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『婚約者に浮気された翌朝、隣の年下大学生に「責任取って」と迫られました』

作者: 熾星
掲載日:2026/06/08

 1.目が覚めたら、隣の年下男子がいた

 二日酔いで目を覚ました瞬間、森川遥は自分の頭が野球バットで殴られたみたいだと思った。

 どうにか上半身を起こすと、視界はぼんやりと灰色がかっていた。カーテンは半分だけ閉まっていて、空気には見覚えのない洗剤の匂いが混じっている。

 数秒ぼうっとしてから、ようやく気づいた。

 ここは、自分の部屋じゃない。

 昨夜の記憶は、雨に濡れた紙みたいに、しわくちゃのまま少しだけ浮かび上がってきて、すぐにまた破れていった。

 恵比寿の小さな居酒屋に行ったこと。

 たくさんお酒を飲んだこと。

 泣いたこと。

 誰かが、自分の名前を呼んでいたこと。

 それから——。

「森川さん」

 若くて澄んだ声がした。

 少しだけ寝起きのかすれを含んだ声。

 遥は全身をこわばらせ、ゆっくりと振り向いた。

 隣に、男の子が寝ていた。

 黒い短髪が額に乱れてかかっていて、肌が白く、目がやけにきれいだった。布団で半分顔を隠し、耳の先を赤くしている。その様子は、遥以上にどうしていいかわからないように見えた。

 神谷悠真。

 向かいの部屋に住んでいる大学生。

 遥は目の前が真っ暗になり、危うくもう一度枕に倒れ込むところだった。

 ぎこちなく布団をつかみ、自分の格好を見て、それから彼を見た。

 頭の中で、どん、と何かが鳴った。

 残った考えは、ひとつだけだった。

 向かいの部屋の大学生を、寝取った?

 いや、落ち着け。

 森川遥、二十八歳。

 東京生活誌編集部のカメラマン。

 成人している。働いている。婚約者に裏切られた。酔っていた。

 でも、だからって、二十二歳の大学生に手を出していい理由にはならない。

 神谷悠真は、だんだん崩れていく遥の表情を見ながら、そっと口を開いた。

「昨日の夜、マンションの前で鍵が見つからないって困っていたので、仕方なく俺の部屋に連れてきたんです。でも、森川さんが……」

 そこで彼は言葉を切った。

 耳がさらに赤くなる。

 遥は、完全に終わったと思った。

 両手で顔を覆い、このまま東京から消えて、今夜のうちに北海道へ引っ越したいと本気で思った。

 失恋しただけなのに。

 五年付き合った婚約者の田辺航平は、既婚の女性同僚と浮気していた。

 二人は、三か月後に結婚式を挙げる予定だった。

 その前日の午後、田辺は彼女と一緒に銀座へ婚約指輪を見に行った。夜には「急な残業が入った」と言って別れ、そのまま別の女の部屋へ向かった。

 遥がそれを知ったのは、田辺の車を借りたときだった。

 偶然、ドライブレコーダーの記録を確認した。

 映像はなかった。

 音だけだった。

 けれど、その音だけで、五年間の恋は十分に粉々になった。

 だから遥は恵比寿へ行き、一杯、また一杯と飲んだ。

 ほんの少しだけ自分を堕落させるつもりだった。

 それなのに、目覚めてみたら、その堕落の相手は向かいの部屋の大学生になっていた。

「森川さん、そんなに自分を責めないでください」

 神谷悠真が小さな声で言った。

「俺、もう二十二歳ですから」

「黙って」

「でも……」

「黙って」

「せめて布団を少しください。寒いです」

 遥はぎこちなく布団を彼のほうへ投げた。

 神谷悠真はそれを受け取り、低く笑った。

 その笑い方があまりにも爽やかで、若くて、まるで夏の朝、コンビニの前で開けたばかりの炭酸水みたいだった。

 遥はさらに死にたくなった。

 慌てて服を着て、ほとんど逃げるように彼の部屋を出た。

 自分の部屋に戻ったあと、彼女はソファに座ったまま、長いことぼんやりしていた。

 神谷悠真が向かいの部屋に引っ越してきたのは、去年の冬だった。

 都内の私立大学、経済学部の三年生。

 バスケ部に所属していて、一人暮らし。

 ときどきドライバーやテープ、塩を借りに来る。笑うととてもきれいで、「森川さん」と呼ぶときには、礼儀正しさと親しさのあいだみたいな距離感があった。

 まさか自分が、そんな彼とこんな関係になるなんて。

 午後、LINEが鳴った。

 田辺航平からだった。

「今夜、荷物を取りに行く」

 遥はその一文を見ても、心が少しも動かなかった。

 夜七時、インターホンが鳴った。

 彼女はドアを開け、玄関脇に置いた二つの段ボール箱を指さした。

「あなたのものは、全部ここ」

 田辺航平はドアの前に立っていた。顔色は憔悴している。

 彼は遥を見つめ、かすれた声で言った。

「遥、もう一度だけ話せないか」

 遥は笑った。

「何を話すの? 車の中のこと? それとも彼女の部屋のこと?」

 田辺航平の顔がこわばった。

「俺は本当に君を愛してる。別れるつもりなんてなかった」

「じゃあ、私、お礼でも言えばいい?」

 遥は静かに彼を見た。

「田辺、私たち、もう大人でしょう。最後くらい、ちゃんとして」

「遥……」

「あなたには、その資格がない」

 田辺航平の足音が廊下の奥に消えてから、ずいぶん経って、遥はドアを閉めようとした。

 顔を上げた瞬間、向かいのドアが半分だけ開いているのが見えた。

 神谷悠真がドア枠に寄りかかり、静かにこちらを見ていた。

 表情は淡々としているのに、口元には少しだけ笑みが隠れているように見えた。

 遥はどうしようもなく後ろめたくなり、ばたん、と勢いよくドアを閉めた。

 2.東京生活誌編集部

 二週間後、東京生活誌『Lumière』編集部に、大学生特集の撮影依頼が入った。

 テーマは「新世代の青春の顔」。

 都内の各大学から選ばれた学生たちが、編集部のスタジオに招かれて撮影をすることになっていた。

 その日、遥は別の広告案件で忙しくしていた。

 アシスタントが呼びに来て、ようやく慌ててスタジオへ向かった。

 すでに二人の学生がインタビューを終え、セットの前で待っていた。

 遥は手慣れた様子でライトを調整し、レンズを替え、構図を確認した。

 前の二組を撮り終え、機材を整理していたとき、聞き覚えのある声がした。

「彼女からでいいですよ」

 顔を上げた遥は、固まった。

 神谷悠真がスタジオの隅に立っていた。

 シンプルな白いTシャツに黒いパンツ、肩にはスポーツバッグをかけている。彼は遥を見つめ、目の奥にほんの少しだけ笑みを浮かべていた。

 遥は危うくレンズキャップを落としそうになった。

 平静を装い、撮影案に目を落とす。

 神谷悠真のテーマは、バスケットボールだった。

 先に撮影したのは、チェスの大会で入賞した女子学生だった。名前は清水葵。

 目立つ美人というわけではないが、カメラ映りがとてもよかった。冷静で、知的で、特集の雰囲気によく合っている。

 彼女の撮影にはかなり時間がかかった。途中で本人が撮り直しを希望し、遥は根気よくライトと角度を調整した。

 そのあいだ、神谷悠真はずっと静かに椅子に座り、遥が仕事をする様子を見ていた。

 清水葵の撮影が終わり、彼女が荷物をまとめながら神谷悠真に尋ねた。

「悠真、このあと一緒にご飯行かない?」

 神谷悠真は頬杖をつき、気だるげに言った。

「約束があるんだ」

 清水葵の顔が少し固まった。

 彼女は小さくうなずき、そのままスタジオを出ていった。

 遥はカメラを手に取り、できるだけ仕事用の声で言った。

「バスケのユニフォームは持ってきた? 先にスポーツのカットを撮りましょう」

 神谷悠真はとても素直に、アシスタントについて更衣室へ向かった。

 彼が出てきた瞬間、遥は呼吸を忘れた。

 ゆったりしたユニフォームの下で、肩は広く、腰は細い。腕の筋肉はしなやかで力強く、ライトを浴びた肌は透き通るほど清潔に見えた。

 そこに立っているだけで、夏そのものみたいだった。

 カメラマンとして見れば、完璧なモデルだった。

 女として見れば、森川遥はそれ以上見てはいけないと思った。

 シャッターを切りながら、どうしてもあの二日酔いの朝を思い出してしまう。

 あのときは慌てすぎていた。

 この子の体つきがこんなにきれいだなんて、まったく気づいていなかった。

 二つ目のスタイリングは、白いシャツにライトグレーのカジュアルパンツだった。

 着替えて出てきた彼を見て、遥はまた目を奪われた。

 白いシャツが、彼の清潔で端正な雰囲気を引き立てている。袖口は無造作にまくられていて、少年らしい気配があるのに、完全な少年ではない。

 遥は思わず言った。

「思ったより、カメラ映りがいいのね」

 神谷悠真はそっと笑った。

「俺も、森川さんがカメラマンだとは思いませんでした」

「じゃあ、前は何をしてると思ってたの?」

「わかりません。ただ、帰りがいつも遅いから、普通の九時五時の会社員じゃないんだろうなって」

 遥は、それが褒め言葉に聞こえないと思った。

 撮影が終わったときには、もう夜の九時を過ぎていた。

 編集部には、ぽつぽつと明かりが残っているだけだった。

 二人は一緒に階下へ降りた。

 遥が尋ねる。

「約束があるんじゃなかったの?」

「嘘です」

「よくそんな自然に言えるわね」

 神谷悠真は肩をすくめた。

「彼女みたいなタイプ、好きじゃないので」

「どこが悪いの? 頭もいいし、きれいだし、雰囲気もあるじゃない」

「でも、好きじゃないんです」

 遥は少し笑った。

「君くらいの男の子って、ああいうキャンパスの女神みたいな子が好きなんじゃないの?」

 神谷悠真は彼女を見下ろしただけで、何も答えなかった。

 東京の夜風が、ビルとビルのあいだから吹き抜けていく。

 初夏の湿り気を帯びた風だった。

 遥がタクシーアプリを開くと、前に二十人以上並んでいた。

 彼女はため息をついた。

 神谷悠真が言った。

「電車で帰りましょう」

 遥の体がこわばった。

 彼はそれに気づいた。

「電車、苦手ですか?」

 遥は少し黙ってから言った。

「前に、痴漢に遭ったことがあるの」

 神谷悠真はそれ以上聞かなかった。

 ただ、彼女を連れて駅へ向かった。

 帰宅ラッシュは夜までずれ込んでいて、車内はまだ混んでいた。

 彼は遥の背後に立ち、片手で上の吊り革をつかみ、もう片方の腕をさりげなく彼女の横に置いた。

 人が横から押し寄せるたび、彼は体をずらして遥をかばった。

 腕はずっと彼女に触れない。

 けれど、不快な距離はすべて彼が遮ってくれた。

 遥は彼の体から、かすかなシダーウッドと柑橘の匂いを感じた。

 雨上がりの東京の街みたいな匂いだった。

 マンションの下に着いたとき、遥はドアを開ける前に、思わず言ってしまった。

「一緒に晩ご飯、食べる?」

 神谷悠真が振り向いて、笑った。

「森川さん、料理できるんですか?」

「できない」

 彼女は無表情で答えた。

「ラーメンを作るくらいなら」

 三十分後、神谷悠真は彼女の部屋の食卓に座り、温泉卵と海苔をのせたラーメンを丼ごと抱えていた。

 表情はなんとも言えない。

「これで客をもてなすんですか?」

 遥は冷たく笑った。

「若者は感謝を覚えなさい。コンビニのラーメンも、人と人との縁なのよ」

 神谷悠真は一瞬ぽかんとした。

 まるで彼女の理屈に巻き込まれたようだった。

 遥は少し得意になった。

 冷蔵庫を開け、コーラの缶を一本取り出して彼の前に置く。

 神谷悠真はそれを見た。

「俺、炭酸飲料は飲まないんです」

「男の子でコーラ飲まない人なんているの?」

「運動量が多いので、あまり飲みません。まだ成長期ですし」

 遥は箸を折りそうになった。

「神谷くん、二十二歳でしょ」

「体力測定では、身体年齢十九歳でした」

 彼は優しく笑った。

「森川さん、俺たちは違います」

 遥は彼を丼ごと外に放り出したくなった。

 食べ終わると、神谷悠真はごく自然に食器を片づけ、キッチンで洗い物を始めた。

 遥はソファに丸まり、適当にテレビをつける。

 ちょうど昔のドラマが流れていた。

 神谷悠真は洗い物を終えると戻ってきて、二人はソファの両端に座り、そのドラマを遅くまで見た。

 そのうち遥は眠ってしまった。

 翌朝目を覚ますと、体には薄いブランケットがかけられていた。

 神谷悠真は、もう帰っていた。

 3.年下との恋、どうですか?

 二日後、サンプル写真が仕上がった。

 遥は神谷悠真の分を選び、仕事帰りに向かいの部屋のドアをノックした。

 ドアが開いたとき、神谷悠真は部屋着姿で、髪が少し乱れていた。

「サンプル」

 彼女は封筒を差し出した。

「返さなくていいから」

「少し入っていきませんか?」

 遥は断ろうとした。

 けれど、結局中に入ってしまった。

 前回目を覚ましたときは慌てすぎていて、彼の部屋を見る余裕なんてなかった。

 今になってようやく気づく。

 部屋は意外なほど整っていた。

 本棚には経済学の教科書、バスケットボール雑誌、数冊の推理小説。机の上にはノートパソコンが置かれ、キッチンの天板は男子大学生の一人暮らしとは思えないほどきれいだった。

 寝室のドアが半分開いていた。

 遥はうっかりそのベッドを見てしまい、顔が一気に熱くなる。

 神谷悠真は彼女の視線を追い、ゆっくりと言った。

「あの夜、森川さんが……」

「黙って」

 彼は素直に黙った。

 でも、目だけは笑っていた。

 キッチンでは何かを煮ているらしい。

 遥は卵の匂いに気づいた。

「夕飯、作ってるの?」

「サラダです。あと、ゆで卵」

 遥は少し意外だった。

 キッチンの台にはガラスのボウルが置かれていて、中にはレタス、紫キャベツ、アボカド、ツナが入っている。横にはリンゴ酢の瓶と小さなバゲットがあった。

「毎日こういうもの食べてるの?」

「だいたい。脂っこいものはあまり好きじゃないので」

 遥はつい言った。

「君くらいの男の子って、毎日焼き鳥とか唐揚げとか生ビールが好きなんだと思ってた」

 神谷悠真が急に顔を近づけてきた。

「女神、コーラ、生ビール、焼き鳥……森川さんは、俺くらいの男にどれだけ偏見があるんですか?」

 距離が近すぎる。

 遥は反射的に一歩後ろへ下がった。

 神谷悠真は体を起こし、得意そうに笑った。

 サラダを食べているとき、彼は向かいに座ったまま、ふいに言った。

「実は、ちょっと尊敬してます」

「何を?」

「毎日コンビニ弁当とラーメンを食べてるのに、太ってないところ」

 遥が「ありがとう」と言いかけた瞬間、彼は続けた。

「腰も細いですし」

 彼女の手の中で、フォークが止まった。

 神谷悠真の視線がゆっくり胸元へ落ちる。

 そして、彼は少し笑った。

「つくべきところについてますよね」

 遥はテーブルを叩いて立ち上がった。

「神谷悠真、お金払うから、その夜のことをもう二度と言わないで」

 神谷悠真は顔を上げ、どこか意味ありげに笑った。

「お金ですか? 森川さん、俺、高いですよ」

 遥も負けじと言った。

「一晩いくら?」

 神谷悠真は彼女を見つめた。

 その目が、少しずつ意味深なものに変わっていく。

「あれ、俺の初めてだったんですけど。いくらくらいの価値があります?」

 遥の手からフォークが落ちた。

 数日後、編集部では写真のセレクト会議が開かれた。

 東京生活誌『Lumière』の大学生特集の最終ページを決めるため、遥は数人の編集者と一緒に夜九時半まで写真を見続けた。

 片づけを終えて下に降りる。

 ビルを出たところで、誰かが彼女を呼んだ。

「遥」

 振り向くと、田辺航平が街灯の下に立っていた。

 明らかに、かなり長い時間待っていた顔だった。

 遥は眉をひそめ、タクシーアプリを開いた。

「偶然ね」

「送っていく」

「いらない」

「話そう。頼む」

 田辺航平の声は張りつめていた。

「俺たち、五年も一緒にいたんだぞ。五年の関係を、君は本当にそんな簡単に捨てるのか?」

 遥は彼を見た。

 あまりにも馬鹿げていると思った。

「この関係を終わらせたのは、私じゃない」

「俺は本当に君と結婚するつもりだった」

 彼女は笑った。

「結婚? ふざけないで」

 踵を返そうとしたとき、田辺航平が彼女の手首をつかんだ。

「遥!」

 遥が怒鳴ろうとしたその瞬間、横から伸びてきた手が田辺航平の手首をつかんだ。

「何してるんですか」

 神谷悠真だった。

 白い半袖Tシャツに黒いジャージパンツ、足元には清潔なスニーカー。

 全身がまぶしいくらい若々しかった。

 田辺航平は眉をひそめた。

「お前に関係あるのか」

 神谷悠真の声は静かだった。

「俺の彼女に触ってるんです。関係ありますよね」

 遥は固まった。

 田辺航平は信じていないようで、二人を交互に見たあと、冷たく笑った。

「森川遥、趣味変わったな。今度は子どもか」

 神谷悠真は怒らなかった。

 彼は片手を上げ、軽く田辺航平の頭に置くと、その顔を横へ向けさせた。

「そうですね」

 彼は少し身をかがめ、礼儀正しく、でも挑発的に笑った。

「年下の男の子は、言うことを聞きますから」

 そう言って、彼は遥の手を取り、その場を離れた。

「行きましょう。ご飯食べに」

 かなり歩いてから、遥はようやく我に返った。

「どうしてここにいるの?」

「たまたま通りかかって、彼があなたの会社の下に立っているのを見たんです。たぶん森川さんを待ってるんだろうなと思って、俺も少し待ってました」

 遥は思わず笑った。

「年下の男の子は言うことを聞く、なんて、よく思いついたわね」

 神谷悠真は彼女を見て、不服そうに瞬きした。

「俺、もともと聞き分けいいですよ。あの夜だって、おとなしく……」

「黙って!」

 手を引こうとしたが、彼はさらに強く握った。

 神谷悠真が急に立ち止まった。

 遥は危うく彼の背中にぶつかりそうになった。

 彼は振り向き、夜の中で彼女を見下ろした。

「森川さん」

「何?」

「デートしましょう」

 遥の頭が真っ白になった。

 神谷悠真は目を伏せ、風みたいに軽い声で言った。

「年下との恋、どうですか?」

 4.彼はテーブルをひっくり返しに来たわけじゃない

 それから数日、森川遥はずっと落ち着かなかった。

 神谷悠真の「デートしましょう」という言葉が、呪文みたいに頭の中で何度も響いていた。

 馬鹿げていると思う一方で、廊下で彼に会うのを期待してしまう自分もいた。

 木曜の夜、大沢編集長に呼ばれ、広告クライアントとの食事に同席することになった。

 相手は東京生活誌編集部の重要なスポンサー、黒沢社長だった。

 毎年大きな広告予算を投じてくれる相手で、その金額だけで編集部全員が笑顔になれる。

 遥は行きたくなかった。

「あの社長、お酒が入ると下ネタばかり言うじゃないですか。行きません」

 大沢編集長は両手を合わせた。

「頼む、森川! 向こうが君を指名してるんだ。契約がまとまったら、成功報酬を出す」

 遥は冷たい目で彼を見た。

「この世に、私の笑顔を買えるものなんてありません」

 大沢編集長が絶望しかけたところで、彼女は続けた。

「お金以外は」

 その夜、遥は大沢編集長と広告部の佐藤と一緒に、赤坂の会席料理店の個室に座っていた。

 黒沢社長は深い色のスーツを着て、老狐みたいに笑っていた。

 前半、大沢と佐藤はずっと遥の酒を代わりに飲んでくれた。

 けれど黒沢社長は、彼女の杯がほとんど減っていないことに気づいたらしい。

 にこにこと笑いながら、日本酒を一杯、彼女の前に押し出した。

「森川さん、今日はあまり気分が乗らないのかな?」

 遥は愛想笑いを浮かべた。

「少し胃の調子が悪くて。来る前に薬を飲んだんです」

「いい酒は百薬の長だよ」

 黒沢社長は豪快に笑った。

「少し飲めば、胃も温まる」

 遥が迷っていると、LINEが鳴った。

 神谷悠真からだった。

「まだ仕事ですか?」

 遥は返信した。

「クライアントと食事」

「飲んでます?」

「まだ。でも、そろそろ飲まされそう」

「どこですか?」

 遥は少し迷ったが、結局住所を送った。

 神谷悠真からすぐに返事が来た。

「行きます」

 遥は驚いた。

「何しに来るの? 変なことしないで」

 それきり、彼から返事は来なかった。

 遥の胸はざわついた。

 いちばん怖いのは、彼が若さに任せて乗り込んできて、テーブルをひっくり返すことだった。

 二十二歳の男の子なんて、血気盛んで、社会の怖さも知らない。

 何をしてもおかしくない。

 十数分後、個室の戸が店員によって開かれた。

 遥が顔を上げると、見覚えのある影が入口を通り過ぎ、すぐに戻ってきた。

 神谷悠真が入口に立っていた。

 怒っている様子はまったくない。

 それどころか、顔いっぱいに驚きと喜びを浮かべていた。

「遥? どうしてここに?」

 遥は一瞬固まった。

 演技があまりにも自然で、どう合わせればいいのかわからなかった。

 黒沢社長が彼女を見る。

「こちらは?」

 神谷悠真は中へ入り、品よく微笑んだ。

「遥の彼氏です」

 遥は危うくお茶でむせるところだった。

 大沢編集長の顔には、一瞬で「助けてくれ」と書かれた。

 しかし神谷悠真は、もう遥の前の杯を手に取っていた。

「皆さん、いつも遥がお世話になっていますよね。今日は偶然お会いできたので、まずは一杯、感謝を込めて」

 彼は先に黒沢社長へ、次に佐藤へ、最後に大沢編集長へ酒を注いだ。

 大沢編集長は遥を見た。

 目が必死に助けを求めている。

 遥は視線で示した。

 飲んで。

 黒沢社長は興味深そうに神谷悠真を見た。

「若いの、座って少し話していくか?」

 遥の心が沈んだ。

 終わった。

 黒沢社長が彼を教育するつもりだ。

 けれど、意外にも、神谷悠真は座ってからすぐに黒沢社長と話し始めた。

 大学の経済学の授業から、輸入食品、外食チェーン、広告出稿まで。

 話題を受けるのが、とても自然だった。

 黒沢社長は話すほどに楽しそうになっていく。

 遥と大沢編集長は顔を見合わせた。

 老狐みたいな実業家と、まだ卒業していない大学生。

 どうして何年来の知り合いみたいに話しているのだろう。

 解散するころには、黒沢社長はかなり酔っていた。

 彼は遥の肩を軽く叩き、笑いながら親指を立てた。

「森川さん、この若いの、いいぞ。考えてみてもいい」

 遥は恥ずかしくて地面に潜りたくなった。

 黒沢社長を見送ったあと、大沢編集長が口を開きかけた。

 遥はすぐに手を上げて制した。

「大沢さん、話は明日でお願いします。私たちは帰ります」

 彼女は神谷悠真の手を引き、タクシーに乗った。

 車が少し走ったところで、神谷悠真は急に口を押さえた。

「すみません、停めてください」

 彼は車を降り、街路樹に手をついて吐いた。

 タクシーの運転手はそれを見て、そのまま走り去った。

 遥はため息をついた。

 ずっと無理をしていたのだ。

 彼女はコンビニで水を買い、彼に口をすすがせた。

 それから二人で道路脇に座り、夜風に当たった。

 神谷悠真の顔は青白く、彼は静かに車の流れを見ていた。

「どうして黒沢社長とあんなに話せたの?」

「家が商売をしているので。小さいころから両親について、いろんな人に会ってきました」

 彼は少し笑った。

「話題を合わせるくらいなら、少しはできます」

「飲めないなら、あんなに飲まなくていいのに」

 彼は何も言わなかった。

 遥は低い声で言った。

「来るって言われたとき、本当にテーブルをひっくり返しに来るのかと思った」

 神谷悠真は彼女のほうを向き、そっと彼女の髪を撫でた。

「俺が、森川さんを困らせるわけないでしょう」

 遥の胸が、急に痛くなった。

 笑いたかったのに、うまく笑えない。

 仕方なく顔を背け、道路を見つめた。

 崩れそうな表情を、夜風の中に隠した。

 マンションに戻ると、遥は神谷悠真を部屋まで支え、ベッドに寝かせた。

「まだ吐きそう?」

 彼は首を振った。

 やけに素直だった。

 遥が帰ろうとすると、彼は急に彼女の手首をつかんだ。

「遥」

 初めて、彼が彼女の名前を直接呼んだ。

 遥は固まった。

 酒のせいで、神谷悠真の顔は赤い。

 それなのに、目だけは異様に明るかった。

「年下との恋って、どう思いますか?」

 答える前に、彼に軽く引かれて、遥は彼の腕の中に倒れ込んだ。

「ふざけないで」

「頭がくらくらします」

 彼は目を閉じ、声を柔らかくした。

「抱きしめていたいんです」

 遥は逃げようとした。

 けれど、彼の赤くなった首筋と疲れた目元を見たら、心が弱くなった。

 彼は彼女を抱きしめた。

 吐息には、かすかに酒の匂いが混じっている。

 しばらくして、眠ったと思った遥は、そっと抜け出そうとした。

 けれど、また彼に抱き戻された。

 神谷悠真は目を開け、彼女を見つめた。

「遥、俺、まだ若いので」

 その声はとても軽いのに、とても真剣だった。

「長く追いかけるの、ぜんぜん嫌じゃないです」

 遥は何も言えなかった。

 自分の顔は、きっと彼より赤いと思った。

 彼がゆっくり近づいてくる。

 キスをするのだと思った。

 けれど、最後のところで彼は止まった。

「やっぱり、やめます」

 彼は小さくつぶやいた。

「口の中、酒臭いから。嫌がられそう」

 そして、もう一度彼女を抱きしめ、そのまま深く眠った。

 遥は目を開けたまま、窓の外が少しずつ明るくなっていくのを見ていた。

 年下との恋。

 本当に、ありなのだろうか。

 5.誰があなたをなだめるんですか

 翌朝目を覚ましたとき、神谷悠真はベッドにいなかった。

 遥は体を起こし、痛む肩を揉みながら、昨夜の彼の言葉を思い出していた。

 浴室のドアが開いた。

 神谷悠真が出てきた。

 髪は濡れていて、体にはバスタオル一枚しか巻いていない。

 上半身にははっきりした筋肉の線が浮かんでいて、清潔なボディソープの匂いがした。

 遥は反射的にベッドの上で後ずさった。

 それなのに、目だけは彼の体から離れなかった。

 若いって、すごい。

 彼女は心の中で仏に祈った。

 神谷悠真が笑った。

「着替えるところ、見たいんですか?」

 遥は布団の中に素早く潜り込んだ。

 数秒後、その布団がめくられた。

 神谷悠真が彼女の両側に手をつき、上から覗き込んでいた。

 目には笑みしかない。

「俺のベッド、寝心地よかったですか?」

「ま、まあ……普通」

「照れてます?」

 彼は低い声で言った。

「森川さんくらいの年齢の女性って、体つきのいい男が好きなんじゃないんですか?」

 遥は歯を食いしばった。

「君は、私くらいの年齢の女にどんな偏見を持ってるの?」

「偏見?」

 彼はさらに悪い顔で笑った。

「あの夜、俺の服を引っ張ってたときは、すごく正直でしたよ」

「その話はしないって言ったでしょ!」

「口止め料は?」

 遥は、自分はそのうち本当に彼に殺されると思った。

 翌日、東京生活誌『Lumière』編集部に着くなり、遥はまだカメラバッグも下ろしていないのに、大沢編集長にオフィスへ呼ばれた。

 編集部のガラス張りの小部屋で、大沢編集長はデスクの向こうに座っていた。

 手にはコンビニコーヒー。

 表情は、まるで企画会議でも始めるみたいに真剣だった。

 遥は入口に立ち、警戒した目で彼を見た。

「何ですか?」

 大沢編集長は顔を上げ、声をひそめた。

「森川、昨日の夜のあの若い男の子、誰?」

 遥のまぶたがぴくりと動いた。

 やっぱり。

 この人が昼まで黙っていられるはずがない。

 彼女はカメラバッグを横の椅子に置き、顔色ひとつ変えずに言った。

「向かいの部屋の住人です。子どもがふざけてるだけです」

「住人?」

 大沢編集長は明らかに信じていない。

「向かいの部屋の住人が、夜に赤坂の会席料理店まで駆けつけて、君の酒を代わりに飲んで、黒沢社長の前で自分を彼氏だって名乗るのか?」

 遥は淡々と言った。

「東京の近所付き合いは温かいんです」

 大沢編集長は、さらに信じていない顔をした。

「てっきり君がいつの間にか彼氏を替えたのかと思ったよ。しかも編集長に報告もなしに。昨日みたいなヒーロー登場の展開、俺みたいな年寄りの心臓にはきついんだよ」

 遥は手を差し出した。

「きついと言う前に、昨日約束した成功報酬をください」

「俺の心臓が止まる前に、でしたっけ?」

 彼女は冷ややかに言い直す。

「とにかく、昨日の成功報酬です」

 大沢編集長はすぐにコーヒーを飲み始め、聞こえないふりをした。

 遥は冷たく笑った。

「大沢さん、大人は言ったことを守るものですよ」

「それは広告部の佐藤に言って」

 大沢編集長は素早く責任を投げた。

「契約は向こうの部署の話だ。金も向こうから出る」

「昨日、私の足にしがみついて頼んだのは編集長ですよね」

「あれは編集部内の精神的な激励であって、財務手続きとは関係ない」

 遥は彼をじっと見た。

 ゆっくり目を細める。

 大沢編集長は背中が寒くなったらしく、慌てて立ち上がった。

 彼女の後ろへ回り、オフィスの外へ押し出す。

「はいはい、もう仕事に戻って。若い人は朝からお金の話をしない。お金の話は人間関係を壊す」

 遥は振り向いた。

「私と編集長に、壊れるような人間関係があるんですか?」

 大沢編集長は真顔で言った。

「上司と部下の、貴重な信頼関係だ」

「じゃあ、その信頼関係を現金に換えてください」

 大沢編集長はそのまま彼女をオフィスの外へ押し出した。

「はいはい、佐藤に言って」

 ドアがぱたんと閉まった。

 遥はガラス扉を二秒ほど見つめ、それから自分の席へ戻った。

 アシスタントの小林が顔を出し、小声で聞いた。

「森川先輩、編集長に怒られたんですか?」

 遥はカメラバッグを置き、無表情で答えた。

「違う。あの人、私にお金を借りてるの」

 小林は真顔になり、尊敬するような目を向けた。

「それは、怒られるより深刻ですね」

 その夜、帰宅した遥は、マンションの下で神谷悠真に会った。

 二人は同時に口を開いた。

「どうして今ごろ帰ってきたんですか?」

「どうして今ごろ帰ってきたの?」

 言い終わって、二人とも笑った。

 神谷悠真が言った。

「バスケしてました。森川さんは?」

「残業。退勤後にタクシーが捕まらなかったから、編集部で少し仕事してたの」

「どうして電車に乗らないんですか?」

 遥は少し黙った。

「前に言ったでしょ。痴漢に遭ったことがあるって」

 神谷悠真の表情がわずかに変わった。

 けれど、すぐにいつもの顔に戻る。

「じゃあ、これからは俺が迎えに行きます」

「いいわよ。君の大学、私の会社から遠いでしょ」

「遠くないです」

 彼は彼女を見つめた。

「早く帰ってきてほしいので」

 ちょうどエレベーターが階に着いた。

 二人は前後して降り、薄いグレーのカーペットが敷かれた廊下を歩いて、遥の部屋の前に来た。

 遥は鍵を差し込み、ふいに神谷悠真を振り向いた。

「君くらいの男の子って、みんなそんなに暇なの?」

 神谷悠真は彼女が鍵を回すのを見ながら、自然にドアを開けてやった。

 けれど、すぐに帰ろうとはしない。

 片腕をだらりとドア枠に置き、気だるげにもたれた。

 廊下の照明が彼の肩に落ち、全身を清々しく見せていた。

 彼は笑って言った。

「人によります」

 遥は一瞬黙った。

 たったそれだけの言葉なのに、心のどこかをそっと触られたような気がした。

 急に、少しだけ寂しくなった。

 田辺航平と付き合っていたころ、二人はいつも忙しかった。

 田辺は仕事で忙しく、遥も撮影、写真選び、現場対応で忙しかった。

 一週間に一度も会えないことさえあった。

 LINEでの会話はいつも、「今日は残業」「明日また」「週末も無理かも」ばかりだった。

 あのころ、遥はよく思っていた。

 もし二人とも、まだ学生だったらよかったのに。

 もしまだ若くて、仕事に追いかけられず、住宅ローンや結婚式や双方の親や将来計画を計算しなくてよかったなら、もっとたくさん一緒にいられたのではないか。

 まさか人生でたった一度、その願いが叶うのが、こんなタイミングだなんて。

 神谷悠真はまだドアにもたれたまま、遥と話していた。

 向かいの部屋へ帰る気配は、まったくなかった。

 遥は彼を見て言った。

「つまり、毎日私を迎えに来るつもり?」

「はい」

 神谷悠真はあまりにも自然に答えた。

「毎日、一緒に電車に乗るの?」

「電車には乗りません」

 彼は彼女を見た。

「前回見ていてわかりました。車内に入ってから、森川さん、すごく緊張していたので」

 遥はドアノブを握る手を止めた。

 自分ではうまく隠せているつもりだった。

 帰宅ラッシュの東京の電車。

 人がぎゅうぎゅうに詰まり、足の置き場さえほとんどない。

 肩、腕、知らない人の匂いが混ざるあの圧迫感は、かつて車内で遭った嫌な出来事を思い出させる。

 神谷悠真がそれに気づいていたなんて、思わなかった。

 遥はわざと軽い調子で言った。

「じゃあ、まさか車でも持ってるの?」

 神谷悠真は得意げな顔をした。

「ちょうど、あります」

 遥は少し驚いた。

 向かいに住んで長いが、彼が車を運転しているところなんて見たことがない。

 東京で大学生が車を持っているのも珍しいし、このマンションの周辺は駐車場代だって馬鹿にならない。

「車があっても無理よ」

 彼女は言った。

「うちの編集部のあたり、朝も夜も渋滞がひどくて、新宿駅の乗り換え通路みたいになるんだから。ヘリでもない限り無理。東京生活誌編集部のビルの屋上には、いちおうヘリポートがあるけど」

 神谷悠真はそれを聞いて、声を出して笑った。

「ヘリはないです」

 彼は彼女を見下ろし、目をきらきらさせた。

「二輪ならあります。迎えに行く資格、ありますか?」

 遥は眉を上げた。

「ふうん……ぎりぎり合格」

 神谷悠真はすぐに言った。

「じゃあ、お礼にご飯くらいごちそうしてくれてもいいんじゃないですか?」

 遥は無表情で答えた。

「ラーメンでよければ。コンビニの新作、和牛スープ味」

 神谷悠真は眉を寄せた。

「またラーメンですか?」

「温泉卵を二つつける」

「ぎりぎり合格です」

 そう言うと、彼は遠慮なく彼女の部屋へ入ってきた。

 遥は、彼が堂々とスリッパを履き、まっすぐソファへ向かい、慣れた手つきでリモコンを取ってテレビをつけるのを見ていた。

 まるでこの人は、ずっと前からここに住んでいるみたいだ。

 神谷悠真は、前回見かけたドラマのチャンネルを探し、ソファに寄りかかった。

「前のサスペンス、まだ見終わってないんです。あの奥さん、本当に演技なんですか?」

 遥はキッチンへ向かいながら言った。

「ネタバレしないでよ。私もまだ見てないんだから」

「しませんよ。俺、品のある大学生なので」

「品のある大学生は、人の家でご飯をたかるの?」

「たかります。人によります」

 遥はキッチンで卵を焼き始めた。

 リビングからは、ドラマの登場人物たちが声をひそめて言い合う音が聞こえてくる。

 フライパンの油が小さく跳ね、コンビニで買ったラーメンは横で鍋に入れられるのを待っていた。

 この光景は、妙に穏やかで現実味がなかった。

 まるで彼女は本当に仕事から帰ってきて、親しい誰かと晩ご飯を食べ、ドラマを見るだけの生活をしているみたいだった。

 傷だらけの恋から逃げ出したばかりなのに。

 そのとき、インターホンが鳴った。

 神谷悠真は、彼女以上に自然に、スリッパを引きずってドアへ向かった。

 遥はマンションの管理会社が水道かガスのメーター確認に来たのだと思い、キッチン下の扉を開けてメーターを確認した。

 外に出ながら言う。

「一七二六」

 言い終えた瞬間、彼女は固まった。

 神谷悠真の肩越しに、ドアの前に立つ男が見えた。

 田辺航平だった。

 シャツにスラックス。

 前に見たときより、さらに憔悴していた。

 ドアを開けたのが神谷悠真だと気づき、彼もまた固まった。

 廊下に、短い沈黙が落ちた。

 神谷悠真は遥を振り返った。

 何も言わない。

 ただ、さりげなく半歩だけ彼女のほうへ寄り、彼女を自分の後ろに隠すように立った。

 田辺航平の視線が、神谷悠真から遥へ移る。

 声には緊張が混じっていた。

「遥、お前、本当にこいつと?」

 遥はもう疲れ切っていた。

「田辺、もうつきまとわないで。きれいに終わらせられないの?」

 理解できなかった。

 田辺航平は大人の男のはずなのに、いまだに所有欲で問題をつくり、衝動でそれを解決しようとしている。

 浮気をしたのは彼だ。

 手放さないのも彼だ。

 まるで彼が後悔すれば、すべての傷がなかったことになるとでも思っているみたいだった。

 田辺航平は数回深く息を吸い、神谷悠真を指さした。

「森川遥、お前が俺より大人で、落ち着いてて、金もある男を選ぶなら、俺も納得する。でも、こんな子どもって何だよ。育成ゲームでもするつもりか?」

 遥は冷たく彼を見た。

「あなたには関係ない」

 田辺航平の顔色が変わる。

「こいつはお前で遊んでるだけだ。大学生なんて、今日はお前に優しくして、明日は別の女に優しくする。そんな遊びにつき合う時間が、お前にあるのか?」

 遥は言った。

「あなたには関係ない」

「遥、俺はお前のためを思って言ってるんだ。今どきの若い奴らがどう遊ぶか、お前わかってるのか? お前に扱えるのか?」

 遥は同じ言葉を繰り返した。

「あなたには関係ない」

 その瞬間、神谷悠真がふっと笑った。

 遥と田辺航平が同時に彼を見る。

 神谷悠真は少し笑ってから、まるで真剣に遥に尋ねるように言った。

「今どきの若い男がどう遊ぶか、興味あります?」

 その口調は、あまりにも軽かった。

 まるで最初から最後まで、彼はただ一つの茶番を眺めているだけだったみたいに。

 田辺航平の顔が一瞬で赤くなった。

 ついに刺激されたのか、彼は勢いよく神谷悠真に突っかかり、胸を押した。

「遥に触ってみろよ!」

 しかし神谷悠真はその場に立ったまま、肩ひとつ動かなかった。

 逆に、田辺航平のほうが数歩よろめいた。

 まるで壁を押したみたいだった。

 もともと田辺航平は神谷悠真より背が低かった。

 そのせいで、さらにみっともなく見えた。

 シャツは乱れ、呼吸は荒く、勢いもすっかりしぼんでいる。

 遥は彼を見て、不思議なほどはっきり目が覚めた気がした。

 私は、どうしてこの男を死ぬほど愛していたのだろう。

 田辺航平は神谷悠真には勝てないと悟ったのか、今度はまた遥に向き直った。

「遥、意地を張るなよ。お前もう二十八だろ。結婚相手としてまともな男なんて、これからどれだけ見つかると思ってるんだ。俺が何度も来るのは、お前を愛してるからだ。こういう子どもが、本気でお前を愛すると思うのか?」

 遥は長くこらえていた怒りを、ついに爆発させた。

「帰って」

 そう言うと、キッチンへ駆け込み、手元にあったシリコンのヘラをつかんだ。

 そのまま田辺航平に向かって、容赦なく振り下ろす。

「頭おかしいんじゃないの? まだ私を操れると思ってるの? 情けない男!」

 田辺航平はヘラで叩かれ、何度も後ずさった。

 遥は叩きながら、廊下中に響く声で怒鳴った。

「いい? 田辺航平、私のことはもうあなたに関係ないの! 私がこれから誰と結婚しようと、招待状くらいは送ってあげる。でもその前に、もう一度私の前に現れたら、あなたとあの女のことを全部印刷して、あなたの会社の前に貼るから!」

「車の中の録音、まだ持ってるの。あなたの部署の人全員に送って、ついでに社長にもCCで送ってあげようか?」

 田辺航平は廊下の隅まで追い込まれ、情けないほど言葉を失っていた。

 遥は本当に頭に血が上っていた。

 ここ数日ずっと胸の中に積もっていた悔しさ、気持ち悪さ、怒り、未練。

 その全部が、ヘラを振るたびに外へ出ていくようだった。

 神谷悠真はそばで見ていたが、彼女が十分に暴れたと判断したのか、ようやく後ろからそっと手首をつかんだ。

「もういいです、遥」

 遥は息を切らし、最後にもう一度ヘラで田辺航平の腕を叩いた。

「帰って」

 そして部屋に戻り、ばたん、とドアを閉めた。

 外からはすぐに、田辺航平が逃げるように去っていく足音が聞こえた。

 遥は玄関に立ったまま、まだ激しく息をしていた。

 数秒後、ふと鍋のことを思い出し、慌ててキッチンへ戻った。

 もう遅かった。

 ラーメンは煮詰まっていた。

 麺はぐちゃぐちゃになり、温泉卵も崩れて、見ているだけで腹が立つような姿になっていた。

 遥はその鍋を数秒見つめた。

 そして、全身から力が抜けた。

 ヘラをシンクに放り込み、ソファに倒れ込む。

 もう動きたくなかった。

 神谷悠真が隣に来て座った。

 テレビでは、さっきのドラマがまだ流れている。

 男女が緊迫した、いかにも昼ドラみたいな言い合いをしていた。

 神谷悠真はキッチンを見て、それから遥を見た。

 真剣な顔で言う。

「俺、森川さんには勝てない気がします」

 遥は彼をにらんだ。

「彼にあんなこと言われて、どうして怒らなかったの?」

 神谷悠真は体を横に向け、そっと彼女の髪に触れた。

 その動きは、毛を逆立てた猫をなだめるように優しかった。

「森川さんがあんなに怒ってるのに」

 彼は淡く笑った。

「俺まで怒ったら、誰があなたをなだめるんですか」

 遥は彼を見つめたまま、言葉を失った。

 そのとき初めて、はっきりわかった。

 神谷悠真は、遥が思っていた「二十二歳の男の子」とはまるで違う。

 同世代の男の子にはない、優しさと冷静さがある。

 表面は静かな湖みたいなのに、底がどれほど深いのか見えない。

 しばらく黙ってから、遥はふいに尋ねた。

「神谷悠真、恋愛したことあるの?」

「一度だけ」

「どうして別れたの?」

 神谷悠真は少し考えた。

「若すぎたんだと思います。好きだったのに、どう伝えればいいかわからなかった」

 遥は彼を見た。

「じゃあ、今はわかるの?」

 神谷悠真もまた彼女を見つめた。

 その目は、どうしようもないほど優しかった。

「俺が今わかってるかどうか、森川さんは知らないんですか?」

 遥の心が、かすかに揺れた。

 彼女は目をそらし、わからないふりをした。

 けれど、神谷悠真は逃がしてくれなかった。

「遥、俺は本気です」

 その声は大きくない。

 けれど、揺らがなかった。

「そんなにいろいろ考えなくてもいいんです。俺と一緒にいれば、毎日楽しくさせます」

 遥は下を向いて、少し笑った。

「でも悠真、私はもう、毎日楽しいだけで満足できる年齢じゃないの」

 彼女は立ち上がり、テレビ台の一番下の引き出しを開けた。

 中から小さな指輪の箱を取り出す。

 黒いベルベットの箱を開くと、一カラットのダイヤの指輪が入っていた。

 光がダイヤの面に反射して、やけにまぶしく見えた。

 遥はその指輪を見つめ、静かに言った。

「知ってる? 田辺と別れていなかったら、あと三か月で私たちは結婚していたの」

 神谷悠真は数秒、その指輪を黙って見つめた。

 次の瞬間、彼は急に手を伸ばし、遥の手から指輪の箱を取って、洗面所へ向かった。

 遥は固まった。

 すぐに、トイレを流す音が聞こえた。

 彼女は目を見開いた。

 神谷悠真が空の手で戻ってくる。

 遥はその場で完全に固まった。

 いや、待って。

 あれ、ダイヤの指輪なんだけど。

 まさか本当に流したの?

 たとえ中古のダイヤに値段がつかなくても、プラチナのリング部分だけでけっこう売れるんじゃないの?

「神谷悠真!」

 彼は彼女の前まで歩いてきた。

 けれど、その表情は珍しく真剣だった。

「遥」

 遥は黙った。

 神谷悠真は彼女をまっすぐ見て、一語ずつ言った。

「あなたは、結婚式の祭壇に立って、新しい誰かが歩いてくるのを待っているんじゃないんです」

「いったん、出発点に戻らないといけない」

「そして、別の人と一緒に、そこまで歩いていくんです」

 遥は彼を見つめた。

 この若い男の子は、ときどき信じられないくらい勝手だ。

 彼女の指輪をトイレに流す。

 突然クライアントとの食事に現れて酒を代わりに飲む。

 彼女の見合いの席で、真顔で心臓が悪いなんて言う。

 それなのに、今彼女を見つめる目は、茶化すことができないくらい真剣だった。

 遥は頭を掻き、声を落とした。

「今どきの若い子って……」

 少し言葉を切る。

 そして、つい笑ってしまった。

「本当に、ちょっと勝手ね」

 神谷悠真も笑った。

「じゃあ、慣れてみませんか?」

 遥は答えなかった。

 けれど、今度はすぐに拒まなかった。

 翌日の退勤時、遥は大沢編集長と一緒に編集部のビルを出た。

 下には黒い大型バイクが停まっていた。

 神谷悠真が黒いライダース姿でまたがり、ヘルメットを外して彼女に笑いかけた。

 大沢編集長の顎が落ちそうになった。

「森川、君の隣人、これは自慢しに来たのか?」

「彼とは親しくありません」

 大沢編集長は空気を読まず、神谷悠真のほうへ近づいた。

「お兄さん、森川を迎えに来たの?」

 神谷悠真は堂々とうなずいた。

「道が混むので、早く帰って休んでほしくて」

 大沢編集長は親指を立てた。

「見る目があるな。うちの森川は、気が強い以外は欠点がない」

 遥は彼を蹴って追い払った。

 神谷悠真がヘルメットを差し出す。

「乗ってください」

 東京の街は車で混んでいた。

 けれどバイクは夜風を切って進み、まるで息苦しい日常に細い切れ目を入れるみたいだった。

 遥は後ろに座り、彼の腰にしがみついた。

 顔を背中に寄せる。

 心臓がありえないほど速く鳴っていた。

 彼はそのままマンションへは帰らなかった。

 大学へ連れて行った。

 夕暮れのキャンパスは静かで、ゆったりしていた。

 木陰が道に落ち、学生たちが二、三人ずつ並んで歩いている。

 神谷悠真はヘルメットを外し、ごく自然に遥の手を取った。

 遥は二人のつないだ手を見た。

 振りほどかなかった。

「大学に来るって先に言ってくれたら、かわいいワンピースでも着て、女子大生のふりをしたのに」

 神谷悠真が振り向いて笑った。

「俺、女子大生は好きじゃないので」

 二人はキャンパスの中を長く歩いた。

 子どものころの話、成長した環境、仕事、言いにくい過去のこと。

 いろいろな話をした。

 やがて遥は、空腹に耐えられなくなった。

「ご飯にしない? 今日一日働いたうえに、こんなに歩かされて、もう死にそう」

 神谷悠真は足を止め、彼女の耳元に顔を寄せた。

「俺を食べますか?」

 遥は自分の唾でむせそうになった。

「お姉さんは年だから、君を噛み切れないわ」

 神谷悠真は低く笑った。

「噛まなくていいですよ。口の中で溶けます」

 結局、二人は学生食堂で、あまりおいしくない味噌ラーメンを二杯食べた。

 食べ終わると、神谷悠真は自動販売機の横の売店でガムを買い、二粒口に放り込んだ。

 それから遥にも差し出す。

 遥は尋ねた。

「ずいぶん気を使うのね」

「このあとキスするとき、口の中が味噌味だったら嫌なので」

 夜の中で、彼は悪くてきれいな顔で笑った。

 遥はもう、まったく太刀打ちできないと思った。

 そのとき、女の子の声がした。

「神谷」

 清水葵が少し離れたところから歩いてきた。

 遥に気づいた瞬間、彼女の視線が明らかに止まった。

 けれど、彼女は遥には挨拶しなかった。

 ただ神谷悠真だけを見た。

「張教授が伝えてって。来週の月曜、研究室に論文のことで来てほしいって」

「わかった」

「一緒に時間を決めて行かない?」

「いいよ。自分で教授に連絡する」

 清水葵の視線が、二人のつないだ手に落ちる。

「彼女?」

 神谷悠真は遥を見下ろし、笑った。

「まだ口説いてる途中」

 清水葵の口元に、少しだけ高慢な笑みが浮かんだ。

「まさか年上の女の人が好きだなんて。あなたを追いかけてる子たちが知ったら、泣くでしょうね」

「年上の女の人」という言い方が、妙に刺さった。

 遥は本当なら相手にしたくなかった。

 けれど、職場で何年も揉まれてきた彼女が、その程度の嫌味を聞き流せないわけがない。

 遥はにこりと笑った。

「あなたも私くらいの年齢になれば、若い男の子がどれだけいいか、わかるわよ」

 神谷悠真はこらえきれずに笑った。

 清水葵は顔を曇らせ、そのまま立ち去った。

 神谷悠真が遥に顔を近づける。

「俺、いいですか?」

 遥は反射的に上体を引いた。

「神谷くん、白昼堂々……」

「今、夜です」

「天下の往来で……」

「俺、いいですか?」

 彼が瞬きする。

 遥は、彼からかすかなシダーウッドの匂いを感じた。

 そして心の中で思った。

 この子、たしかにかなりいい。

 6.お見合い相手は逃げ出した

 その夜、遥が部屋に入るなり、母から電話がかかってきた。

「土曜日の午後三時、代官山のカフェね。あなたに会ってほしい人がいるの」

「お母さん、最近そういう気分じゃないの」

「そんなことを言っている暇があるの? あなたもう二十八でしょう。これ以上先延ばしにしたら、条件のいい人なんていなくなるわよ」

 遥は頭が痛くなった。

 彼女はまだ向かいの大学生と曖昧な関係で引っ張り合っている最中だった。

 お見合いどころではない。

 しかし母は、すでに写真を送ってきていた。

 写真の男性は山口慎一という名前だった。

 三十四歳、公務員。

 身長も顔も普通で、少し後退した生え際。穏やかで、人畜無害そうに見えた。

 遥はその写真を見つめながら、頭の中では神谷悠真の顔ばかり浮かべていた。

 金曜日は、東京生活誌『Lumière』創刊二十周年のパーティーだった。

 会場には多くの広告主、スポンサー、取引先が来ていた。

 黒沢社長も、仕立てのいいスーツを着て、シャンパングラスを手にしていた。

「森川さん、今日はきれいだね」

「ありがとうございます、黒沢社長」

 黒沢社長はにこにこと聞いた。

「この前の若いの、今日も偶然、隣で食事してたりしないのか?」

 遥は困ったように笑った。

「ご冗談を」

「あの子はいい」

 黒沢社長は言った。

「話し方も見識も、普通の大学生じゃない。むしろ君のほうが、あまり積極的じゃないように見えるな」

 遥は、彼の目の鋭さに驚いた。

 黒沢社長は彼女の肩を軽く叩いた。

「人生は長い。けれど、本当に楽しいと思える時間は多くない。楽しいと思えるなら、素直に楽しめばいい。最初から結末ばかり考えるな。過程だって大事なんだよ」

 遥は言葉を失った。

 その夜、家に帰ってから、彼女は眠れなかった。

 神谷悠真がいい子だということはわかっていた。

 けれど、自分たちが一緒になってうまくいくかはわからない。

 二十八歳。

 婚約者に裏切られたばかり。

 母はもう見合いをすすめ始めている。

 彼女の生活には、家、車、年収、結婚計画、そして大人が向き合わなければならない現実が詰まっていた。

 一方で、神谷悠真にはまだ余るほどの青春がある。

 土曜日の午後、遥は時間どおりに代官山のカフェに座り、山口慎一と向かい合っていた。

 山口慎一の話し方は、悪くはなかった。

 けれど、話題は仕事からいつのまにか結婚と子どもの話へ移っていた。

「母は、将来子どもは二人ほしいと言っています。できれば男の子と女の子を一人ずつ。森川さんはどう思いますか?」

 遥は笑顔をこわばらせた。

「そういうことは、思ったとおりになるとは限らないと思いますけど」

「森川さんの今のお仕事、雑誌のカメラマンですよね。安定しているとは言いにくいでしょう。結婚したら、しばらく家で子どもを見てもいいんじゃないですか。うちの母も手伝えますし」

 遥は、彼の口が開いたり閉じたりするのを見ていた。

 耳は、もう自動的に閉じていた。

 眠くなりかけたそのとき、カフェのドアが開いた。

 外から日差しが流れ込み、数人の男子学生が入ってきた。

 一番後ろを歩いている、いちばん背の高い人。

 神谷悠真だった。

 遥は反射的に顔を伏せ、テーブルの下に潜り込みたいと思った。

 けれど、神谷悠真はすでに彼女に気づいていた。

 彼は彼女を見て、向かいに座る山口慎一を見た。

 顔から、少しだけ笑みが消える。

 友人たちに何かを言ってから、まっすぐこちらへ歩いてきた。

「偶然ですね」

 彼はテーブルの横に立ち、にこにこと言った。

「ちょうど、あなたのことを考えてました」

 山口慎一は戸惑った。

「こちらは?」

 遥は必死に言った。

「友人です」

 神谷悠真は彼女の前に置かれた飲みかけのコーヒーを見て、すっと手を伸ばしてカップを取った。

「彼女、コーヒーは飲めないんです。心臓があまり強くないので」

 遥は固まった。

 私はいつから心臓が悪くなったの?

 山口慎一も驚いた。

「森川さん、心臓の病気があるんですか?」

 遥は恥ずかしさで足の指が靴の中で丸まった。

「いえ、そんなに重くは……小さな持病というか……」

 神谷悠真は真剣な顔をした。

「何が小さな持病ですか。自分の体を大事にしないと駄目です」

 遥は恐怖の目で彼を見た。

 この人はいったい何をするつもりなの?

 少し離れたところで、彼の友人が呼んだ。

「悠真、行くぞ」

 神谷悠真はため息をつき、遥の髪を軽く撫でた。

「お見合いの邪魔をしてすみません」

 去り際、彼は友人から受け取ったミネラルウォーターを彼女の前に置いた。

「これを飲んでください」

 彼が去ったあと、山口慎一はその水のボトルを見つめた。

 表情がどんどん微妙になっていく。

「森川さん、心臓が悪かったんですね。紹介者からは聞いていませんでした」

「そんなに重くは……」

 十分後、一男一女の子どもを夢見ていた見合い相手は、そそくさと逃げるように去っていった。

 夜、マンションに戻ると、廊下は静かだった。

 向かいのドアは閉まっている。

 遥は、神谷悠真が去るときに言った「お見合いの邪魔をしてすみません」という言葉を思い出し、急に胸が痛くなった。

 母からLINEが次々と届く。

「どういうこと?」

「あなた、外でどんな人たちと付き合っているの?」

「あなたは本当に結婚する気があるの?」

 遥は我慢できず、返信した。

「大学生の男の子に追われてるのに、どうして私が一生ひとりってことになるの?」

 数秒、相手は黙った。

 そして、母から返信が来た。

「それを早く言いなさいよ! どれだけ心配したと思ってるの!」

 遥はスマホを見つめ、言葉を失った。

 7.お姉さん、俺、言うこと聞きます

 それから数日、神谷悠真は彼女を迎えに来なくなった。

 LINEも減った。

 遥は編集部の自分の席で机に突っ伏してぼんやりしていたところを、大沢編集長に見つかった。

「森川、サボるならもう少し目立たないようにしろ。新人が見たらどう思う」

 遥はまぶたも上げずに言った。

「私が残業しているとき、編集長は残業代を出してくれましたか? 新人が見たらどう思うでしょうね」

 周囲から小さな笑い声が上がった。

 大沢編集長は見事に返り討ちにされ、仕方なく彼女をオフィスへ呼んだ。

「君、あの隣人と……その、近所トラブルでも起こしたのか?」

 遥は心の中で思った。

 さすが編集者、言い方が回りくどい。

「起こしてません。ご近所付き合いは円満です。助け合い、譲り合い、地域社会の模範です」

 大沢編集長はまったく信じていない顔をした。

「彼、最近迎えに来ないじゃないか」

 遥は椅子を引いて座り、無表情で言った。

「この前の成功報酬、今すぐください。古い札で、連番じゃないものを」

 大沢編集長は即座に手を振った。

「何でもない。仕事に戻って」

 その夜、遥が家に帰ると、エレベーターを降りたところで神谷悠真の部屋のドアが開いているのが見えた。

 胸がなぜか大きく跳ねた。

 何を言おうかと考えた瞬間、若い女性が彼の部屋から出てきた。

 短いスカートをはき、手には袋を持っている。

 彼女は明るく振り返って「ありがとうございました」と言った。

 神谷悠真がドアの内側に立っていて、ちょうど遥と目が合った。

 二人は同時に固まった。

 遥はすぐに目を伏せ、自分の部屋のドアを開けて逃げ込んだ。

 ソファに座ったまま、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 新しい彼女?

 そうだよね。

 あれだけ何度も拒んだのだから、彼が同い年の女の子を選び直したって、何もおかしくない。

 年下との恋なんて、もともと現実的じゃない。

 それでいい。

 もう悩まなくていい。

 そう思っているうちに、涙が落ちた。

 遥は顔を腕に埋めた。

 そしてようやく認めた。

 自分は、とても悲しいのだ。

 しばらくして、ドアがノックされた。

「遥」

 神谷悠真の声だった。

 遥は目元を拭き、ドアを開けた。

 神谷悠真が立っていた。

 にこにこと笑っている。

「一緒にご飯食べませんか?」

 彼女が断ろうとする前に、彼はもう手を取って、向かいの部屋へ連れていった。

「私、サラダは食べたくな……」

 言いかけて、彼女はテーブルの上を見た。

 焼き鳥、唐揚げ、枝豆、生ビール。

 ずらりと並んでいた。

 遥は固まった。

 神谷悠真は彼女を座らせた。

 夕食は、奇妙な沈黙の中で進んだ。

 遥は気まずさをごまかすために、ビールを飲み始めた。

 一杯。

 二杯。

 神谷悠真が眉をひそめる。

「ゆっくり飲んでください」

「大丈夫」

 彼女は自分の部屋の鍵をテーブルに置いた。

「酔ったら、私を自分の部屋に放り込んでおいて。もう君に手を出さないから」

 神谷悠真が吹き出した。

 遥は尋ねた。

「どうして急にこんなの食べてるの? 脂っこいもの、好きじゃないんじゃなかった?」

 神谷悠真は彼女を見つめた。

 数秒だけ、静かになった。

「森川さんが思っているような男になれば、好きになってもらえるのかなと思って」

 遥は固まった。

 さっきの女性のことを思い出し、どうしても聞いてしまった。

「さっき、君の部屋から出てきた女の子……」

 神谷悠真は瞬きをして、彼自身も少し固まった。

「あれですか? 向かいの居酒屋の店員さんです。出前を持ってきてくれたんですよ」

 彼はテーブルいっぱいの焼き鳥を指さした。

 遥は硬直した。

 そんなに大きな誤解だったの?

 神谷悠真はすぐに気づいたらしく、目を輝かせた。

「誰だと思ったんですか?」

「別に」

「俺に彼女ができたと思いました?」

「違う」

「嫉妬しました?」

「してない」

 神谷悠真は立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出した。

 遥が避けるより早く、唇を塞がれた。

 彼のキスは最初、とても軽かった。

 試すようだった。

 それから少しずつ、本気になっていった。

 遥の心臓は乱れ、体全体が夜風にほどけていくみたいだった。

 自分は二十八歳の大人なのに、二十二歳の男子大学生のキスに、どうしていいかわからなくなっている。

 神谷悠真は彼女の唇に触れたまま、低く言った。

「もう、お見合いに行かないでください」

 遥は彼を見上げた。

「私、お見合いしてるとき、そんなに変だった?」

「変でした」

「じゃあ、いつならいいの?」

 神谷悠真は彼女を抱きしめ、優しく笑った。

「俺といるときです」

 遥は彼を見つめた。

 すると、今まで抱えていた迷いが、少し遠くへ行った気がした。

 神谷悠真が言った。

「お見合い、うまくいかなかったんですよね?」

「君が壊したの」

「じゃあ、俺が責任取ります」

「どうやって?」

 彼は彼女の耳元に顔を寄せた。

 声はとても低かった。

「秘密を教えます。前の夜、森川さんは飲みすぎていて……何もしてません」

 遥は目を見開いた。

「神谷悠真!」

 ようやく気づいた。

 この子は彼女をだまして、ずっと罪悪感を抱かせていたのだ。

 怒ろうとした瞬間、神谷悠真はもう彼女の首筋に顔を埋めていた。

 声が柔らかくなる。

「でも、今日は……いいですよ」

 遥の心臓が、一拍止まった。

 押し返す前に、彼にもう一度キスされた。

 窓の外には、東京の夜景が静かに広がっていた。

 遠くで電車の走る音がする。

 ベランダの隙間から入ってくる風には、初夏の湿り気が混じっていた。

 その夜、遥はもう逃げなかった。

 翌朝、目を開けると、神谷悠真が隣で寝ていた。

 彼は横向きになり、まっすぐ彼女を見つめている。

 目はきれいで、正直だった。

 遥が目覚めたのに気づくと、彼の耳が少し赤くなった。

 それでも笑った。

 遥は反射的に布団を抱きしめた。

「昨日の夜、私、酔ってた」

 神谷悠真は眉をひそめた。

「森川さんが酔ってるときは、あんな感じじゃありません」

「……」

「遥」

 彼は少し近づき、拗ねたような声を出した。

「もしかして、俺に責任取る気ないんですか?」

 遥は完全に戸惑った。

「じゃあ、どう責任を取ればいいの?」

 神谷悠真は彼女の胸元に顔を埋めた。

 柔らかい髪が首筋をくすぐる。

 遥は手で彼を押した。

「やめなさい」

 けれど彼は彼女を抱いたまま、低く甘えるように言った。

「お姉さん、俺、ちゃんと言うこと聞きますから」

 遥は完全に負けた。

 東京の朝の光がカーテンの隙間を通り、床に落ちている。

 遥はふと思った。

 年下との恋も、思っていたほど怖くないのかもしれない。

 少なくとも今、この瞬間、彼女は幸せだった。

 人生は長い。

 けれど、本当に楽しいと思える時間は、そう多くない。

 だから今回は、結末ばかり考えるのをやめようと思った。

 まずは、目の前にいるこの人の手を取る。

 そして彼と一緒に、出発点からゆっくり歩いていく。

 完

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