BURNING Ⅵ
突然、プリメーラに精気がみなぎった。裕二のアクセルを踏む足に力が注がれる、それを通じ、プリメーラにも力が注がれていた。
「前をちょろちょろ、目障りだと思ってたんだよ」
スカイラインのテールに投げかける言葉。低くても、そこに重量感がこもっていた。声と一緒に、体内に溢れすぎた気合を吐き出すように。
「へへ、抜けるものなら抜いてみな」
零はミラーを覗き、ミラーの中の光につぶやいた。光は、ますます大きくなろうとしているようだった。
してやったりだ。上手く裕二をのせることができた。
交差点を曲がるたび、インを伺うプリメーラ。そのラインを塞ぐスカイライン。
一般車はスタンピートが来るたびに、飲み込まれ吐き出される。どこもかしこも、時間が時間だけに、一般車だらけだったから。どこかしらで、スタンピートは一般車を飲み込んでは吐き出すを繰り返していた。
そのスタンピートから見れば。明かりを燈す街灯やビルや商店に家屋が、前から後ろへと吹き飛ばされるようだった。
暴れ牛どもは、大声をがなり立て、嵐のように街中を縦横無尽に突き進む。
その先頭の零は、まるで暴れ牛どもの切り込み隊長のようだった。
とは言え、正直気持ちの良いものではなかった。
「やっぱ、市街地はきちぃ…」
零はスカイラインを飛ばしながら、つぶやいた。抜いても抜いても現れる一般車。
いつまでも、どこまでも、前を邪魔されているようだ。おまけに信号。赤信号などお構い無しに走ったが。危うい場面もあった。
その度に、グレンダは「ワぉ!」と声を上げる。やはり、時間帯が悪かった。
運の悪いパトカー数台が、一般車を道連れに、その赤信号の餌食となった。
「ったく、走りづれえったらありゃしねえ」
深夜ならともかく、まだ市街地には車が溢れている。その中を突っ切っていくのだから、網の目をかいくぐりながら走っている気分だ。
零はバックミラーを覗き、プリメーラの動きをうかがった。プリメーラはぴったりと、おまけを大勢つれて引っ付いて来てくれる。
「進路変更だ」
視線を前に戻した零は、前に現れた緑の標識を見るなり、その標識に従って右折した。プリメーラとそのおまけも続く。
「ふざけやがって…。オレらを後ろにしてレースだとぉ!」
朝倉が叫ぶ。顔はこれ以上にないくらい真っ赤だった。おそらく本人も、今まで以上に怒りを覚えたことはないだろう、というくらい。
プロである自分が、ここまで素人になめた真似されようとは。こんなことがあっていいはずがない。
そんなヤツは、今の今まで皆始末してやった。始末できた。それが、今は出来ない。
おまけに、サツにまで追われている。
屈辱だなどという言葉では言い表せないほど、朝倉は怒り狂っていた。
それは、史孝も同じだった。話を蹴ったふたりを罠にはめて、路頭に迷わせようとしたのに。どこをどう間違えたか、警察に追われながら、三人を追うという展開に怒りを覚えないわけも無かった。
「ふざけんじゃねえぞ、お前ら!!」
蹴るようなペダル操作、引き千切らんばかりにハンドルをこねる。怒りをまんまGTOにぶつけていた。
GTOはそれをまともに受けて、暴れ狂いながら走っていた。タイヤをきしませケツを振り、その狂いっぷりは、麻薬でもやっているかのようだった。
後ろのおまけどもも、怒り狂ったように叫びながらついてくる。
それを率いるスカイラインは、緑の標識に従い走っていた。しばらくして、高速道路の入り口が見えてきた。
「ここからが、本番だぜ!」
零は叫んだ。グレンダは零を見て。
「YEAH!!」
と、叫んだ。
入り口の係員が突然現れたスタンピートを見て。慌ててボックスの中に身を隠した。
幸い、他の車はいない。そのままストレートに突っ込める。
「いっくぜぇー!」
「オッケー、レイ!」
零が叫べば、グレンダも呼応して叫ぶ。スカイラインも叫ぶ。車内に響くエグゾーストが、ハートを引っかきまわしゆさぶってくれる。
「よっしゃ、これでちったぁ走りやすくなるぜ!」
入り口に突っ込み、裕二も会心の雄叫びを上げる。プリメーラも同じく雄叫びを上げる。
ボックスを通過する。一台分しかないスペースに、スタンピートが突っ込んでゆく。次々と通り行く暴れ牛から身を隠す係員。電話を手に、助けてくれ、を繰り返し。事務所の係員たちも呆然と見送る。
加速車線を抜け、本線に入る。
高速道路だけあって、二車線とは言え道は開かれたように広かった。一般車もそこそこ、レースをするには絶好のシチュエーション。市街地とは大違いだ。
「よぉしよぉし、いいぞいいぞ!」
裕二が叫んだ。叫びっぱなしだ。アドレナリンが沸騰しているのを感じまくっていた。
前輪が激しく回転し、ボディを引っ張る。タイヤは悲鳴をあげ、煙を噴き上げ後ろのGTOにぶっかける。
「なめてんじゃねえ!!」
史孝の雄叫びに呼応し、GTOも叫ぶ。四つのタイヤが回転し、ボディを引っ張りどつき、プリメーラに迫る。
「おっとぉ!」
ミラーでGTOの動きを見て取った裕二は、すかさずGTOの進路を塞ぐ。進路を塞がれたGTOは慌ててプリメーラを回避する。回避に手間を取られ、アクセルを開け切れず、横に並ぶことすらかなわなかった。
「っのやろー!」
頭に上った血を血管から噴き出さんばかりに、朝倉が怒鳴る。プリメーラのテールは挑発的にテールランプを赤く光らせている。
レースをしている、といっても。レースしているのは実質三台だけ。他は後ろを追うだけで、本当におまけのようだった。
スカイラインはその間、差を広げるためにひたすらの逃避行。二車線の道の向こうにあるのは、どこまで続くとも知れぬ闇。それに向かって、アクセルを踏みつける。
「グレンダ、今のご気分は!?」
「グレイト!」
闇に向かって突っ走り、闇に向かって、叫ぶふたり。
その闇は長いトンネルみたいだろうけど。けれど、その中を抜ければ、本当の自由が待っている。
自由。フリーダム。誰にも拘束されない、自分だけの時間を持つということ。それがどんなに素晴らしいことなのかと思うと、グレンダは目頭が熱くなるのを感じた。
スカイラインを先頭にしたスタンピートは高速道路を突っ走る。闇を切り裂き静寂を突き破る。
どこまでも続きそうな闇も、それを止めることは出来ないでいた。
むしろ、闇への恐怖がそのまま怒りへと姿を変えたようだった。それは、特にGTOから以下の連中がそうだった。
「殺す殺す殺す殺す……、絶対殺す、殺してやる!!」
呪文のようにそればかり唱える朝倉。両拳を握り締め、目は血走り。死を象徴する、血に餓えた吸血鬼そのものだった。
ハンドルを握る史孝も同じだった。睨みつけるプリメーラのテールランプの赤以上に、目は充血していた。
プリメーラは上手くGTOの進路を読み塞いでくれる。
「パワーがありゃいいってもんじゃないぜ!」
裕二は後ろのGTOに怒鳴った。こんな状況でもGTO相手にパワー勝負では勝てないことはわかっていた。だから、前に出られないように進路妨害をしている。
しかし、それでは前のスカイラインを存分に追えない。
「さてどうするかー!」
前のスカイラインのテールは憎らしいほど、小さくなろうとしている。
誰のおかげで、逃げられると思ってんだよ。と思った。だが、こんなシチュエーションはストリートレースじゃよくあることだ。
でも史孝はそんなこと忘れていた。
「邪魔くせえ!」
プリメーラに邪魔され、冷静な判断など出来っこなかった。いや、もとよりそんなことが出来るわけもない。
そんなのお構い無しに、逃げまくる二台。
GTOの後ろの昂次郎と賢は。
「ちきしょー、どこまで走りゃいいんだよー!」
「もういやだ、逃げたい!」
と、泣き言を叫びながら走っていた。所詮はチンピラ風情、誰かの下につき、おこぼれに預かることしか考えなかったことのツケが回ってきたことを、痛感せずにはいられなかった。
後ろからはパトカー。前に向かって走っているのに、進むもならず引くもならず、どうしようもなかった。
「GOGOGOGOGOGOGOGOOOOOOO!!」
と、叫びっぱなしなのはグレンダ。後ろのスタンピートが背筋をくすぐってくれて心地よかった。
「Dush dush dush!」
などと叫ぶたび、まるで暴れ牛をけしかけるような気分だった。その暴れ牛の先頭に立つのは、我がヒーローの零。
日本での最後の思い出を作ってくれようとしている。
目の前に一般車の団体が現れた、まるでキャラバンのような団体が途切れ途切れに分散しているのが、なんとか見えた。
零は前を見据え、スカイラインの進むラインを見計らっている。速度が速度だけに、まるで前の車が向こうから近寄ってきているような錯覚を覚える。
ちょっとでも目測と判断を誤まれば、即クラッシュ。それだけは避けたい。
「っしゃ、こいつぁいいや」
裕二はキャラバンの出現を喜んだ。ただっ広い、ほぼ真っ直ぐな道でGTO相手にパワー勝負をされまいと、必死に進路妨害をしていたが。その役目を一般車に譲り渡すことが出来るのだ。
「ここからが、ウデの見せ所だぜ!」
もう後ろをそんなに気にしなくていいので、スカイラインを追うことに集中出来る。プリメーラはスカイラインと同じラインにつけて、隙をうかがっている。
チャンス到来と、裕二の足に力が込められる。
GTOは、目の前に現れた一般車を避けるべく、プリメーラばかりに集中することが出来なかった。
スタンピートはキャラバンの背後に着くやいなや、そのキャラバンの中を突き崩しながら突き進む。あみだくじのように右に左に一般車をかわし、追い抜き追い越してゆく。
前を見れば、キャラバンの列は長く、闇から吐き出されているようだ。しばらくは、障害物競走となるかもしれなかった。
裕二はハンドルとアクセルとブレーキを巧みに使い分け、スピードをコントロールし、一般車をかわしてゆく。ふとミラーを覗いた、GTOから後ろは一般車をかわすのにてこずっているようだった。
いつの間にか、プリメーラとGTOの間には、三台の一般車が割り込んでいた。おまけに、GTOは後ろにはぴったりくっつかれている。34スカイラインとスープラ、パトカーたちは、GTOのペースダウンに戸惑いっているようでもあった。
「ふっ、手くそめ。お前の下手さは前から評判だったからな」
っと、史孝を鼻で笑った。ヤツも車が好きなことは好きなのだが、いかんせんセンスが無かった。それでいて負けず嫌いで、自分が一番でないと気が済まない。
だから、ドラテクではなく、唯一の取り柄である腕力でストリートレーサーの世界を仕切ろうとしていた。レースで負けても、相手を暴力という手段で無理矢理負かせることもあった、が。次第に誰も相手にされなくなり、一時孤立していた。レースをしてなんぼの世界、レースが出来なきゃただのワル。
スピードが全ての世界を腕力で牛耳ろうなど、勘違いもはなはだしいってもんだった。
だからヤクザに泣きつき、運び屋として働くことを条件に、その庇護を受けてやっと仕切っていた。みんな、史孝よりも後ろの朝倉が怖くて、史孝の言うことを聞いていたに過ぎない。
腕力だけで通用するほど甘くないのは、カタギでもアンダーグラウンドの世界でも同じなのだ。ヤツはそれがよくわかっていなかったし、そんな馬鹿なヤツを雇う朝倉はストリートレースの世界がよくわかっていなかった。
視線を前に戻しスカイラインを追う。どうやら、スカイラインも一般車をかわすのにてこずっているようで、思ったようにスピードが出せていないようだ。それでもスムーズに切り返す様は、零の熟練したテクニックを見せ付けるのに十分だった。
「頑張ってるじゃないか!」
それを見、アクセルを踏む。前から引っ張られる。スカイラインのテールが大きくなってゆく。
「WOW!」
スカイラインが右に左に切り返するたび、グレンダが歓喜の声を上げる、スカイラインの動きが手に取るようにわかる。零は黙って前を見据えたままそれを操り、それを横から覗けば、思わず笑みがこぼれる。
その時、不意に爆音が左サイドから飛び込んでくる。
「What's?」
と、左手を覗けば、プリメーラ。
「やべ!」
零はそれに気付いたが、遅かった。プリメーラはそのままするすると前に進み、スカイラインの前に出てしまった。
「くそ! オレとしたことが」
一般車をかわすのに精一杯で、後ろにそれほど気が回せなかったし。切り返しに手間を取る分、アクセルが踏めなかった。裕二はそれを見て取ったのだろう。
「はっはー、アタマはもらったぜ!」
裕二はスカイラインに向かって目一杯叫んだ。
どんな状況でもアクセル踏みまくりが信条の裕二。アクセルを踏まなきゃ前に進まないし、スピードも出ない。要は一般車とぶつからなければいいだけのことだと、乱暴な考え方だったが。それが効いた。
「のやろう! 待ちやがれ!」
今度は逃げる方から追う方へと立場が変わった。いや、スカイラインもプリメーラも、どっちも追われている方なのだが。そんなことはもう、頭の中には無かった。
「なにしてやがる! 離される一方じゃないか!!」
朝倉は史孝に激怒した。高速道路に入れば、パワーに勝るGTOで楽勝だ。と思っていたのに、思いっきり当てが外れた。
「うるせえ! 黙ってろ!!」
「な、なんだと!」
一般車に邪魔され思うように前を追えない史孝は、苛立ちから親分の朝倉に怒鳴り返してしまったが、それすら気付かないでいた。
「一般車がいなきゃ、とうに追いついて捕まえているんだ!!」
調子のよくない理由を一般車に押し付ける。自分が下手だなど、認めたくなかった。
「だいたい、あんた、口を出しすぎだ! 集中できないだろう!」
「貴様…、誰に向かって口を聞いている!」
「あんただよ!」
ふたりは怒鳴りあい、もはや前を追うどころではなかった。ますますスピードは落ちてゆく。
「な、なんだ。どうしたんだ?」
「何があったんだ?」
昂次郎と賢は、突然ペースダウンしたGTOに戸惑っていた。これではパトカーに追いつき追い越され、前を閉ざされ捕まってしまうかもしれない、というのに。
パトカーは、前のペースが落ちたのを好機と、さらに追撃の手を強める。サイレンの音もけたたましく響かせ、それに呼応して。
「いけるぞ!」
「逃がすな! このまま追い越して前を塞ぐんだ!」
と、いきり立つ。職務に対する熱意など微塵も無く消え去り。ただ、獲物を駆るための狩人にでもなってしまったかのようだった。
バトル。
裕二と零の、最後になるかもしれないバトル。
ストリートレーサー魂をお互いにぶちかまし。
アクセルを踏みつける。
「へへ、どうだ柳生。このままぶっちぎってやるぜ!」
会心の雄叫び裕二。
FFであるプリメーラに前を引っ張られる感触が心を揺さぶる。気分はこのまま闇の中へと一直線だ。
「このままで済むわけねえだろ!」
零はプリメーラのテールに怒鳴りつける。邪魔な一般車をかわしながら右に左に切り返し、隙をうかがう。
スカイラインは乗り手の意志を受け取り、踏み込まれるアクセルのまま、プリメーラを追っている。
「Let's go Rei.Fastfastfast! It can do, if it is you!!」
助手席ではグレンダの熱い応援。心がエンジン以上にホットになる。
「オッケーオッケー!」
笑顔で応える零。ハンドルを握る手に力がこもる。右足にはもっとこもる。
だいたいは、そんなことは想像がついている裕二。なんだか悔しい。
オレにも隣に女がいてくれりゃあ、などと馬鹿なことを考える。
いっそあの婦人警官をそのまま連れまわせばよかったかもしれない。そう思うと尚更悔しかった。
ナップサックの中身を見せれば、案外仲良くしてくれるかもしれないし、自分のウデを持ってしてその中身を増やせばもう、『オレの虜』かもしれないし…。
何てことを考えていると、目前に一般車のテール。追突を警告するように赤く光っている。
「やべ!」
慌ててかわす。プリメーラは急激な減速を余儀なくされる。
「もらった!」
プリメーラのテールに張り付くスカイライン。このままの勢いでパッシングだ。
鈍い加速、鈍いエグゾースト。メーターの針ものんびりと回る。勢いを殺されたプリメーラはアクセルを全開にされても、反応そのものが鈍かった。
「くそ、この鈍感め!」
と、愛機に当たっても、自分のミスだから仕方が無い。ミラーには、ぎらぎらに反射されるヘッドライト。
「WOWOWOWOWOW!!」
この接近に大喜びのグレンダ。今にも追突しそうなほどだが、ふたりのウデならそんな馬鹿な事もあるいまい。そしてその通り、スカイラインはプリメーラに接近し一定の距離を置いて絶えず隙をうかがっている。
零は無言だ。集中しまくりだ。
裕二も逃げまくりだ。でも、シューティングゲームのオプションのようにのように、ぴったりくっつかれている。いくら右に左に一般車をかわし切り返そうと、離れない。
「まったく、妖怪べとべとさんかい!!」
くそったれ! と、第一車線に着いたときにシフトチェンジ、が、しかし。焦るあまりミスってしまった。顔面蒼白だ。
プリメーラ、スカイラインに迫る。裕二は苦い顔で右を横を向けば。
赤黒ツートンのマシン。ついでに、笑う外国人の女。
思わず顔が引きつり、しかめ面を返してしまった。すると、零までもがこっちを向いた。
笑っている。
こっちを向いて、笑っている。楽しそうに笑っている。裕二との追いかけっこを楽しんでいるようだ。
爽やかな笑顔だった。本当に、追いかけっこを楽しんでいるような、爽やかな笑顔。
外国人の女を隣に乗せて、無闇に欲に任せていきがってては到底出来っこないくらいの、爽やかな笑み。
「まったく、楽しそうにしやがって」
そう思わずにはいられない。
「だけどよ、オレも楽しいんだよな、これが!」
楽しい。走ることが楽しかった。
戻れた。あの頃の、ただの車好きなコゾーの頃に、戻れた。
一度キーを捻ればその瞬間だけ、別世界を味わえるコックピット。車の操作、操作による動作、マシンの叫び、スピード。
それを体全体で感じ取れば。
確かに感じる、生の感触。
それは、今だけかもしれない。なら、今のうちにとことん楽しんでおこう。これからどうなるのか、本当にわからないのだから。
だから、とことん楽しまないと損だ。
零が前に向き直った。それを見、裕二も向き直る。グレンダは笑顔を零のほうに向ける。
アクセル踏みっぱなし、二台並んでの高速ランデブー。
前の一般車との距離は少しある。しばらくはランデブーになりそうだった。
だけど、一体何度このランデブーをしたことだろう。車を買ってから、走り始め、今に至るまで。
これは新しい事の始まりなのか、それとも終わりを告げるのか。それも、わからない。
ただ一つ、これだけは言えた。答えは、目の前の闇の向こうにある。
一進一退の攻防。
抜きつ抜かれつのバトル。プリメーラとスカイラインは一般車の間を縫うように切り込み駆け抜け、前に出たり後ろに下がったり。
「言ったろう、ぶっちぎってやるってな!」
裕二の雄叫び、はいつもの事だが、その雄叫びが意味するもの。
「うほ、やられた!」
わずかなミスを突き、スカイラインをパスするプリメーラ。プリメーラにパスされるスカイライン
右サイドを憎憎しげに睨む零。「お~ぅ」とため息のグレンダ。
プリメーラのマフラーからほとばしるアフターファイア。零の魂を真っ黒焦げに焦がさんがばかりに、燃え盛っていた。
こうなった時の裕二は強い。
イケイケ状態のまま、ぶっちぎり。しかしそうは問屋が卸さない。
零だって、そんな裕二を相手に何度もストリートレースを闘ったのだ。手の内は知り尽くしている。
あの時同様、イッパツ逆転を狙い虎視眈々と隙をうかがう。
キャラバンは続く。闇から次から次へと吐き出され、それはずっと続くように思われた。
が、しかし。
徐々に、一般車同士の距離が遠くなり、ばらけてくる。スタンピートはキャラバンを通り過ぎてゆこうとしている。
「やべえ…」
ばらける一般車。道は開かれようとしているのに、全然嬉しくなかった。むしろ、道を閉ざされようとしているようだった。
それは零も同で、これにはさすがに楽しそうではなかった。闇だけが自分たちを飲み込もうとしているように、待ち構えている。それに、戦慄を覚えずにはいられなかった。
「どうしたの?」
グレンダは零が息を飲み込むのを見逃さなかった。息を飲み込んだ後、舌で唇を舐め、舌打ちする。
「やばいかもな。バリケードになる邪魔な車がなくなるんだ、ってことは。後ろのGTOが来る」
それを聞いた途端、十字を切ったグレンダ。だが、零は。
「なにしてんだよ。まだ諦めるのは早いぜ。レースはまだ終わっちゃいない」
と言った。ハンドルを握る手に力を込めて。
ミラーを見た、GTO以下も、キャラバンを通り過ぎようとしている。となれば、GTOはパワーを生かしてすぐにでも前二台に追いつくだろう。
零はアクセルを踏みつける。スカイラインの咆哮が車内に響く。プリメーラのテールにひっつき、闇に向かって突き進む。グレンダはそんな零を横から見つめている。それしか出来ない自分が歯がゆかった。
そんな自分が出来ることは、逃げ切り自首出来るように、神と零に祈ることだけだった。
プリメーラも、闇に向かって突き進む。パルサーGTiRのSR20ターボエンジンがさらなる唸りを上げる。
「ホームストレッチだぜ!」
裕二は張り裂けんがばかりに大声を上げた。車内に響くエグゾーストノートにも負けないほどの大声で叫んだ。ミラーは見ない。
右足はアクセルを床まで踏んだままだ。
アスファルトを吐き出す闇を見据え、その闇に向かってただひたすらアクセルを踏み続ける。
諦めない。諦めてたまるか。
まだレースは終わっちゃいない。
裕二も零も、同じことを頭の中で繰り返す。グレンダは、祈るしかなかった。
果たして。GTOが迫ってくる。
「おい、待て。邪魔がいなくなるぜ! こいつぁいいや!」
一般車がばらけてきて、史孝は朝倉との怒鳴りあいを無理矢理中断した。朝倉も前に邪魔がいなくなるのを見て、とりあえずは、落ち着いてやった。
「よおし、なら追いつけるよなあ。オレに向かって大口叩いたからには、わかっているんだろうな」
「わかってますよ」
絶好のチャンスが訪れ、図々しくも、史孝の腰は低くなる。ほぼ直線の開かれた道、テクが無くても、アクセルを床まで踏むだけで追いつける。
「見ていてくださいよ、あっという間だ」
一般車に邪魔され前から離された分、道が開かれた喜びは大きかった。それだけに、横着なふるまいも平気で出来るというものだった。例え親分に対しエラそうな態度をとっても、命令をキチンと遂行すれば、許してもらえるかもしれないと、なんとも甘いことを考えながら。
さすがの朝倉も、車に関しては史孝の言うとおりにするしかないかった。とは言え、やはり史孝の無礼な振る舞いは許せない。
「もしそれでも逃がしやがったら、覚悟しろよ」
と一言だけ言うと、後は口をつぐんだままだった。史孝も黙ったままだ、目は前を見据えたまま。アクセルを床まで踏みつけた。
GTOは唸りを上げ、加速する。史孝と朝倉の体がシートに押し付けられる衝撃が快感だった。
小さな点だったスカイラインのテールは、徐々に徐々に、大きくなってゆく。
「うぉ、やっぱ、直線ははえぇ…」
キャラバンを抜け、邪魔者がいなくなり、急加速したGTOに置いて行かれまいと、昂次郎は離されまいと慌ててアクセルを全開にした。34スカイラインはなんとかGTOについて行っている。いい感じだ、これなら置いてけぼりを食らうこともないだろう。
だが、賢のスープラは置いていかれてしまった。完全に自分も車もコントロールできず。パニックに陥ろうとしていた。そんな状況では、変化に応じてアクセルを踏めるわけも無かった。
パトカーの群れの中に飲み込まれようとしていた。
「来てるぜ来てるぜ…!」
裕二は悔しそうにつぶやいた。せっかく引き離したGTOが、また迫ってきているからだ。
零は完全に無言になって、アクセルを踏み続けていた。それしか出来なかった。グレンダも、同じだった。
後ろから来ている、だけど、逃げ切れない。迫ってくる。
パワーの差を、痛感せずにはいられなかった。と、その時。視線を前に戻した時、裕二の目が見開かれた。
「マジかよ…」
見開かれた目が捕らえたものは、闇から迫り来るように近付く二台の貨物トラック。しかも、二車線の道を並んでのランデブー走行をしていた。これでは前を塞がれる格好になって、前に出られない。
「なにもこんな時に…」
零は前を塞ぐ二台のトラックを呪うように、呟いた。グレンダは。
「No…」
とだけ言うと、また十字を切った。前を塞がれ、後ろから迫られ。もうどうしようもなさそうだった。
だが、零はそんなグレンダを叱り付けるように大声を上げた。
「諦めるな! 言っただろ、まだレースは終わっちゃいないって!!」
「レイ…」
グレンダは、零の言葉を聞いて。涙が溢れてきた。言わんとしていることはわかる、でも、それは子供じみた強がりに感じられないことも無かった。
「朝倉さん、オレらついてるぜ」
「ああ、そのようだな」
さっきまでいがみ合っていたのが嘘のように、二人は笑いあっていた。前を塞ぐ二台のトラック、ツキはこっちにあるようだ。
後ろの34スカイライン、昂次郎もなんとか着いて行き。前を塞ぐトラックを見て安堵の表情を浮かべた。
これでまた振り出し、とりあえず逃げられる危険性は無くなり。またやり直せると思った。
後ろのスープラを追うパトカーたちも、トラックを見止め、ペースをやや落とす。急がずとも、追いつけるからだ。
GTOはスカイラインのテールをヘッドライトで捉える距離まで迫ってきた。それはアタマのプリメーラ、裕二にもわかった。
「来やがったか!」
忌々しく吐き捨てた。だがそれだけで、アクセルは緩めない。それどころかますます右足に力を込める。
トラックの荷台を睨みつける。速度を緩めない。
歯を食いしばった。
そして、ハンドルを少し左に切った。
「まったく、路肩走行なんざしたかなかったけどなぁ!!」
プリメーラは急激に高速道路の左端によって、路肩に入った。例え車線が塞がれていようと、路肩がある。本線よりも狭いものの、通れないわけじゃない。そこから抜けばいいだけのことだ。スカイラインもそれに続いた。
「な、ほら。まだレースは終わっちゃいないって」
零は会心の笑みで、グレンダを安心させようとなるべく優しく言った。その声は、車内に響くマシンの雄叫びに掻き消されないだろうか、と心配したが。その心配は杞憂に終わった。
「Yes!」
グレンダは零の言葉をしっかりと聞き取り、同じく会心の笑みで応えた。確かにまだレースは終わってはいない。まだ道は閉ざされてはいなかったのだ。
「逃がすか!」
GTOも同じく路肩に入ろうとする。熱くなるあまり、路肩のことを忘れていたのはなんともマヌケだった。それを無理矢理意識せず、史孝はアクセルを踏みつける。
プリメーラとスカイラインはすでに路肩に入り、そこからトラックを抜こうとしている。
トラックに並んだ。防音壁とトラックの間に窮屈に挟まれる。ちょっとでもハンドル操作を誤まれば、即激突と言うくらい、狭かった。すぐ右手には、トラックのタイヤホイールが回転している。それがミキサーのように、ミラーに触れようと迫っている錯覚を覚えてしまいそうだった。
トラックのドライバーは、路肩と後ろから迫るスタンピートに気付き、驚いたようだが。それよりもっと、驚いたことがあった。大声で「やばい」を繰り返している。
それが聞こえたわけじゃないが、不意にプリメーラのヘッドライトが照らし出したものを見て、裕二はそれこそ目ん玉が飛び出さんがばかりに驚いていた。
ヘッドライトが照らし出したものは、路肩に停まる故障車だった。かなり近い距離にそれはあった。
「マジかよ!!」
突如暗闇から姿を現したそれは、全ての終焉を迎えるべく待ち受けていたように感じられた。どうやらドライバーは安全な場所に避難しているようで、人影は見えなかったが。だからどうしたと言う感じだった。
にわかに出来上がった袋小路に追い詰められてしまったのだから。
後にはスカイライン。プリメーラが陰になって故障車が見えないらしく、減速の様子が無い。下手にブレーキを踏めば追突されて共倒れだ。そうでなくとも、また後ろにGTO。
もうだめか。
ほんのわずか、裕二の心に諦めが芽生えた。もう、何もかも終わり。自分の人生も全て。
人間て、案外簡単に覚悟を決められるもんだな、不意にそんなことを思った。
だが、人間は案外しぶとい一面もあるんだな、と思ったのもこの時だった。
裕二はアクセルから足を離さなかった。後ろのスカイラインがぴったり着いてきているのをミラーで見、心置きなく、アクセルを踏み続けた。プリメーラのスピードメーターは時計回りに回り続けている。
「いけよぉ…」
自分に言い聞かせるように、つぶやいた。ミキサーを思わせる、二つ並ぶ後輪のタイヤホイールを追い抜く。もうすぐ、前輪だ。だが、故障車も迫ってくる。ナンバープレートのナンバーが読み取れる。
後ろからはスカイラインとGTOが迫ってきている。
電流が体内を駆け巡り、感電したように体全体が硬直した。
まるでコンクリートで塗り固められたようだ。それでも、足はぶるぶる震えてながらも、アクセルからは離れない。
閉じられそうなまぶたを、押し広げる。一切のまばたきもしない、目が乾くのも感じられなかった。
「うおおおおぉぉぉぉーーーーー!!」
我知らず、大きく口を押し広げ、ありったけの雄叫びを上げる。自分自身の声で、エンジン音はおろか恐怖心すら掻き消そうとする。
それこそ、半分ヤケクソだった。どうにでもなれだった。
そうでもしなければ、どうしようもないからだ。
その間も、故障車は迫ってくる。
裕二はハンドルを右に切る準備をしていた。ミキサーのようなタイヤホイールが少し迫ってくる。
見えない手が顔をつかんで、無理矢理横に向けさせようとする。それに必死に抗い。前だけを見ようと踏ん張る。
視線が、少し斜め前に行った。
果たして、前輪を追い抜き、次の瞬間にはトラックそのものを追い抜いた。
右手には、トラック。
ではなく、それが照らすヘッドライトの光。光の中には、何も無い。
すぐ前には、故障車。まばたき一回分の距離しかない。
それから目をそらし、必死の思いでトラックのヘッドライトの光の中に飛び込んだ。
それこそ、まさに希望の光に飛び込む気分だった。間一髪、故障車ともトラックともぶつからずに、本線に戻れた。
目測で距離を測り。前を走るトラックを抜いても、トラックと故障車との距離はいくぶん余裕はあるはずだと、そこから逃げられるかもしれないと。その余裕は、車一台半くらいしかなかったのだが。
「よっしゃーー!!」
会心の雄叫び。束縛から解かれ、全てが声と共に開放される。
そのままアクセルは全開。トラックを引き離そうとする。後は、トラックの運ちゃんが予想通りの行動を取ってくれるか否か、が気がかりだったが。杞憂に終わったようだった。
「あぶねえ!!」
トラックドライバーは突如飛び出したプリメーラに驚き、急ブレーキをかけた。
トラックのタイヤはロックされ、アスファルトに身を削られ悲鳴を上げ、削られる部分から大量の煙を噴き上げる。
「ほんとかよ!!」
「わぁーーっつ!!」
プリメーラが路肩から飛び出し、突如目の前に現れた故障車を見止め。零とグレンダは絶叫した。まさか故障車がいるとは、思いもしなかった。プリメーラは減速をせず、そのまま突っ走っていたから尚更だ。
逃げ道はないか! と咄嗟に右手を見れば、飛び出したプリメーラに驚きトラックが急ブレーキをかけた。それと同時に、トラックは後ろに下がり、ヘッドライトの光だけが本線に残った、ように見えた。
「ラッキー!!」
零は咄嗟にハンドルを右に切り、プリメーラと同じようにトラックのヘッドライトの光の中に飛び込んだ。これもまたプリメーラと同じように、希望の光に飛び込む気分だった。
スカイラインも無事本線に戻れ、そのままトラックを置き去りにする。
だがGTOは、そうは行かなかった。
「んな!」
史孝はスカイラインの陰から突然現れた故障車に驚き、ブレーキを踏みつけると同時に、金縛り。朝倉は驚きのあまり声も出ない。
そんなことで、故障車を避けられるわけも無く。減速をしながらも、まっすぐ故障車に突進するGTOを止めることは出来なかった。
故障車のナンバープレートのナンバーが、はっきりと見えた。それが目に焼き付けられようとする、その時。
GTOは故障車に追突した。
激しい衝撃がふたりを襲った。
GTOのフロントは故障車のリアテールと一緒になってひしゃげ、衝撃からピンボールの玉のように弾かれる。
運の悪いことに、ピンボールの玉よろしく弾け飛んだGTOは、激突の衝撃から来る遠心力でコマのように回りながら、本線のトラックの横っ腹に飛び込んでいって。その横っ腹にタックルを食らわせようとする。
が、タックルを食らわせようと横っ腹に突っ込んだものの。GTOの背は低すぎ、その上重いボディが慣性を高めてしまっていたため。荷台の下にぶら下がる柵を突き破り、荷台の下にもぐりこんでしまった。
ヒビ割れて、まるでモザイクがかったようなフロントガラス越しに、太いタイヤが迫ってきているのが見えた。タイヤはロックされているようで、煙を吐いていた。
そのロックされたタイヤは、ひしゃげたボンネットに乗り上げた。
それが見えた瞬間、目の前が真っ暗になった。
目の前が真っ暗になる直前。ふたりが全ての終わりを悟り、後悔の渦に飲み込まれていたのを、知る者はいなかった。
トラックは、タックルを仕掛けそこね荷台の下にもぐりこんだGTOを、その自慢の太い後輪タイヤで踏み潰してしまったのだ。
トラックの重みで屋根がひしゃげ、凹み、ガラスの破片やバーツがばら撒かれる。
踏み潰されてしまったGTOは、踏み潰された虫のように、ぺっしゃんこになって、高速道路にぽつねんと据え置かれる。
トラックドライバーはこの事態に驚き、なんとか停めたトラックから降りて。魂が抜けたように、GTOを見た。運転席の潰れたGTOは、ただの残骸然と、ぴくりとも動かなかった。
隣の車線のトラックは面倒ごとを嫌がって、そのまま走り去っていったようだった。
それから何がどうなったのかわからない昂次郎と賢は、魂が抜けたように、事故現場を見ていた。いつの間に車から降りたのか覚えていない。
また、いつの間に手錠が掛けられたのかも、覚えていなかった。
警官たちはそれどころではないと、追跡を一時断念し。事故現場の処理に追われていた。パトランプの赤い光がいくつも、現場を照らしたり、行ったり来たりしている。自分たちが追い抜いたキャラバンが、事故現場に来て。渋滞を作り始めていた。
ぶるぶる震えながら呆然とするトラックドライバーを、なんとかなだめすかす警官の姿も見受けられた。警官は、あんたは悪くない、と言って何とか落ち着かせようとしている。
また、残骸となったGTOのそばにも警官がいた。その警官は、渋い顔をして、首を横に振って、中に乗っていた人間がどんな人間であったかと思いつつも。
こんな事になってしまったのを哀れみ、我知らず手を合わせていた……。
プリメーラとスカイラインは、どこかの山道の脇の自動販売機の前に停められていた。
裕二、零とグレンダは、自動販売機の光に燈されながら、黙ってホットの缶コーヒーをすすっている。
静かな闇の中、それから身を守るように、自動販売機の燈す光の中に身を寄り添う。
その中に身を置けることに、心から安堵しているようだった。暖かいコーヒーが胃袋に染みわたる。
先にコーヒーを飲み終えた裕二は、缶をゴミ箱に投げ入れ、ポケットからタバコを取り出し火をつける。
タバコをふかし。思いっきり星空に向かって、煙をふーっと吹き出す。タバコの煙が天に向かって昇ってゆく。それを見て思わず。
「うめぇ」
と、言った。今まで生きていて、最高にタバコが美味く感じられた。
それを見て、グレンダはくすっと笑った。
「はは、あんた笑うと美人だな」
裕二は珍しく、グレンダにおどけてみせた。次はそれに気付き照れると、開放感に浸っていた。
こんなに心安らぐ思いをしたのは、本当に久しぶりだった。
「サンキュー」
ウィンクでかえすグレンダ。
安堵の表情でコーヒーをすすり、これからのことを考えているのか。物思いに耽って(ふけって)いた零は、そんな彼女を見て、微笑んだ。
これから彼女は自由になれるのだ、十字架を背負うとは言え。確かに自由は約束されているのだ。
正々堂々と太陽の下を歩けるという、自由が。
きついこともあるだろうが、朝倉に受けた仕打ちに比べれば、たいしたことはあるまい。だから、乗り越えられる、きっと。
と、心の中で言っていた。
そして、オレも……。
ふと、そうとも思ったし。思い立ったが吉日、膳は急げとも、思った。
「さて、行くか」
と、零は言った。
「おいおい、やけにせっかちだな」
どうしたんだ、と裕二は零に言った。
「それに、どこに行くんだよ。行く当てがあるのか?」
それを聞いた零は、グレンダを見た。さっきまで笑っていた彼女は、神妙な面持ちになって、頷いて、言った。
「私、自首するの」
裕二は、グレンダの言うことが信じられなかった。なんだって自首するんだ。せっかく逃げ切れたのに。
すると、グレンダは零に言ったことと同じことを裕二に言った。
裕二は口をつぐみ、黙ってグレンダの言うことを聞くしかなかった。
「そか……。あんたがそこまで思っているなら、止めやしないさ」
なんだか残念に思うけど、仕方が無い。彼女の決意は固かった。
その時。零がおもむろに口を開いた。
「オレも自首するつもりだ」
これには、裕二もグレンダも驚いた。
「な、なに? お前まで…。どうしたって言うんだ、アタマでも打ったのか」
「はは、違うよ。オレは正気だ」
零は笑った。その笑みは、寂しそうでもあるが、目は闇の先を見つめているようだった。
「もう、十分走った…」
それだけ言うと、零は黙り込み、何も言わなかった。
グレンダは、零がヒーローからただの男になろうとするのを感じていた。もう私のヒーローは、本当に心の中にしかいないのだ、と思った。
あの時の楽しそうな笑顔。そういうことだったのだ……。
「レイ……」
ぽつりと、静かに零の名を口する。それを聞き、静かに頷く零。するとスカイラインに歩み寄り、ドアを開け、中からバッグを取り出した。
運び屋やストリートレースで稼いだカネをぎっしり詰め込んだバッグだ。
「柳生…」
裕二は、くわえたタバコが燃えて縮まってゆくのも忘れ。零をじっと見ていた。あの時、携帯電話越しに裕二を怒鳴りつけたストリートレーサーは、ただの男になろうとしているのを、グレンダと同様に感じた。
そんな裕二に、零はいきなりバッグを投げつけた。裕二の腹にバッグが当たった。思わずタバコを落としてしまった。
バッグはやけに重みがあって、腹にのめりこもうとしていた。腹に当たって、落ちようとする直前に、手で受けとめられるバッグ。
「やるよ、優勝賞金だ」
そう言うと、運転席に乗り込み、イグニッションをスタートさせる。そのイグニッションスタートは、自由へのスタートだった。
グレンダは、置いていかれては大変と、慌てて助手席に乗り込んだ。
「柳生!!」
バッグを手に、裕二は叫んだ。腹には、まだバッグの重みがのめりこもうとした感触が残っていた。
零とグレンダは、車窓から顔を覗かせ裕二を見ていた。
裕二は、自動販売機の燈す光から出て闇の中へと消えゆこうとするスカイラインのふたりに、ありったけの大声で叫ぼうとした、が。その前に、零が叫んだ。
「何シケた顔してんだ、お前勝ったんだぜ。ここまで、アタマだったじゃないか! お前リベンジ果たしたんだぜ、もうちょっと嬉しそうにしろよ!!」
先を越され、しまった、と思いつつも。思いがけない零の言葉に驚いてしまった。確かに、高速道路でアタマを取ってからここまでずっと前だったけど…。しかしそれは……。
「おいちょっと待てよ! なんだよそれ、負け逃げかよ、仕返しに来いよ、何が十分走っただよ。お前ストリートレーサーだろうが、このアホンダラがあー!!」
歯が食いしばられた、と思った次の瞬間。そう叫んだ。
叫べば叫ぶほど、バッグが重くなってゆくのは気のせいだろうか。
「Good-bye, Muto! It was a good race! He does not forget your thing, either.Good-bye, Good-bye, Muto!」
零に続けとばかりに、涙目で、グレンダも叫んだ。気が昂ぶるあまり日本語が出ず、我知らず英語でまくし立てていた。
裕二も叫び続けている。でも、お構い無しにスカイラインは発進した。
闇の中へと進んだ。
もう、零もグレンダも、裕二を見ていなかった。どんなに声を張り上げても、耳に届く前に、エンジン音に掻き消されその声は届かない。そして、そのままスカイラインは闇の中に消えていった……。
闇の中を通り過ぎれば、自由がある。ふたりの顔は、希望に満ちていた。
スカイラインが消えたのを見て、裕二はようやく叫ぶのを止めた。目頭が熱くなっているようだった。
それを無理矢理無視して、プリメーラに乗り込んで、イグニッションをスタートさせた。
室内に響くエンジンのアイドリング音。アクセルを踏めば、野獣のような咆哮。
それを感じながら、鼻をすすりながら、裕二はぽつりとつぶやいた。
「自由、か……。自由かよ…。なら、オレも自由にやるさ…。オレにはこれしかないんだよ。アホンダラが……」
プリメーラは、スカイラインとは反対方向へと発進した。
裕二にとってこのイグニッションスタートは、この闇の中のどこかにある戦いの場を求めての、スタートだった。
帰り道のない、果てしない道を突っ走る。これこそがようやく見つけた、オレの生き様、なのだから。さて、まずどこへ行こうか、そんなことを考えながらプリメーラを走らせていた。
どこまでも、走り続ける。これもまた、自由なのだから。
END