【21】元婚約者との遭遇①
(ま、まずい。カフェは親子でもありだけれど、ジュエリーサロンは流石にないわ……)
うっかりお店に入ってしまったけれど、なんとかして立ち去らなければ……。
「レイ。やっぱりここは、やめましょう。だってジュエリーサロンって、特別な人と行く場所だもの。私みたいなどこの馬の骨とも知れない女とあなたが出入りするのを見たら、きっと胸を痛める女性もいるはずよ……?」
たとえば、婚約者の方とか……。という言外の意味を込めて、私は彼に言った。しかし、
「僕にとっては、あなたこそが特別な人です」
「……!」
「見られて困るようなことではありませんし、むしろ私達の仲睦まじい関係を国中に見せつけたいのが本音です」
どうしよう、レイが全然『親離れ』できていない。親孝行のレベルを越えている気はしていたけれど、まさかここまで重症だったとは。きらびやかな宝飾品を目の当たりにして、私はすっかり血の気が引いていた。
(……と、ともかくジュエリーサロンはアウトだわ。適当なところでレイを納得させて、切り上げないと)
「わ、わぁ……きれいねぇ。眼福だったわ、私はもう満足よ。帰りましょう?」
しかしレイはすでに店員を呼び寄せていた。
「彼女に合う指輪を見立てて貰いたい。サイズは8号。ゴールドよりはプラチナ系で。石は、鮮やか過ぎず深みのあるブルーを」
「かしこまりました」
「ちょっと、レイ? 私の指のサイズなんていつの間に……」
「まあ、あなたは10年眠っていましたからね。時間は十分にありました」
「はぁ……!?」
そうこうするうち、店員はサロンの奥からトレイに乗せて指輪を運んできた。繊細なカッティングを施されたサファイアやタンザナイトなどが並べられている。レイはその中からひとつを取った。
「エルダ、指を貸してもらえますか」
「でも……」
「ただの試しですよ。気軽に――ね?」
気さくな口調でそう言うと、レイは私の左手を取って、薬指に指輪を嵌めた。驚くくらいに、サイズもデザインも指に馴染んだ。
「やっぱり似合いますね。あなたの髪は燃える赤……通常ならば同系色か補色の緑を選ぶところですが、知的な青もよく映えます。芯が強くて気高いあなたを映す色です」
私の深くまで知っているような彼の言葉に、思わず息を呑んでしまった。
レイは店員に目をやると、さらりと購入の手続きを進めてしまう。呆然として見ていた私は、ハッと我に返る。
「だ、だめよ。こんな高価なもの……」
「石があなたの物になりたがっていました。貰ってやってください、その石と、僕のために」
「ほんとに、あなたって人は……」
どうしよう、頬が熱い。
(……喜んじゃダメ。婚約者を差し置いて、こんなのはだめよ……流石に叱らないと)
「あのね、レイ。こういうのは――」
しかし注意しようとした私の声に、レイは柔らかな声を重ねてきた。
「こんな日が来ることを、ずっと夢見ていたんです。エルダ……本当に、目覚めてくれてありがとう」
レイは幸せそうだった。
そんな笑顔を見せられてしまったら、私はもう注意なんてできない……。
***
「疲れていませんか、エルダ?」
ジュエリーサロンを出てしばらくしてから、私達は公園で日向ぼっこをしていた。
「大丈夫よ、ありがとう」
並んでベンチに座り、石造りの噴水から優美なアーチを描いて水が噴きあがるのをのんびりと眺める。
こんなにのんびりした時間は、生まれてはじめてかもしれない。実家にも病気にも脅かされない、ゆっくり時間が流れるひととき。
修道院時代はもちろん幸せだったけれど、仕事はたくさんあったので『のんびり』という感じではなかった。
――幸せだな、と思ってしまう。
「今日はすてきな一日をありがとう。……怖いくらい幸せよ」
私は、ぽつりとつぶやいた。
今日が楽しい。本当は、彼の善意に甘えたい。素直に心を開けたら、どんなに気が楽だろうと思う。今日は敬語ではないし、『レイ』と呼んでいるから距離の調整が難しい。気が緩むと、うっかり近づいてしまいそうになる。
「怖いことなんてありません。もっと幸せにします」
穏やかな声に、またドキリとしてしまった。視線を感じてふり向くと、彼と視線が交わった。
紫の瞳は熱を帯びていて、白手袋を纏った彼の指が、そっと私の頬へと伸びていく。
その指が触れる直前に、
「私……。ごめんなさい」
弾かれるように、立ち上がっていた。
「あの、私。最初に行ったカフェで、忘れ物をしてしまったみたいで……」
「? ……そうでしたか。でしたら後で使いの者をあの店に」
「気になるから、今すぐ戻りたいの」
「分かりました」
ベンチから立ち上がろうとしたレイを、私は強い口調で止めた。
「い、いいえ、私一人で行くわ。レイはここで、待っていて頂戴……」
「エルダ?」
私はくるりと背を向けて、そのまま早足で公園から歩き去っていた。
(あぁ、もう……何やってるのよ、私)
頭がごちゃごちゃになったまま、私は通りを歩き続けた。でも、細い路地に入ったところで後ろから声を掛けられてびくりとしてしまう。
「シスター」
「……バーネット?」
ふり向けば、後ろにいたのはバーネットだった。
「バーネット。あなた、どうして」
「ラファエル様の指示ですよ。シスターを一人で歩かせる訳がないじゃありませんか。せめて私だけでも、同伴させてください」
気遣いがありがたくて、同時に申し訳ない。
「……」
「どうしたんですか、シスター」
本当は、忘れものなんて嘘だ。恥ずかしくて居たたまれなくて、どうしたらいいか分からなくて逃げ出しただけ。
「バーネット。私……どうしたらいいか分からないの」
涙がこぼれそうになり、私は深くうつむいていた。バーネットが心配そうな表情で私を覗き込んできた、ちょうどそのとき――。
「…………エルダ?」
すぐ近くで、男性に呼びかけられた。
レイの声ではない。
酒枯れしたような、ひどくかすれた声だった。
声のしたほうをふり向いた瞬間、私は顔を強張らせていた。
「…………ダミアン!?」
私に声をかけてきた男。
それはかつて婚約者だった、ダミアン・クラヴァールだったのだから。