第四章「断たれた絆」
信じることは、
ときに守るための行為であり、
ときに、誰かを突き放す選択でもある。
直樹はこれまで、
兄貴を信じ、
セラフィの言葉を信じ、
そして自分自身の判断を信じてきた。
だが、そのすべてが、
同じ方向を向くとは限らない。
クリスマスイブ。
静かであるはずの夜に、
彼は初めて「疑う」という選択肢に手を伸ばす。
これは、
絆が断たれる物語であり、
同時に、守ろうとした者たちの物語でもある。
――12月24日 夕方
事務所の空気が、明らかにおかしかった。
電話が鳴らない。
雑音がない。
それが、逆に不気味だった。
俺は呼び出され、兄貴の前に立っていた。
左手の包帯が気になる。
「……話がある」
短い一言。
それだけで、嫌な予感が胸を締めつける。
セラフィは、肩の辺りで静かに浮かんでいた。
珍しく、何も言わない。
「直樹。
お前、この仕事をやってくれ」
兄貴は机の上に、一つの封筒を置いた。
「ここに書いてある物を受け取ってこい」
「……中身は?」
「聞くな」
それだけで、十分だった。
聞くなというのは、つまり――
聞いたら戻れなくなる仕事だ。
「場所は?」
兄貴は、地図を一枚差し出した。
見覚えのない倉庫。
だが、嫌な噂だけは以前、耳にした気がした。
「行け」
それ以上の説明はなかった。
事務所を出ると、セラフィがようやく口を開いた。
「……直樹さん」
「ああ」
「この仕事は、何か危ない仕事なのでしょうか?」
「なぜ、そう思う?」
「……兄貴さんが」
歯切れが悪い。
「色が、とても濁っていたんです。
何か、不安が溜まっているような」
「またそれか」
吐き捨てるように言う。
「だがな、断れる仕事じゃねぇ」
「そうなんですね……」
セラフィを助手席に乗せ、俺はハンドルを握った。
車を走らせながら、胸の奥に引っかかるものがあった。
確かにセラフィの言うように、
兄貴にいつもと違う雰囲気があったのは、俺でもわかる。
先日のこともあるからか……。
そして――
俺を遠ざけるような目をしていたこと。
「なぁ、セラフィよぉ」
車で移動するとき、
セラフィに話しかけるのが習慣になっていた。
特に今のような、モヤモヤしたときなど、
気を紛らわせるのに丁度よかった。
「なんでしょうか?」
「幼い頃に、偶然人と会ったことがあるって言ってたよな。
だから、また人間に会うのが夢だったってさ」
「えぇ。ずいぶん前の話ですが……」
「ずいぶんって、戦国時代とか、白亜紀とかか?」
「いえ、そんなに昔じゃないですよ。
二十年くらい前のことです」
「でも、人間に関わるのは厳禁だったんだろ?」
「好奇心旺盛だったんです。
初めて人間の話を聞いたとき、
居ても立っても居られず、
つい禁を破って、この世界を見に来てしまいました」
そう言いながら、苦笑いする。
「偶然って言ってたけど、相変わらず強引だな。
それで、どうなったんだ?」
「小さな鳥に変身して、人を眺めていたんですけど、
突然、猫に襲われてしまって……」
「大丈夫だったのか?」
「もうダメかと思った、そのとき、
偶然通りかかった少年が、助けてくれたんです」
「猫相手にか?」
俺も昔、そんなようなことがあったな。
弱い生き物が追い詰められているのを見ると、
なんとなく助けたい気分になるというか。
猫からしたら、餌を奪われただけなんだけどな。
そういや、この小さな手の傷も、
そのとき猫にやられたんだっけか……。
「そうです。
少年は一生懸命に棒を振り回して、猫を追い払ってくれて。
そのあとも、羽を痛めた私を、優しく介抱してくれて」
遠い目をして話すセラフィを見て、
少し懐かしい気持ちになった。
そうこうしているうちに、町外れの倉庫へ到着する。
今は使われていないのか、外装もボロボロだ。
しかし中には、既に人の気配があった。
だが、それは想定していた“大人”ではなかった。
「……子供?」
薄暗い倉庫の中。
そこにいたのは、数人の少年少女だった。
「お前達……先日の」
あの時の――
闇バイトの件で見た、子供たち。
「なんで、ここに……」
セラフィが、息を呑む。
次の瞬間。
赤色灯が、闇を切り裂いた。
「警察だ! 動くな!」
完全に、囲まれていた。
「……クソッ」
罠だ。
誰がどう見ても。
子供たちは、震えながら俺を見る。
「おじさん……」
机にあったアタッシュケースを手に取り、
子供たちと、倉庫の奥へ隠れる。
警官隊は、眩しいライトを向け、
包囲を狭めてくる。
こっちは子供たちもいる。
さすがに、逃げられないか?
――いや。
こっちには、セラフィがいる。
それなら……。
「セラフィ。
上から誘導してくれ。
見つからないように逃げるぞ!」
「はい!」
そうだ。
セラフィの姿は誰にも見えないし、
声も誰にも聞こえない。
それなら、頭上から警官隊の死角を突ける。
「こっちです、直樹さん!」
思った通り、俺たちは警官隊の間を、
スルスルと抜けていった。
しかし、脱出できそうな窓まで、あと少しというところで――
カランッ……。
子供の一人が、落ちていた鉄パイプにつまづく。
「……っ?」
「そこか!」
警官隊は一斉に、ライトをこちらに向ける。
「セラフィ!」
「おまかせくださいっ!」
セラフィが両手を掲げる。
すると、凄まじい光が警官隊を照らした。
いわゆる後光というやつか。
まるで閃光弾のように、目を眩ませた。
「今です、直樹さん!」
「よし!
お前達、窓まで走れっ!」
なんとか倉庫から抜け出し、
子供たちと、狭い路地へと駆け込んだ。
空から降りてきたセラフィの手を取る。
「ありがとう、セラフィ。
助かったよ」
セラフィは、じっと俺の手を見ていた。
「ん? どうした?」
はっと顔を上げる。
「いえ。
すぐに、ここから離れましょう」
なんとか追っ手を撒く。
だが――
逃げ切った瞬間、胸に湧いたのは、安堵じゃなかった。
「……兄貴が、俺を売った」
その言葉が、自然と口から出た。
セラフィが、何か言いかけて――
止める。
「……偶然かもしれません」
「そんなわけないだろう」
吐き捨てる。
「到着するなり、警官隊に囲まれた。
場所も、時間も、全部出来すぎだ」
「ですが、あのとき兄貴さんは、
直樹さんを陥れようとはしていませんでした」
「いつもの、色でか?」
「はい」
だが、俺は納得できず、拳を握りしめた。
夜の冷気が、肺の奥まで刺さる。
子供たちは、いまは別の場所で眠っている。
俺は一人、倉庫街の外れに停めた車の中で、
足元に置いたアタッシュケースを見下ろしていた。
中身は、白い粉だ。
――麻薬。
兄貴が、俺をここに行かせた理由。
警察が、あのタイミングで踏み込んできた理由。
全部、偶然じゃない。
「……やっぱり、切られたんだな」
口に出すと、胸の奥がひりついた。
先日の失敗が、大きく響いていたのか。
俺は、そう思ってしまった。
セラフィも、今は何も言わずに黙っている。
いくつかの疑問を口にしていたが、
今回は、あまりにも結果が酷い。
セラフィがいなければ、
俺も子供たちも、麻薬所持で逮捕されていた。
「……なぁ」
ポツリと呟く。
「結局、この世界には、
そもそも信じられるやつなんて、
誰もいないのかもな」
ガチャリと、アタッシュケースを開ける。
中の袋を一つ、取り出した。
全部じゃない。
ほんの一部だ。
それで十分だ。
まず、島の外れにある、
松下組と昔から付き合いのある倉庫。
もう使っていない、
名義だけ残っている場所。
そこに、少しだけ“置く”。
次に、情報だ。
直接じゃない。
俺は、そんなに馬鹿じゃない。
昔、組を抜けた男。
今は、どこにも属していない。
だが、噂話だけは一人前に回す。
そいつに、こう言う。
「松下の若いのが、
最近、妙な動きしてる」
「ガキ絡みで、
変なブツを掴んだらしい」
それだけだ。
名前は出さない。
断定もしない。
だが――
“匂い”は残る。
次は、別の島の下っ端。
酒の席で、
独り言みたいに、ぼそっと。
「松下のとこ、
麻薬組織と揉めてるらしいぞ」
あとは、勝手に膨らむ。
俺がやるのは、
火をつけることじゃない。
風向きを変えるだけだ。
親組織は、必ず嗅ぎつける。
松下組が、
麻薬組織と繋がっている“可能性”。
子供を使っている“疑惑”。
統制が取れていない“兆候”。
それだけで、十分だ。
「……あんたが、俺を切るなら」
俺は、アタッシュケースを閉めた。
「俺も、戻れねぇ場所まで行く」
これは、復讐だ。
俺は、車のエンジンをかけた。
夜の街へ、
ゆっくりと走り出す。
この一歩で、
松下組も、兄貴も、
もう後戻りできなくなる。
それを、わかっていて――
俺は、やった。
遠くで、教会の鐘が鳴る。
クリスマスイブの夜が、
静かに始まろうとしていた。
――第四章 完
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第四章では、
直樹が初めて「兄貴を信じない」という決断を下します。
それは裏切りであり、同時に、彼なりの復讐でもありました。
兄貴は何も語らず、
セラフィはすべてを理解しきれず、
直樹だけが、結果だけを背負う。
誰も間違っていないのに、
誰かが必ず傷ついてしまう――
そんな状況を、あえて正面から描いています。
この章で起きた出来事は、
次の章で大きく形を変えて返ってきます。
信じた結果、何を失ったのか。
そして、信じなかった結果、何が守られたのか。
その答えは、
クリスマスの夜に、明らかになる予定です。
次章も、お付き合いいただければ幸いです。




