【6】甘い執着
ドクター・ピーナは毎朝診察してくれて、その日のリハビリ計画を立ててラファエル様に伝達する。真剣な表情でそれを聞くラファエル様の姿を見るのも、もはや毎朝のルーティンとなっている。
目覚めてから1週間ほどした頃には生命維持装置のチューブが外され、体を動かすリハビリが始まった。といっても、いきなり運動なんてできるわけがないから最初は少しずつだ。ベッドで身を起こした状態で両手をグー・パーする練習や、補助を受けながら手足を曲げ伸ばしして筋肉を動かす練習など。
小さなことから、一歩ずつ。私は、毎日リハビリをがんばっていた。
「アルシュバーン侯爵閣下。本日より、エルダ様のお食事の噛み応えを一段階引き上げましょう。これまでのムース状から、軟粥へとお進め下さいませ。日中のリハビリは握力を付けるトレーニングと、音の刺激に馴れるための語り掛けをお願いいたします」
「わかった」
ドクター・ピーナの診察のあとは、リハビリの時間が始まる。私の体調を気遣ってこまめな休憩を挟みながら、ラファエル様が私のリハビリに付き合ってくれる。
そう。……ラファエル様が毎日、じきじきに。
「シスター・エルダ。それでは今日のリハビリを始めましょう」
きらきらきら。と音が出そうなくらいご機嫌な笑顔を浮かべて、彼は今日も私のリハビリを手伝ってくれようとしている。
(……今さらだけど。どうして毎日ラファエル様が私に付きっ切りなの?)
目覚めてからもうすぐ2週間くらいになると思うのだけれど、ラファエル様は朝から晩までほとんど私に付きっ切りだ。
(介護ってメイドや侍女の仕事だと思うのよね。少なくとも、侯爵家当主が行うことじゃないはずなのに)
どうしよう、ラファエル様の献身が止まらない。
握力を回復させる練習や、ベッドで体を起こす練習。そういった地道なリハビリを、ラファエル様はいやな顔ひとつせずに手伝ってくれるのだ。生き返らせてもらった挙句に介護させるだなんて、私ってばラファエル様に迷惑かけすぎよ……。
「まずは握力トレーニングをしましょう。いつものように、私の手を握ってみてください」
そう言って、ラファエル様は何度も何度も手を握らせてくれる。
「よくできましたね。とても上手です」
(どうしてそんなに幸せそうな顔ができるの……? どう考えても面倒な作業なのに。この人、本当によくできた人ね)
伝わってくる感触は少年のころの柔らかな掌ではなく、成人男性のしっかりとした掌だった。その厚みに、年月の経過を感じてしまう。
子どもの頃の『レイ』ならともかく、今の彼は国内有数の上位貴族のご当主なのだ。申し訳なさが込み上げてくる。
――あの。どうか私のことはお構いなく。
そう言いたかったけれど、上手に声を出せない私は、困り顔で彼を見つめることしかできない。
「? 何か言いたそうなお顔ですが、どうしたのですか? シスター」
「あ、ぅ、……(あの。どうか私のことはお構いなく)」
「ああ、わかりました。お腹が減ったんですね。粥をお持ちします」
(全然伝わってない!!)
何を話そうとしても、赤ちゃんの喃語みたいになってしまうからもどかしい。
(早くしゃべれるようになりたい……!)
だから、話す練習がスタートしたときは本当に嬉しかった。会話ができないというのは、正直かなり不便なのだ。
「アルシュバーン侯爵閣下。今日から、エルダ様の発話トレーニングを始めましょう。最初の数日間は、衰えてしまった喉の筋肉を鍛えるトレーニングを行います。その後は段階的にアルファベットの発声、単語の発音、簡単な会話練習へと進めて参ります」
たどたどしく会話ができるようになるまでには、数週間の日数を要した。しかし、やはりラファエル様は毎日献身的に付き合い続けてくれている。
今もこうして、ラファエル様の唇の動きに合わせて発声練習をしている真っ最中である。
「How do you do?」
「How……do, you…………do?」
「It’s a pleasure to meet you.」
「It’……s……a, plea……sure…………, to, meet……you.」
彼が言い、私が真似をするという繰り返しだ。発音が崩れているときは指摘して、良くなるまで根気強く付き合ってくれる。
「上手ですよ、シスター・エルダ。ですが、pleasureの“a”の発音はもう少し力を抜くと良いです」
失礼しますね――と言いながら、彼は私の頬にそっと両手を添えた。厚みのある掌の温もりに頬を挟まれて、反射的に体がびくりと跳ねてしまう。
「ああ、やはり頬に力が入り過ぎていますね。舌の力を抜いて、もっと柔らかく」
「……こう……ですか」
「良い感じです。それではもう一度、私の口の動きを真似してみてください。It’s a pleasure to meet you.」
「……It’s a ……pleasure ……to meet you.」
「そう。とてもきれいな発音ですよ、シスター」
私の頬を両手で挟んだまま、ラファエル様はとろけるような笑顔を咲かせた。
(き、距離が近いっ!)
大人になったラファエル様のきらきらぶりは、眩しすぎて目の保養にはなりえない。
なぜか、顔がかぁ――と熱くなってしまった。
(ちょっと、何どきどきしてるのよ、私!)
親代わりだった私が、この人におかしな感情を抱くことなどあり得ない。それでも眩い美貌のせいで、条件反射で心臓が跳ねてしまうのだ。……至近距離の美男子は心臓に悪い。
(しっかりしなさい、エルダ! さんざん迷惑かけ続けている挙句にときめくとか、どう考えても非常識よ!)
非常識だし、みっともないし情けない。
だから私は、今日こそはラファエル様に伝えることにした。
「…………あの」
たどたどしい声で、私は彼に呼び掛けた。連日のトレーニングのおかげで、簡単な会話くらいはできるのだ。
「ラファエル……さま……」
昏睡から目覚めて以来、初めて彼の名を呼んだ。
いきなり呼ばれて、ラファエル様はびっくりしたようだった。紫水晶のような目を大きく見開いて静止していたが、やがて優しく微笑みながら私を見つめた。
「はい。何でしょうか、シスター・エルダ」
「あの。……もう、わたし、に…………かまわないで、ほしくて」
私がそう言った瞬間、彼の美貌が強張った。繊細なガラス細工にひびが入った瞬間のような、『ぴしり』という音が聞こえた気がする。
……傷つけてしまった? そう気づいて、私は慌てた。
「ご、ごめんな、さい……」
ラファエル様はひどく悲しげな顔をしていたけれど、すぐにその表情を搔き消した。平静な声音で、私に尋ねてくる。
「かまうな、とは? シスターは、私の介護がご不満でしたか?」
「ちがい、ます。……もうしわけ……なくて……」
「?」
たどたどしくしか喋れないのがもどかしい。できるだけ気持ちをしっかり伝えたくて、私はまっすぐ彼を見つめた。
「だって、……あなたは、いそが、しいのに」
私がそう言うと、ラファエル様は安堵したような笑みを浮かべた。
「なんだ。そんなことを気にしていたんですか? 安心してください。侯爵家当主としての執務も、滞りなくこなしていますよ。それにシスター・エルダの介護は、私自身の望みですから。どうかこの権利を、私から取り上げないでください」
「でも……」
「シスターは私を弄ぶのが上手いのですね。ようやく話せると思って喜んでいたのに――」
そう言うと、ラファエル様は意地悪っぽい笑みを浮かべた。子どもの頃のレイはそんな笑みを見せたことはなかったから、思わずぞくりとしてしまう。
「十年ぶりの会話が『かまうな』だなんて、私は寂しいです。それにもう、レイとは呼んでくださらないんですか?」
「こどもの、ころとは、……ちがいますから」
彼は寂しそうに笑った。
少年時代の面影を見て、ちくりと胸が痛くなる。
「……分かりました。あなたに『一人前の男』とみなしてもらえたと解釈しましょう」
ベッドサイドに手をついて、彼は私を真正面から見据えた。
「シスター・エルダ。今の私はアルシュバーン侯爵家の当主であり、あなたを庇護する立場にあります。長い眠りについていたあなたには受け入れがたいことかもしれませんが、これが現実です」
つまり……と、一呼吸おいてから彼は言った。
「私の庇護下にある限り、あなたは私に従わなければなりません。引き続き、私の介護を受けてください。これは、命令です」
「…………っ」
有無を言わせないその風格に、私は何も言い返せなくなってしまった。かつて『レイ』だった彼は、私が眠っている間に立派な貴族としての成長を遂げていたのである。
(なんせ、十年だものね。あのかわいかったレイが、命令だなんて……すっかり大きくなって)
ラファエル様はご自身の『望み』という建前でこれからも付き合ってくれるらしい。自分に拒否権がないことが分かり、私はこくりと頷いていた。
部屋の中に、沈黙が落ちた。……その沈黙は、どれほどの長さだっただろう?
やがて、彼は静かに口を開いた。
「I missed you. I will never let you go again.」
「え?」
「発声練習ですよ。続けて?」
発声練習にしては、少し長くて難しい。
――会えずに寂しかった。
――二度と放さない。
(これって、ただの発声練習なのよね……?)
「I ……miss……ed ……you. I ……will ……never ……let you ……go ……again.」
拙い発音で私が反復すると、ラファエル様はにっこり笑った。
「よくできました」
さて、それでは次の練習に移りましょう――そう言って、彼は私のリハビリを続けた。