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【8】甘やかな介護

――目覚めてから、2か月目。リハビリは着実に前進している。


ミモザ達のアドバイスのおかげで、私はラファエル様に素直な気持ちで接することができるようになっていた。10年前と今とでは完全に立場が逆転してしまったけれど、それも前向きに受け入れている。


今の私にできることは、しっかり体を鍛えて自立した生活を送れるようになることだ。そうなればラファエル様も安心してくれるだろうし、恩返しをすることだってできるはずだ。


   *


「そう。上手に歩けるようになってきましたね、シスター・エルダ」

「はい! ありがとうございます」


今は、夕方。リハビリの終了時間まで、あと三十分ほどである。

一日のリハビリの仕上げとして、歩行訓練を行っているところだ。ラファエル様の腕につかまって、よちよち歩きの赤ん坊みたいに一歩ずつ進んでいく。


「左足を出すとき、重心をあと少しだけ前に傾けてみましょう。歩行が安定するはずです」

「こうですか?」

「ええ。とても良いですよ!」

眩しい笑顔も、今では素直に受け止められる。美形すぎるせいで顔が熱くなってしまうのは、条件反射だから仕方ない。……できるだけ、顔に出さないようにはしているつもりだけれど。


彼の腕につかまっていると、がっしりとした逞しさに驚いてしまう。ほっそりとした外見とは裏腹に、意外と鍛えているようだ。


(昔はあんなに華奢だったのに……。本当に、レイは大人になったのね。同じ年数分、私も大人になっちゃったわけだけれど)


彼の場合は『成長』だけれど、私は残念ながら『老化』だ。……切ない。


「何か考えている顔ですね。どうしましたか、シスター?」

「い、いいえ!? 全然!?」

と、うろたえた拍子に体がよろめいてしまった。


「危ない!」

しっかりと抱き止められて、転ばずに済んだ。

「す、すみません。ラファエル様……」

「大丈夫ですよ。疲れが出てきましたか? 今日は少し早めに切り上げましょう――失礼します」


彼は私を軽々と抱き上げて、ソファに座らせてくれた。こうやって、いつも私を気遣ってくれる。美形で所作もスマートで、非の打ちどころのない紳士だ。


ソファに並んで座りながら、私はふとラファエル様の横顔を盗み見た。


(それにしても、レイがアルシュバーン侯爵家のご令息だったなんて。いったいどういう事情で、貧民街で暮らしていたのかしら……)


そして、レイがなぜミリュレー修道院を去ってアルシュバーン侯爵家に戻ったのか。さらには、どうして当主になったのか。私は、彼の事情を何も知らない。


(たしかアルシュバーン侯爵家には、私と同い年くらいの跡取り息子がいたはずだけれど……。その跡取り息子を差し置いて、レイが当主になったのはどういう事情なのかしら?)


私の視線に気づいて、ラファエル様が微笑みかけてきた。

「? 私の顔に何か付いていますか?」

「い、いえ。……」


いろいろ気にはなるけれど、私はラファエル様の過去をあれこれ聞き出すような立場でもない。余計なことは詮索せず、早く自立してラファエル様に安心してもらうことが、今の私にできる唯一の恩返しだと思う。


「あの。休憩はもう大丈夫なので、あと少しだけトレーニングに付き合ってもらえませんか? 私、一刻も早く自分の足で歩けるようになりたいので」


気合を入れてそう言うと、ラファエル様は微笑したまま首を振っていた。


「急ぐ必要なんてありませんよ。ゆっくりでいいんです。――10年待ったこの日々は、私にとってはご褒美なので」

「ご、ご褒美……?」


うっかり、うろたえてしまった。


「ラファエル様ったら相変わらず気配り上手ですね……」

「気配り上手?」

「はい。私が焦って無茶しないように、気遣ってくれているんですよね?」


なにが面白かったのか、くつくつと肩を揺らして笑い始めた。


「いいえ、本心です。私は、いつまでもあなたとの時間を楽しみたい。雛鳥のようなあなたを、ずっと見守っていたいんです」

「…………」


いつまでも雛鳥じゃダメだ。早く立派になって、自立しないと。


「シスターの考えていることが分かりますよ。『いつまでも雛鳥のままではいたくない』と思っているのでしょう?」


言い当てられて、ぎくりとした。この人は、人の心が読めるのだろうか……?


「シスター・エルダは、『早く借りを返さなければ』と躍起になっているのではありませんか?」

「……図星です。すごいですね、ラファエル様。まるで心を読まれているみたい」

「シスターの考えそうなことは、だいたい分かります。――だって、私はいつだって、シスターだけを見ていますから」


とくん。と、不覚にも胸が高鳴ってしまった。『だって、ぼくはいつだってシスターだけを見てるんだから』……子ども時代のレイにも、同じことを言われたことがある。あれは、お風呂場でいばら病の痣を見られたときだったと思う。


「あなたに救われた子ども時代も、あなたが眠っていた日々も、今も。ずっとあなただけを見ていますよ。だからどうか、『貸し借り』なんて水臭いことは考えないでください」


この人の声は、ふしぎな艶を持っている。まるで弦楽器のようで、お腹の底に響く甘やかな声だ。つい酔いしれて、頭がぽーっとなるような、そんな美声。


「健やかでいてください」


くい。と、あごを上向きにされた。驚いて目を見開くと、彼の美貌がすぐそこにある。


「ラファエル様……?」

「焦ったり、借りを返そうとしたりする必要はありません。ただ、いつまでも健やかで、そばにいてください。私があなたに望むのはそれだけです」


真摯な瞳だった。

深い紫のきれいな瞳。私はあごを持ち上げられたまま、彼の瞳に見入っていた。


心臓の音がうるさい。……なぜだろう。

善意への感謝こそあれ、どうしてこんなにそわそわするのか。自分で自分が分からない。

逃げたいような逃げ出せないような、訳が分からず身を強張らせていた、ちょうどそのとき――。


柱時計の音が鳴った。


ハッとして、私はラファエル様から距離を取って座り直した。


「リハビリの時間は、ここまでですね! 今日もありがとうございました!」


私はソファの脇に置いてあった呼び鈴を取ると、それをラファエル様に突き出した。

「それでは、ミモザ達を呼んでいただけますか?」


「……ええ」

ラファエル様は溜息のような息を小さく吐き出すと、呼び鈴を鳴らした。侍女3人が、ノックの後に入室してきた。


「お待たせいたしました、旦那様」

「シスター・エルダの手伝いを頼む」

「かしこまりました」


私はどこかホッとした気持ちで、3人のことを見つめていた。


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