。


「戦争大臣は侯爵家当主。その命令を受けるのは、婚約破棄された辺境伯家の持ち物である国境警備隊です。みなさま。戦争大臣の命令が、これからも変わらずに北の国境線でしっかりと果たされる、とお考えですか」


 ヤスミナレザは目をそむけた。

『もしも婚約破棄となれば、今後は侯爵家の命令は受けつけない』

 それが、辺境伯家の家門の総意だった。


「私が皇帝陛下だったら、考えます。戦争大臣を別の人間に替えるか。辺境伯家を北の国境から外して、別の土地に領地替えさせるか」


 感情のない声色で、パンタは言った。


「国境地帯が空白になることを考えたら、当然の判断ですわ」


 ロキオが怒鳴る。


「お前は……お前は、俺が悪いと言いたいのか!」


「ロキオ様。あなたが悪人かどうかは、本日の議題ではありません」


 パンタの静かさは揺るがない。


「あなたが悪人であっても、この紙に書かれる数字は変わりません。善人であっても、変わりません」


 ロキオは、戦慄した。


(この女は、俺を裁こうとしているのでは……ない、のか……?)


 目の前の赤毛の令嬢を、まじまじと見る。

 パンタは、べつに怒っていない。

 誰のことも、軽蔑していない。

 憎んでもいない。

 医師が患者の熱を測り、脈を数えるように、自分たちのことを診ている。


(この女は、なんなんだ)


 ロキオは、他人からこんな目で見られた経験がなかった。


(ひとのことを、こんな目で見る人間がいるのか)


 ヤスミナレザも気がついていた。


(パンタ=レイ様。この方は私の味方ではない。ロキオ様の敵でもない。もっと何か別のものを守るために、ここにいるのだわ)


 彼女は、パンタ=レイを信頼することに決めた。


(この方は……争いそのものを終わらせようとしている)


 パンタは思っていた。


(『司令官』や『将軍』に比べれば、この人たちは、ずいぶんと話が通じますわ!)


「ロキオ様。戦争大臣が交替するとなったら、後任はどなたでしょうね?」


 自分ロキオの父親が更迭される話なのだ。

 パンタの問いに、ロキオが苦虫を嚙み潰したような表情になる。


「適任者に心当たりはありませんか?」


「知るか。やくたいもない」


「得心しましたわ! では。ヤスミナレザ様。辺境伯家の代わりに、北の国境警備を任せられる能力がある家門について、心当たりはありませんか」


「……あります。ひとつだけ」


 パンタは、先ほど裏返しておいた紙を表に向ける。

 そこには、パンタが数10分前に書いた、大きな文字があった。


 『両家の商取引枠が宙に浮いた後、それらを引き受ける可能性があるのは誰か?』


 ヤスミナレザは、息を呑んだ。

 ロキオは目を見張る。

 リリャンは震えた。


「ここに、こう、追加ですわ」


 パンタが、2行目を書き入れる。


 『戦争大臣の座を、あるいは国境警備の任務を、引き継ぐのは誰か?』


 パンタが促す。


「ヤスミナレザ様。さっきおっしゃった、心当たりの名前を、そこに書いておいてくださいまし」


「……はい」


 『商取引』。

 『軍事』。

 ヤスミナレザは、2つの項目に、とある同じ名前をそれぞれ書いた。


「偶然……でしょうか」


 パンタがつぶやく。

 他の3人は、言葉が出なかった。


 チリチリチリ!


 2時間目の終了を告げる鐘が鳴った。

 パンタはその紙を、もう一度、裏返して伏せておいた。


 ◇


 3時間目。


 紙は、机いっぱいに広がっていた。


 『侯爵家と辺境伯家の対立』

 『貴族たちの派閥化』

 『社交界の分断』

 『政治的空白』

 『北の王国の工作』

 『国境の抑止力低下』

 『防衛費の増大』

 『増税』

 『皇室の権威失墜』

 『二重政府』

 『領民の流出』

 『帝都への人口集中』

 『社会不安』

 『盗賊』

 『自警団』

 『私兵』

 『治安問題』

 『経済崩壊』

 『外交失敗』

 『開戦』


 『費用項目』の下には、『請求金額』も書き込まれている。

 この政略結婚が失われたために、社会はいくら失ったのか。

 市場が崩壊したことで発生する農村の経済損失。

 国境紛争のために注文される銃一挺の値段。

 孤児や寡婦の食費まで。


「これは、『悲鳴の値段』ですわ」


 パンタは、どんなものにも値段をつけた。


「『皇室予算』。これは後回しでいいですわね」


 そう呟いて、その紙を遠くにどける。


「死にゃしませんわ」


 パンタの右手は、鉛筆で真っ黒になっていた。

「ここでだいたい、今から10年後くらいでしょうか」


 もう、誰も笑っていなかった。

 目の前に広がる、『未来からの請求書』。

 ロキオの顔は、幽霊のように真っ白だった。

 領民が味わう難儀に、心を痛めたからではない。

 この婚約破棄騒動を発端に、帝国の転落が始まるのだとしたら。

 『廃嫡』『貴族籍の剥奪』『平民落ち』という未来図に、恐怖していた。


 リリャンは泣いていた。

 ヤスミナレザは地図から目を離せなかった。


 ロキオは、紙になにかを書き込み、震える手で、パンタに渡した。


「ありがとうございます。はて。さて。ここで、利益を得る方のお名前は――」


 商売を奪っていくのは誰か。

 軍権を牛耳るのは誰か。

 戦争で得をするのは誰か。


 3つの勘定項目に、同じ家名が3つ並んだ。


「『ガスマン公爵家』、ですか」


 パンタの声は、怒っていない。

 静かな、静かな声だった。


「……そんな」


 ロキオが呟く。


「俺は、俺たちは、利用されていたのか……?」


 パンタは、慎重な声で答えた。


「私、証拠の無い結論は、口にいたしませんわ」


 いまのロキオにとって、それはつまり、『可能性はある』という意味だ。


 ロキオは必死に考える。


(そういえば……リリャンを初めて紹介された夜会……あれは、誰からの招待だった?)


(2人で観劇のために乗った馬車……あれは、そうだ、ガスマン公爵家の侍従が手配していた馬車だったのでは……)


 リリャンも思い出す。


(あの日のお茶会……、偶然、公爵家の奥方様が来ていて……そのあとロキオ様と2人きりになって……)


 2人は同時に思い当たる。


 ロキオが絶叫した。


「公爵家だ! あいつらが仕組んだんだ!」


 パンタが微笑みながら言う。


「ロキオ様。大声は『武装』ですわ。置いてくださいませ」


「パンタ=レイ! 聞いてくれ! あいつらが黒幕だ!」


「証拠はございますか?」


「ぐうッ……!」


「でしたら、それ以上は言ってはいけません。『武装』になりますわ」


 カードルームを、長い沈黙が支配した。

 いや。

 ロキオとリリャンのすすり泣きだけが聞こえていた。


 2人は、半べそで顔を見合わせる。


(今思えば、あれも……これも……偶然ではなかったのかもしれない)


 ヤスミナレザは、そんな2人を呆れたような目で見つめるだけだった。


(真実の愛。真実の愛。真実の愛とやらは、どこにいったのかしら? やれやれ)


 そして。

 ロキオが震える声で言う。


「……俺は……これから、どうなる……?」


 パンタはにっこりと微笑んだ。

 机に広げた紙を集めながら、答える。


「ロキオ様。未来は、あなたのご判断次第ですわ」


 鉛筆ではなく、羽ペンを差し出しながら。


「今、あなたが、ここで何を選ぶかによって、ここに書き込む請求書の金額は変わります」


 リリャンがパンタに訊く。


「どうして……私たちにこんなことを教えてくださるのですか?」


 パンタは少し考えて、柔らかい声で言った。


「見ましたわよね? いま聞こえている悲鳴を握り潰したら、いつか戦争になるからですわ」


 リリャンには、意味が分からない。

 ヤスミナレザは、パンタの言葉に、頷いた。

 ロキオは俯いたまま、絞り出すような声で言うのがやっとだった。


「……少しだけ、考えさせてくれ」


「もちろんですわ」


 パンタは息を吐き、目を閉じて、はじめて椅子にもたれた。


「そのための3時間だったのですから」


 ◇


 パンタが、ベルを鳴らす。

 タウンハウスの執事が、カードルームの扉を開けた。


 廊下には、紳士淑女たちが待っていた。


「みなさま。どうぞ、お入りになってくださいまし」


 パンタの言葉に、貴族たちがカードルームに入ってくる。

 全員が、四人を取り囲むように立つ。


 やがて。

 辺境伯令嬢のヤスミナレザが口を開く。


「婚約は、戻しません」


 パンタが頷く。


「ですが、一方的な破棄は受けられません」


 彼女はロキオを見る。


「秩序ある婚約解消。それならば、受け入れましょう」


 侯爵家嫡男のロキオは、よろめきながら立ち上がった。


「私は……ヤスミナレザ嬢との婚約を、解消いたします」


 貴族たちの中から、小さなどよめきが起こった。

『破棄』ではなく『解消』。


「侯爵家の事情によるものだからして、辺境伯家には、あたう限りの補償を約束します」


 ロキオの目には涙が浮かんでいた。

 どんな種類の涙なのか、貴族たちにはわからなかった。


「……両家が共同で進めていた事業は、信頼のおける商会を選び、段階的に移管します」


 そして。

 富商の令嬢であるリリャンは、ヤスミナレザの瞳を、今日、初めてまっすぐに見た。


「ヤスミナレザ様。心からお詫び申し上げます。そして、父にお願いして、婚約事業の損失補償も……」


 3時間前。

 自分は勝利者になると信じていた。

 完全な勝利を手に入れるのだ、と。

 今は、違う。

 この3時間で、3人は、3人とも、それぞれなにかを飲み込んだ。


 チリチリチリ!


 懐中時計が、3時間の終了を告げた。


『白の使者』による調停は終わった。


 ヤスミナレザ、ロキオ、リリャン。

 3人がカードルームから退室するとき。

 3人ともが、同じことを思っていた。


 どこから来るのか。

 そして、どこへ帰るのか。

 戦争になりそうな場所に、妖精のように現れて。

 3時間だけ話を聞かせて。

 終われば、手を振って笑っている。

 彼女は、どんなものを見てきた人間なのだろう。


(あの『白の使者』の令嬢は、いったい何者なんだ)


 そして。

 舞踏室から、優雅な音楽が鳴る。

 中断されていた舞踏会が、再開された。

 貴族たちの夜は、これからだった。


 ◇


 婚約は『解消』された。

 そこに勝者はいなかった。


 社交ゴシップ新聞の朝刊には、『前代未聞の婚約破棄劇』の見出しが躍ることだろう。

 口さがない貴族社会では、しばらくはあの3人の噂でもちきりになるだろう。


 予定されていた合同事業計画は、形を変えて生き続ける。

 補償金は支払われる。

 戦争大臣は交替しない。

 辺境伯家の移封もない。

 戦争を望む者だけが、計画を狂わされた。


 ヤスミナレザは、今度こそ、彼女にふさわしい伴侶を見つけられるだろうか。


 誰もいなくなったカードルーム。

 パンタは、食べかけだったケーキをひとかけ、口に運び。

 冷めた紅茶を一口飲んで、微笑んだ。


「『不完全な合意』で十分ですわ」


 窓の外には、朝の気配。

 戦争にならなかった朝。

 誰かの悲鳴を止めた朝。

 男爵令嬢パンタ=レイは、目を閉じる。


 街が動き出す。

 人々が歩いている。

 行き交う荷馬車。

 笑い声が聞こえる。

 市場から、値切る声。

 子どもの走る足音。

 誰かの歌声。

 赤ん坊の泣き声。


 世界はもう一日だけ続いていく。


「おはよう。愛しているわ。全世界のみなさま」

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― 新着の感想 ―
物凄く前世持ちの令嬢が現れたなwwww シリーズで読みたいけど、多作はキツイだろうなぁとも思いました もしまたアイデアが浮かびましたら是非!
読ませていただきました! まず、紛争調停人という職業が実際にあることを、この作品で初めて知りました。 婚約破棄ものは、破棄した側やされた側が後から苦しむ展開をよく見かけます。しかし今回は、そうした…
見事な交渉です、パンタちゃん。 ひと月前くらいにちょうどテレビ番組で紛争を収める交渉人をしている日本の方のお話を見ていて、こんな大変なことを命をかけてしている人がいるんだ!!と思っていたところでした…
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